人生のともしび−9
最後に応利は炎司の部屋にやってきた。
燈矢は「俺はいい」とはっきり拒絶したため、応利だけが挨拶をすることになる。
「エンデヴァーさん、よろしいでしょうか」
「入れ」
応利は襖を開けて中に入る。畳に胡坐をかいて座っていた炎司の前に正座で腰を下ろす。
「このあと出発しますので、最後のご挨拶に伺いました」
「そうか。引っ越しはすべて済んでいるのか」
「はい、万事つつがなく」
炎司は今年で45歳になる。職場体験で出会ったときは30代前半だったため、改めて見ると年齢にふさわしい貫禄が出ていた。苛烈な性格そのものは変わっていないものの、当時よりはずっと丸くなっているように思う。
「インターン中にこちらでお世話になることになって10年間、本当にありがとうございました」
まだ高校生だったあのときから10年。長いようで短いようで、それでもいろんなことがあった10年間だった。
頭を深く下げてお礼を述べた応利に、炎司は「いや」と返す。
「お前がいなければこの家が今頃どうなっていたか分からない。感謝している」
「え…」
「これからも何かあれば頼るといい」
形式的なもので終わると思っていたが、意外にも炎司はそう言葉を尽くしてくれた。そもそも炎司がこうして真正面から正式にお礼を述べたのも初めてだ。折に触れて謝意は伝えてくれていたが、律儀な男なだけあり、こういうところはちゃんとしている。
それにしても、頼るといい、と言われても、応利のことより焦凍や妻のことだろうと思う。だがこれは節目の挨拶だ、そういうことは黙っておく。
代わりに、応利はこれまでのことを振り返り口を開く。
「…あなたに職場体験のオファーをいただいたあのときから、俺の人生は大きく変わりました。でも、それで良かった。今までのどの場面でも、きっと今の俺も同じ決断を下してきたと思います」
炎司は黙って応利の言葉を待つ。意外と相手の言葉をしっかり聞くのも、上辺だけでは知らなかったこの男の一面だった。
「父親としてあなたは決して褒められた人じゃない、というか普通にダメな部類ですけど。それでも俺は、あなたのことを心から尊敬しています。その強さも、覚悟も」
「俺もお前の強さと優しさ、誠実さを尊敬している。良いヒーローになった」
「それも、エンデヴァーさんのおかげです。本当に、お世話になりました」
そう言ってもう一度頭を下げて、応利は立ち上がる。
部屋を出ようとした応利に、背後から炎司は声をかける。
「応利、」
「はい」
「…息子を、頼んだ」
その言葉は少し、ほんの少しだけ、震えていた。
「……はい、必ず」
それを最後に襖を閉じる。少し廊下を歩くと、曲がり角のところで燈矢が立っていた。
ちょうど、蒼炎が出るようになり「自分を作って良かったと思えるはずだ」と炎司に言った、あの場所あたりだ。
その表情は、一言では言い表せない、複雑な感情の奔流があるように見えた。
今度は、応利が燈矢の手を引いて歩き出す。
この家に残る炎司と焦凍、出ていく燈矢は、まるで10年前に囚われたままの二人と、未来に進みだした燈矢を象徴するかのようだった。
炎司との挨拶を終えたあと、二人は車に乗り込んで轟家を後にした。
車内に会話はなかったが、高速道路の方ではなく、車は近くの病院の敷地に入っていく。
二人は最後に、冷への挨拶をしてから東京に向かうことにしていた。
あらかじめ面会を伝えていたため、受付をすんなり通り、冷の病室へと向かう。
今は心療内科の入院病棟ではなく、リハビリテーション病棟の居室に移っている。
ノックをして中に入る。椅子に座っていた冷は、二人を見上げてふわりとほほ笑んだ。
「お忙しいところ、わざわざありがとう」
「いえ、ご挨拶ですので」
ほとんど一緒にいなかったとはいえ、10年にわたり世話になった家の妻だ。挨拶をしないという選択肢はない。それに、燈矢は東京に巣立ってしまう。
冷は頷くと立ち上がり、そして深く頭を下げた。
「あなたには感謝してもしきれない。見舞いに来てくれる子供たちがいつも楽しそうでいられたのはあなたのおかげです」
「冷さん…、」
「何より燈矢を救ってくれた。私たちの罪なのに、あなたが燈矢を助けて、そして燈矢は私を母と呼んでくれた」
その声には強い意志が乗っているが、同時に震えていた。
燈矢を追い詰めたこと、焦凍を傷つけたこと、冬美と夏雄に寂しい思いをさせたこと、そのすべてを応利に尻拭いさせたことへの罪の意識。母として、女性としての尊厳を踏みにじられながら、それでも冷は子供たちを思い続けていた。
この10年間、冷こそ間近で子供たちの成長を見たかっただろうに、それでも応利にこうしてお礼を述べてくれている。
「…それは燈矢の努力の結果なので。それに、燈矢や子供たちの中に、確かにあなた譲りの優しさを見ました。あなたは10年間ずっと、変わらずあの子たちの母親でしたよ」
清潔なリノリウムの床に涙がいくつか零れる。それを見て、燈矢が冷に寄り添うようにしてその顔を上げさせると、手を優しく握った。
何度か冷の見舞いには来ていた燈矢だったが、こうして触れ合ったのはあの日以来なのではないだろうか。
冷も驚いて燈矢を見上げる。燈矢は小さく微笑んだ。
「大人になった今なら、お母さんが俺のことを愛してたからヒーローになるのを諦めるように言ってたって理解できる」
「燈矢…、」
「俺は応利と生きていく。俺を生かしてくれた応利と、誰かを生かすためにヒーローをやっていく」
二人の白銀の綺麗な髪が、窓から差し込む春の光を反射する。10年前のあの日ととっくに決別した燈矢は、すでに、これからを生きていく覚悟を決めている。
「あんたのそれは罪じゃねェ。だから、前を向いて生きてってほしい」
未来を見ている燈矢だからこそ、過去を向き続ける母に未来を見て欲しいと伝えた。
手を取ってそう語る姿は、どこにでもいる普通の、母親思いの息子のものだった。