スタートライン
応利は、ごく自然にゆっくりと目を覚ました。起こされたわけではなく、ふっと意識が浮上するような気持ちの良い目覚めだ。
起きてすぐ、応利は頭の心地よい感覚に気づく。太く逞しい腕が、ベッドの横から応利の頭上に伸びていた。
「…はよ、勝己」
「………もっと起きる前にモーション起こせや、ビビったわ」
「そんな無茶言われてもな」
どうやらあまりに滑らかに起きたことに勝己も驚いたらしい。応利の頭に置かれた大きな手のひらは、ゆっくりと離れていく。
それを、反射的に応利は掴んだ。勝己はぴくりとして止まる。
「……俺さ、ここ10か月、人生で一番頑張った気がするんだよね」
「……そうだな」
そうして言えば、勝己は再び応利の頭を撫で始めた。起きる前、恐らく勝己はずっとそうしてくれていたのだと思う。戻って来た心地よさに息をつく。
昨日、応利は長時間の苦闘の末、なんとか息子、大希を生んだ。無事に出産が終わった安堵からか、その後応利は意識を失うように眠りについた。
勝己も昨日「頑張ったな」と言ってくれたが、今朝もさっそく、労わる様に眠る応利の頭を撫でてくれていたらしい。
「…でも、俺1人じゃ無理だった。勝己がずっとそばにいてくれたから、頑張れた。何より、大希も頑張って出てきてくれた」
「…男1人じゃできねぇもんだな」
「女の人ってすごいよな」
しみじみと、2人は身をもって出産の大変さを知った。世の女性たちがどれだけ大変な思いをしたか、筆頭たる自身の母親には本当に頭が上がらない。
昨日のことを思い出していると、それにしても、と勝己の顔を見つめる。
「…んだよ」
「いやぁ……勝己が泣いてるとこ、初めて見たなって」
「あ?」
「緑谷から、意外と勝己って泣く方だって聞いてたけど結局お前泣かないし」
「あの野郎……」
あれで結構すぐ泣くんだよ〜なんて軽く笑っていた緑谷に、この幼馴染は訳が分からないと思ったものだ。そのわりに、応利の前では泣いてるところなど見たことがなかったし、切島たちも同意だった。
「高1んときの話だろが。俺もまだ若かったんだよ」
「うわ、そんな言葉を勝己から聞くとは」
「うっせぇ」
ちょっと決まりが悪そうにするのが面白くて、応利はくすくすと笑う。勝己はむっとしながらも、相変わらず応利の髪を撫でつけていた。
「…大希が大きくなったら言ってやろ。俺が初めて勝己が泣いてるとこ見たの、お前が生まれたときだよって」
「…そーかよ。勝手にしろ」
勝己は拒否しない。顔を逸らしてはいるが、涙をともなう強い感情だったことを、冗談でも否定しないのだ。そういうところが、応利は好きだな、と思う。
「今何時?」
「今更かよ。午前11時だ。起きられんなら、大希んとこ行くぞ」
「了解。あー、こっからが始まりだもんなぁ」
「怖気づいたか?」
「まさか。期待してるよパパ」
「…、おう」
さすがにママと呼ぶのは憚られたようだ。恥ずかしいだけだろう。自分から煽っておいて応利の反撃にやられた形だ。それにまたくすりと笑って、応利はベッドの上で起き上がる。
さらっと勝己が背中を支えてくれて、何気ない仕草のひとつひとつに、勝己の言葉にしない優しさが見えているようだった。