人生のともしび−8
3月下旬の土曜日。
すべての準備を終えた応利と燈矢は、最後に挨拶をしてから、応利の車で東京に向かうことになっていた。
すでに静岡の家と事務所は引き払っており、東京の家と事務所の準備も完了している。あとは自分たちが移動するだけとなっている。
高校時代のインターン中に始まった居候は10年に及び、10年間を過ごした客室もすっかり元の何もない部屋の姿を取り戻していた。もはやこの家に、応利が生活していた痕跡は残っていない。あるのはただ、思い出だけだ。
ここ3年はほとんど自宅にいたとはいえ、ここで寝泊まりすることもあったため、いよいよ今日が本当の離別となる。
応利はまず、燈矢とともに焦凍の部屋にやってきた。燈矢は相変わらず「なんで俺まで」とぼやいていたが、特に拒否することもなかった。
「焦凍、今いいか」
襖から呼びかけると、焦凍が襖を開けて出てくる。すでに燈矢と同じ身長になっており、目線の高さが燈矢を見上げるときとまったく同じだ。
「俺たちそろそろ出発するから」
「あぁ…そうか、今日か」
進学が決まり、いよいよエンデヴァーを否定するためにヒーローになる、という決意を新たにしているからか、焦凍の纏う空気は推薦入試のころからずっと張りつめていた。
もともと感情の機微に乏しかった表情はさらに無表情が多くなっているが、それでも、応利が東京に出発すると聞いて少し寂しそうな様子を見せた。
「入学したらすぐ体育祭だからな。頑張れよ、応援してる」
「腑抜けた試合すンなよ」
この先、焦凍がどういう人生を歩んでいくのか、応利も燈矢も分からない。燈矢には応利がいたか、焦凍には誰もいなかった。応利では役不足だった。だからこそ、高校で良い出会いがあってほしい。
ただそれを口にすることはできないため、今はただ、そう応援するだけにとどめた。
焦凍は無感動に頷く。
「分かってる。ありがとな、応利君、燈矢兄」
「…うん。じゃ、また今度」
今はこれでいい。応利は焦凍に手を振って踵を返す。後ろで襖が閉まる音を聞きながら廊下を歩くと、そっと燈矢が応利の腰を抱き寄せる。
「…大丈夫だろ。いつか、お前にもらったモンに気づける時がくる」
「……ん、ありがと」
ほかならぬ燈矢の言葉だから、意味があった。何もしてやれなかったという後悔は消えないが、せめて、焦凍がいつか過去を振り返ったときに、1人ではなかったと思ってくれたらと願った。
二人はそのまま冬美がいる台所にやってきた。
昼食の準備をしているところだったが、入ってきた二人を見て慌てて手を洗ってタオルで拭く。
「あれ、二人とももう出発?」
「あぁ、最後にエンデヴァーさんに挨拶したらな」
どうやら作っていたのは蕎麦と煮物だったようで、鍋の落し蓋がぐつぐつと揺れている。
「もうちょい火を弱めた方がいいぞ」
「あれ、ほんとだ。慌てるとダメだなー」
冬美はそう笑ってコンロに向かい、火加減を少し緩める。
その直後、ぐす、と鼻をすする音がして、冬美は目元を拭いながら体を起こした。
まさかこのタイミングで泣き出すと思わず、応利はさすがに慌てる。
「おい冬美、大丈夫か…?」
「うん、大丈夫、ごめんね…?応利君がいつも通りに言ってくれたから、なんか、こういうの、もうないんだなって」
どうやら、今の些細な日常の会話こそが、冬美の涙腺に響いてしまったらしい。
別に永遠の別れでもない、またこの家に顔を出したときにできることだ。
だが、家族である燈矢はまだしも、本来応利は部外者だ。この家の人間ではない。独立して生計を立てる今、居所まで離れればいよいよ他人に戻ってしまう。そうそう、この家に顔を出す機会などはないだろう。
二人の前にやってきた冬美に、応利は一瞬東京に行くべきではないのではと思ってしまうほどだった。夏雄だけでなく燈矢と応利まで一気にいなくなるため、寂しさもひとしおだろう。
だが冬美も無事に教師として採用が決まっている大人だ。いつか来る別れの一つである。
「…夏雄のこと、焦凍のこと、冷さんのこと、よく支えてきたな。俺も随分頼っちゃったけど」
「ううん、応利君がいてくれたから、私、ずっと笑えてたよ」
冬美はそう言ってもう一度涙を拭ってから、小さく微笑む。冬美は強い、感情の整理はすでについている。
「…そっか。これからも、なんかあったら遠慮なく頼れよ」
「親父に何か言われたら俺が文字通り焼き入れてやるよ」
応利と燈矢の相次ぐ言葉に、冬美は苦笑する。
「もう、心配しすぎだよ…寂しくないって言ったら嘘になるし、結局普通の家族みたいにはいられなかったけど、二人のおかげでずっと楽しかったし、幸せだった。二人も自分の幸せを大事にしてね」
冬美の言葉通り、結局この家族は、10年間、壊れたままだった。それでも、全員が家族でいようとし続けた。その中で「家族」というものに憧れを持っていた冬美だったが、たとえ普通でなくても、幸せだったと言ってくれた。
応利には、それで十分すぎるほどだった。