empath
それから一週間、平穏な日常が続いた。
命の危険がなく、空から弾道ミサイルが落ちてくることもない日々にようやく慣れた頃。
とある金曜日、鋭児郎は帰ってきてからいつも通り筋トレを始めた。それを横目に読書していたシオンは、鋭児郎が雄英高校というところを志望していると言っていたのを思い出した。
「鋭児郎、」
「んー?」
腕立て伏せをする鋭児郎に声をかけると、少しおざなりながらきちんと返事をしてくれた。腕立てくらいなら声をかけても大丈夫だろうと思っていたので、シオンは話を続ける。
「なんで雄英に行きたいの」
「ヒーローになりてぇんだ」
「ヒーロー?」
「…あ、そっか、シオンはヒーロー制度知らねぇか」
そこで鋭児郎は腕立て伏せをやめて床に座った。黒いタンクトップは汗でしっとりとしている。冷えるし途中でやめてまで話をしてほしいわけでもないので、シオンは後でいいと言おうとしたが、何やらワクワクと鋭児郎自身が話したそうにしていたので聞くことにした。
「シオンの国は、個性ってどういう扱いだった?日本は公共の場での使用は禁じられてんだ」
「ソグディアナ共和国は、一切使用禁止。家庭でもそうだし、警察も軍も使わなかった」
「へぇ、珍しいな。でも日本も、警察は個性を武力としては使わねぇんだ。でも、個性を使った犯罪者は超常黎明期から多かった」
「個性犯罪に限って警察は個性使えた。その場で死刑だから、よく道路で犯罪者が死んでた」
「うお、それはそれですげぇな」
唯一合法的に個性が使われたのは、個性犯罪を犯した者をその場で裁くときに警察が執行する場合だ。個性犯罪は内容に関わらず極刑で、裁判にもかけられないことになっていた。だから、意外と個性犯罪は少なかったのである。
「日本は警察が個性使えないとなると、じゃあ誰が個性使ってる犯罪者、日本では敵(ヴィラン)っつーんだけど、そいつを裁くんだって話になる。そこで、警察が来るまでの間に敵を倒すのがヒーローって職業なわけだ」
「職業なんだ」
「ボランティアだった人たちがそう呼ばれるようになって、それが正式な名前になった感じだな。災害とか事故でも個性使えるんだぜ。そういうヒーローの中で俺が最も尊敬してんのが紅頼雄斗で…」
そこからは、これが話したかったんだなという鋭児郎の語りになった。尊敬するヒーローだという紅頼雄斗の漢気に惚れてヒーローを目指すのだという話だった。生き生きと話す鋭児郎は本当にこのヒーローを尊敬しているようだった。
と、そこへ、義母が扉を開けて入って来た。「ノックしろよ」という鋭児郎の言葉は聞かずに自身の本題に入る。
「ねぇ、鋭児郎、不燃ごみ出したんだけど、あのリュック捨てて良かったのよね?」
「へ?リュック?」
「そう。朝まとめておいてって言ったでしょ?そのそばにリュックもあったから捨てたけど、あなたあんなの持ってたかしらって思って…」
義母は鋭児郎に不燃ごみの日だから該当するものをまとめるよう指示し、鋭児郎はまとめてから学校へ行った。シオンが手伝いと勉強を兼ねて買い物に行っている間に回収されたようだ。
嫌な予感がして部屋を見渡すと、目的のものが見当たらない。鋭児郎もそれに気づいたように、顔を引き攣らせていた。
「いや、俺リュック出してねぇ…それ、ひょっとしてシオンのリュックじゃね?」
「…えっ、えっ!?やだ、私、気づかなくて…!ごめんなさい!!」
義母は一気に気づいたのか、顔を青ざめさせた。あのリュックは、シオンの唯一の持ち物だったからだ。
どう探しても、リュックは存在しない。もちろん、リュックの底にしまい直した、パスポートも。
愕然として、心がおぼつかなくなるような、そんな絶望感が押し寄せるが、それよりも動転しそうになっている目の前の優しい人をこれ以上困らせたくなかった。