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あまり乗らない路線に揺られること15分。だんだんと乗客で込み合ってきた車内は満員だ。
灯水はいつも、超満員になる前に別の空いた路線に乗り換えてしまうため、こうして長いこと満員の人込みにいることはなかった。背の高い焦凍にくっついて過ごすわけでもないので、少し億劫だ。
まだあくびが漏れてしまい、口もとを隠す。その手はほとんどカーディガンの袖に隠れてしまっている。
こうして口もとにやるたびに、爆豪の匂いを感じてしまう。ニトロ交じりの甘い清潔な匂いは、ここ数か月で最も安心するものとなった。カーディガンからうっすらとその匂いが漂うのは、少しドキリとするところもあるが、総じて安心感があった。
そんなときだった。
ふとおもむろに、太ももあたりに手が当たった。それ自体はなんでもなく、意識することもなかったが、当たった手はそのまま灯水の太ももに居座り続けた。だんだん不思議に思うと、その手が、明確に意思をもって足を撫でる。
ぞわりとして、まさか、と思うが、まだ確証もないのでじっと様子を見る。
すると、今度は尻に手が回り、割れ目あたりを撫でられた。いよいよ硬直すると、さらに別の手が前に回り、灯水の自身まで触れてくる。
これは明らかに、灯水を狙った痴漢だ。
そう気づいた途端、耳元に小さくささやかれる。
「雄英の轟くん…タイプだったんだ…こんなところで会えるなんて……」
恍惚としたような男の声に、鳥肌が立つ。気持ち悪さにどうにかなりそうだ。男は耳元でささやいたあと、そのまま耳を舐めてくる。
おぞましさに声が出そうになって、思わず手で口もとを覆う。途端に、安心する匂いを感じた。
(っ、爆豪、くん…!)
こんな満員の車内で個性を使うわけにはいかない。男を変に刺激するのも避けたいし、かといって灯水は単純な力勝負に強くもない。
思わず灯水は、爆豪のシャツの袖をつかんだ。なおも続く男の行為に耐えるべく目を閉じていると、掴んだ爆豪がすぐに動き出す気配がした。
何をする気かと目を開けた直後、爆豪は世にも恐ろしい形相で男を睨みつけたあと、灯水を扉の方へ押しやってきた。ほかの乗客が迷惑そうにしているのもお構いなしで、扉まで来ると、灯水の背中が無機質で冷たい扉に押し付けられる。
そして、揺れる車内に合わせてのしかかってくる乗客たちの圧力をまったく感じないようにして、爆豪は灯水の頭上に両肘をついた。
すぐ目の前に端正な顔立ちが迫り、爆豪の匂いに包まれる。
灯水の顔のすぐ両側に、爆豪の腕があり、二の腕の筋肉が盛り上がっているのが見える。
もう大丈夫だ、という安堵と、助けてくれた嬉しさがまじりあって、強張っていた体が弛緩する。
同時に、あのままだったらどうなっていたのかという恐怖がじわじわと湧き上がってきた。安心したからこそ、正確に自分の身に起きたことを理解して、改めて恐怖を覚えるのだ。
「ば、くごう、くん…」
情けなく震えた声で小さく呼ぶと、ちらりと爆豪はこちらを見やり、すぐにそらして窓の外に視線をやる。それは、爆豪なりの許容の意味だ。
灯水は縋るように爆豪の腰に手を回すと、その左肩にそっと顔を埋める。最も爆豪の匂いを強く感じ、低い体温が心地よい。何よりも、こんなゼロ距離を許してくれていることが嬉しかった。
男として、痴漢されたことはなんだか恥ずかしくて、とても人に言えるようなことではない。焦凍に助けられたとしても、ただ気まずく思っていただろう。
ほかならぬ爆豪だったから、ただ安堵して、ただ嬉しかったのだ。
爆豪に対して、最近強く感じるようになってきた温かい感情は、なんだかよく分からないが、もっともっと強くなっていくような、そんな気がした。