登山と距離感
体育祭の翌日、灯水は一緒に母親の見舞いに行こうと駄々をこねる焦凍を何とかいなして、自室の畳で横になっていた。
体育祭でやはり大きく変わったらしい焦凍は、自分から清算するため、と言って母親に会いに行こうと決めたようだ。ただ少し不安だったようで、毎月定期的に見舞っていた灯水の同伴を求めてきたわけである。
灯水はといえば、焦凍が新たな道を進み始めたことで、自身が存在する理由がぐらつき始めていた。焦凍がひとりでも大丈夫なら、いったい何のために生きていけばいいのか。
もちろん、誰かのため、社会のためというような簡単なことや、自分のため、もしくは存在意義など意味のない概念だというような哲学的なこと、そうした考え方のいくつかは灯水にも容易に思い浮かぶ。
ただ、それを自分のものとして落とし込めるかは別だった。なんせ、かれこれ10年以上、灯水の生きる理由は焦凍で、人として人格形成に重要な時期の大半をそうした価値基準で生きて来てしまった灯水には、急な事態に対処する術などなかったのだ。
焦凍のために生きる、という言葉の「焦凍」の部分に置き換わるものなどすぐ見つかるはずもなく、灯水は軸がなくなって途方に暮れていた。
そんなことを考えながら過ごすうちに、いつの間にやら灯水は眠ってしまっていたらしい。
ふと気づくと、西向きの窓から光が差し込んでいた。まだ焦凍は帰ってきていない。夕方とまではいかないが、そろそろ太陽の傾きを感じる頃合いだ。
起きたところでやることもないな、と思ってまたしばらくぼう、としていると、突然スマホが鳴った。メッセージアプリの通話機能だ。
見てみると、友人として追加していないアカウントからの電話。何かと思ってよく確認すれば、どうやら爆豪からだった。クラスのグループから灯水のアカウントに電話しているのだろう。
「…もしもし?」
『……おいメッシュ野郎、今すぐ折寺に来い』
「はぁ…?」
突然の電話に突然の要件。気の抜けた声しか出ないのも仕方がないだろう。すると、電話口では何やら言い合う声がして、すぐに声の主が変わった。
『もしもし、ごめんなさいね息子が』
「はぁ…」
『私、勝己の母の光己っていいます。バカ息子が…ちょっと、うるさいわよ!…ごめんなさいね、実は…』
そうして騒がしくも爆豪の母、光己が電話の要件を説明してくれた。なぜ母親が、とさらに疑問を深めていたが、その説明で何となく事態は掴めた。
爆豪は、なんと登山が趣味なのだという。これまでも何度か登山に行っているようだが、今まで一人で夜の登山をしたことはなく、今晩それを決行すると突然言われて光己は反対したらしい。
言い合いになった末、光己は友人と一緒ならOKを出すと言い、爆豪がそれに言葉を詰まらせると、「あなた友達いないの…?」と憐れむように言ったそうだ。それが爆豪をキレさせ、そして電話したのが灯水だという。
友達と言えるような関係ではないはずだが、いったいどういうことなのだろうか。
そう思っていると、光己は言いにくそうに頼んできた。
『夜の登山をするなら、折寺から近いところにある低い山で、かつ、林業をやっている親戚が持っている山小屋で一泊して、絶対に日が沈み切った時間に歩かないことを条件にするつもり。整備された山だから危険はほとんどないと思うけど、良ければバカ息子と一緒に行ってあげてくれないかしら』
後ろではまだ爆豪が騒いでいる。恐らく、光己に煽られて引けなくなって、あたりさわりのない灯水を選んだのだろう。
少し考えて、灯水は承諾することにした。
登山をして日の出を見て帰るというプランに惹かれたからだ。体育祭で色々と思うところのあった灯水は、気が晴れるならやってみたいと思えたのだ。