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灯水は口を開く前に、座り直すふりをして少し椅子をずらした。照明に対して椅子の角度が変わり、陰の位置も変わる。そして、灯水は足首の後ろ、アキレス腱のあたりから水を細く出して、フローリングの床の板張りの隙間に流し込み始めた。板の合間の細い隙間を水が張っていく。その方向は、灯水から見て右手に向かっていき、そして部屋の端を通ってカウンターの内側へ進む。その手前で分岐した流れは死柄木の足下を通り、カウンター席の下の影に紛れて部屋の後方へと進み、後ろから徐々に手前へと向かっていく。
毛細管現象という、液体が細い場所を通るときに自然と進んでいく現象を利用していた。その動きが見えないよう、影や水の進む方向を工夫して気づかれないようにする。さらに視線をそらすため、灯水はあえて全員と目を合わせるようにして、語りかけるように口を開いた。


「社会を変えようと行動すること自体はまったく問題ないと思う、けど、やり方に正当性がなければ何をやっても誤りのままだ」

「正当性ってのは今の社会が決めたモンだろ?この、間違った社会にとって正しいことなんて」


死柄木はきちんと考えてはいるようで、灯水の言葉にもすぐに反論した。単なる入れ知恵だけではないようだ。この男も成長しているらしい。


「多くの人間がしている勘違いだ。法ってのは、人を守るためにあるんじゃない。人が守るためにあるんだ。人が法を守って生まれた秩序こそが、人を守るんだよ」

「それに守られなかったのが俺たちだ。そんなのおかしいだろう?」

「おかしいことを変えるには、まずは既存の法の下で正しいやり方でないとだめだ。法を守らなかったヤツは、法に守られない」


法的に正しくないやり方で自身の正当性を訴えても、たとえその先に新たな法と秩序を生み出すことに成功したとしても、同じように法を守らないやり方で転覆される。結局は、法を守らなかった者の言葉だとすべて吐き捨てられるのだ。


「お前たちは人を殺した。人の尊厳を奪った改造人間を作った。そしてたくさんの人を傷つけた。そんなお前らの言葉を、誰が聞く?お前らの言葉でも聞こうとするヤツ以外はこの社会を離れて、無法者だけの国になるだろうね。そんな国で、いったい何がお前らを守るわけ?かつてそれを、ホッブズは『万人の万人に対する闘争』と呼んだ。戦争状態なら何をしてもいいと暴れた傭兵たちによってドイツの一般市民人口が3分の1にまで減った三十年戦争の惨禍を見て、グロティウスはたとえ戦時であっても守られるべき法があると説いて、戦時国際法が生まれた」


長い歴史の中で、多くの人が抑圧された。宗教差別がローマ帝国下でキリスト教徒を虐殺し、民族差別がナチス政権下でユダヤ人を虐殺し、宗教差別と民族差別が合わさってイラクとシリアで多くのシーア派やクルド人を虐殺した。奴隷制度が黒人を苦しめ、それを始めたイギリスとその子孫によるアメリカが構造的に黒人の人権を抑圧した。ベルギーがアフリカの植民地化を開始してから、支配のために意図的に作り出した民族間の優劣が、ルワンダで人口の25%が虐殺されるジェノサイドを発生させた。
平和だった日本であっても、女性は育児と家事に専念するべき立場に固定され、社会進出すればハラスメントの被害に遭い、100年以上改正されなかった刑法177条が改正されても抗拒不能条項によって性暴力は無罪となり続けた。しかしフェミニストは女性差別撤廃を叫ぶ一方で、同性愛者など多様な性のあり方を前提とした主張をすることはなく、女性を女性というカテゴリーに押し込め続けた。愛する人と結婚して幸せになるという当たり前の人権を抑圧されたマイノリティーの人々がいるのに、社会は無関心であり続け、メディアで色物扱いをし、政治家は「伝統的家族観」がそうした人々の幸福追求権という基本的人権に優越すると平然と主張した。


「お前たちは、誰にも傷つけられずに生きるという最も基本の生存権という自然権を軽んじた。それは、今まで人々を傷つけ殺してきた奴らと同じだ。そんなやつらに社会変革を主張する権利なんてない。他人の権利を傷つけておきながら、自分の権利を守ってもらえるだなんて思うなよ」


灯水の言葉が終わる頃には、灯水が板張りに流し込んだ水はほぼ部屋全体に広がった。これで、いつでも氷結を部屋全体に発生させ敵を拘束できる。どうせこんな敵風情には灯水の言葉は響かないし通じない。時間稼ぎでしかなかった。


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