永久凍土帝国アナスタシアII−10
突如出現した巨大なゴーレムとマンモスたる雷帝、そして雷帝が咆哮でアナスタシアへの怒りを国中に響かせる様子を見て、モスクワ市民は慌てて悲鳴を上げながら逃げ始めた。
逃げ惑う群衆を町ごと押しつぶしながら、ゆったりと雷帝は歩き始める。半壊した宮殿から、通りを、広場を、教会を、すべて踏みつけていく。
大都市の全域から人々の悲鳴が空に木霊する中で、その屋根の上を、先ほどと同じように唯斗はアーサーに抱えられながら進んでいた。
もはやオプリチニキは姿を消しており、敵性体はあの山だけだ。
強化して見てみれば、マンモスの頭部にかろうじて小さく本体らしき人影が見えていた。それでも3メートルはありそうな人物だ。あそこを叩くことになるだろうが、どう見ても、あの肌は攻撃が通るようなものではないだろう。
すると、雷帝への攻撃が始まった。ベオウルフやアナスタシアの攻撃だ。さらに、下総との通信で一瞬だけ見た宮本武蔵の姿もある。
武蔵は異世界の剣士であり、世界を渡り歩くアーサーのような人物だ。たまたまロシアに出て、たまたま立香と合流したのだとすれば、やはり立香の運命力というのはずば抜けて高い。
「ベオウルフの攻撃も武蔵の攻撃も入ってない…立香の一時召喚で出てるランスロットやジャック、ナイチンゲールの攻撃もあんま通ってないな」
「あまりに固すぎる。とにかくあの巨体には、的が大きいのに隙がない」
「っ、ていうか、立香のヤツ、ゴーレムの肩に乗ってるな!?」
よく目を凝らすと、立香はゴーレムの肩に乗ってサーヴァントたちに指示を出しつつ、ゴーレムを操っているようだった。なんという豪胆さか。
「…アーサー、令呪切って魔力を回したとして、どれくらい戦える?」
「一画あたり長くて5分…大がかりな魔力放出を伴う攻撃をすれば3分と保たない」
とりあえずゴーレムたちが戦う市内中心部へと屋根伝いに走りながら、唯斗は方針を考える。あの堅さでは令呪を切っても無駄になる。せめて雷帝に隙が生まれてからでなければならない。
そこに、どこからか音楽が聞こえてきた。この異聞帯では失われたという音楽だ。
生きるために生きることしかできないこのロシアに余暇も娯楽もなく、音楽も芸術も途絶えてしまった。なのに、ピアノの旋律が聞こえてくる。
「…、これは?」
アーサーもそのピアノの音色に戸惑う。
「…レクイエム、ニ短調。怒りの日…モーツァルト最後の作品だ」
「では、アマデウス殿がここに?」
「いや、この演奏は…多分……」
その音色は、あまりに多くの感情が乗っていた。まさに怒り、絶望、羨望、そうしたものがベースとなりながらも、誰よりもモーツァルトを認め、彼を軽んじた者たちを憎んだ、無辜の怪物のもの。
「やめろ、余の心に、入ってくるなぁぁああああ!!!」
咆声とともに、大量の雷撃が首都に降り注ぐ。教会の尖塔や煙突が粉砕されて飛び散り、衝撃で建物のファサードが崩落し、荘厳な宮殿も半壊して煙が上がる。それでも音色は止まない。
同じ怨嗟を持つ者の音色だからこそ、雷帝に効いているのだ。
「怒りの日、その日は、ダビデとシビュラの預言の通り、世界が灰燼に帰す日。審判者が現れて万物が厳しく裁かれるとき、その恐ろしさはどれほどのものだろうか…まさに、この状況の通りだな。俺たちは裁かないけど…この世界を、滅ぼす」
「マスター……」
「…大丈夫。いや、大丈夫じゃないけど、もう俺の中である程度答えは見えた…ううん、ずっと変わらず俺の中にあったものが、今もこれからも変わらないってことを、再確認した。だから、大丈夫だ」
「…そうか。やはり君は強いな」
見上げたアーサーは微笑む。その後ろには、灰色の曇天と黒煙が見えたが、それでもなお、褪せない翡翠は柔らかく唯斗を見つめていた。
そこに、雷帝の声が轟く。