5



ぐす、という音すら漏れる。手に取ったパスポートは、同時に、振り払ってきた母の記憶を一気に想起させた。

不安そうに革命発生のニュースを見る目、政権軍に志願する父親を心配そうに送る背中、首都での戦闘発生によって弟たちを疎開させるやるせなさそうな表情、姉を留学に行かせることを決めて姉を抱きしめる腕。

政権崩壊に前後してパスポートをつくろうと電話する硬い声、通りを行進する反体制派を見るきついまなざし、無個性保護法に憤り震える唇、親衛隊を前に守ろうと立ちはだかる影、リュックにパスポートを隠そうと裁縫する荒れた指。


そして、「生き抜きなさい」と叫んで光った、涙。


都会暮らしのシオンには慣れない農村での苛酷な重労働と暴力や、奴隷として性的な暴力を受け続けた商人の屋敷、憎しみだけで人を殺し続けた最前線の廃墟、荒廃した国土を西へ向かう長い長い道のり、そうした光景の中で、常にパスポートがシオンの心のそばにあった。

シオンを守ろうとしてくれた母が、最も近くに感じられたからだ。


その大事な大事なパスポートが手元に戻って来た安心感が改めて感じられたとき、突然、シオンの首筋に温かい水滴が落ちてきた。
何かと思って体を少し離すと、鋭児郎はシオンを抱きしめたまま、ボロボロと涙をこぼしていた。


「…鋭児郎?」

「なんか、なんだこれ、すげぇ、シオンからさ、いろんなモンが伝わって来たんだ…映像ってか、画像ってか、記憶か?何より、シオンの色んな感情が伝わって…シオンの母ちゃんへの気持ちとか…そしたら、なんか、自然と涙が出てくんだ」


シオンはどういうことかと目をぱちぱちと瞬かせる。映像や画像、そして感情が伝わると言っている。それはまるで、シオンは人の心を読み取るときのようだった。


「僕の、記憶や感情が、鋭児郎に?」

「そういうことだと思う…なんつか…勝手に見ちゃってわりぃ…けど、なんだこれ?」

「…僕の個性、なのかな」


人の感情を読み取るだけでなく、同様に自分のものも伝えられるということだろうか。今まで、それこそ先ほどもだが、シオンは鋭児郎に対して個性を使ったことがすでにある。それでもそのときはこうしたことはなかった。
違いは、感情が強いことだろうか。


「…や、でも今シオンが考えてることも伝わってるぞ。感情が強いってだけじゃ、今のシオンの考えてることも伝わってんのはおかしい」


だが、今こうしてシオンが考えていることすら伝わっているとなると、感情の強さではないようだ。それならば、接触していることかもしれない。
突然のことに2人の感情も落ち着いて、内心のシオンの考えを読んだ鋭児郎は先に離れる。試しに『聞こえる?』と心の中で言ってみると、『聞こえる』と返ってくる。

触れていることではないのか、と首を傾げると、やがてこちらの声は鋭児郎に届かなくなった。


「触れると一定時間は心の接続が保たれる感じか」

「僕も個性のこと深く考えたことなかったから、分からないことも多い。そうかもしれない」


恐らく、触れると双方向的に内心の言葉や感情を共有できるらしい。
共感能力、エンパスということだろう。


「今まで僕が受け取る一方だったけど、渡すこともできるのか」

「なんかいいな、エンパスって。言葉にできねぇ気持ちも直接伝えられる。シオンの気持ちが伝わって、俺、探しに行って正解だったって心底思ったぜ」


やはり鋭児郎はニカっと笑う。おそらく、同じ記憶を見たのなら、凄惨な光景や陰鬱な光景を多く見たはずだ。それでも、鋭児郎はシオンの気持ちが知れて嬉しいと言ってくれた。


「…本当に、ありがとう。鋭児郎が言ってくれたように、僕にとって、このパスポートは大事なもので…本当は、母さんとの最後のつながりだから、なくしたくなかった…!」

「おう。その気持ちも全部伝わったけど、言葉にしてくれてサンキューな。シオンが傷つかないで済んでよかった」


鋭児郎はそう言うと、シオンの背中に再び腕を回して抱き寄せた。ぐっと距離が縮まり、慌ててシオンは個性を解いた。


「…色々見えて、改めて、シオンがどんなにひどい目に遭ってきたか分かった。平和な日本に住んでっから全然、シオンの記憶を見てすら実感はできねぇけど。でも、シオンが十分すぎるほど傷ついてきたんだって感じた」

「…僕だけじゃない。僕は一例でしかなくて、それがソグディアナ共和国の、いや、あの地域全体の現状なんだ」

「それが、戦争なんだよな。日本の敵のことは漠然とひでぇヤツらって思ってたけど、秩序を壊して大義名分振りかざしても、それってただの暴力でしかねぇんだよな」

「超常発生前からずっと、人が繰り返してきたのに、祖国はまた繰り返してしまった」

「…やるせねぇよ、ほんと。なんもできねぇ」


鋭児郎のシオンを抱きしめる腕の力が強まる。シオンはその背中に腕を回すと、同じように力を籠めた。


「そんなことない。鋭児郎は、僕を救ってくれた。守ってくれた。家に受け入れてくれた。鋭児郎が救けてくれたから、僕はまた、笑えるよ」

「っ、俺が、救えた…守れた?」

「うん。今回のことで、もしかしたら僕の心は立ち直れないくらい折れちゃったかもしれない。そうならなかったのは、全部鋭児郎のおかげだ」

「そ、うか…そっか…!!」


今度は、後頭部にまで大きな手が回って、深く抱きしめられた。首筋から鎖骨あたりに顔を押し付けられるようになる。あえて個性で読み取ることはしなかったが、ヒーローに憧れていると語った鋭児郎の姿を思い返せば、こうしてシオンを救えたことは彼にとって特別なことだったのかもしれない。
シオンがどれほど救われたのか、きっと言葉ですべて伝えきることはできなかった。だからこそ、個性によって直接伝えられてよかった。


「やだ、2人して玄関で何抱き合ってるの!?ていうかシオン君素足じゃない!」


心配そうに、呆れたように少し怒る義母の声がかかり、ようやく2人は離れた。きちんとシオンにも注意してくれる彼女の優しさがくすぐったい。そして、改めてシオンは思う。

この家に来れて、そして鋭児郎に出会えて。この幸福もまた、言葉にはできないのだろう。


13/40
prev next
back
表紙に戻る