永遠の一瞬
生後5か月頃、様々な成長を遂げる赤ちゃんは、このあたりから夜泣きが盛んになってくる。
母親の育児ノイローゼがひどくなるのもこのあたりで、夫との仲が険悪になることもある。大変な育児というものの、最初の大きな試練といってもいいのかもしれない。
そもそも夜泣きは、日本の近隣に配慮しなければならない住居環境によって生まれた概念であり、そうした住居環境ではない欧米にはほとんど存在しない考え方である。
「…うっ、」
呻くように起きた応利は、大きな泣き声を上げる息子のところに目元を擦りながら向かった。ベビーベッドの中で元気よく泣く大希を抱き上げる。
すぐに抱っこしない方が良いなんて言われることもあるが、そうは言っても勝己は明日早い。
例によってこのマンションは勝己による高級な物件選定で選ばれたところなので、近隣への影響などを考える必要がないのは恵まれている。だが、早朝から出勤する勝己を起こすのが忍びなくて、応利は今回はすぐに抱っこしてあやすことにした。
ベビーベッド近くのソファーに座ってあやす。今日はなかなか泣きやんでくれない。これも睡眠というものの質が良くなって成長している証なのだが、眠気と戦いながら勝己を起こさぬうちに、と考えていると、やはり煩わしさを覚えない方が無理がある。
「…どした大希、今日は早く寝てくれなー…」
そう小声で呼びかけても大希は泣き続ける。ため息をつきそうになり、息子の上でそんなことをしたくない気持ちにもなって、その葛藤自体がストレスとなる。
そこへ、寝室の扉が開いて勝己がやってきた。
応利の隣にどかりと座る。
「…ごめん、起こした」
「んで謝んだよ」
勝己も眠そうではあったが、低くそう言うと、大希と応利2人の頭をぽん、と撫でて再び立ち上がる。
そしてキッチンへ向かうと、何やら作業を始めた。
少しして戻って来た勝己は、マグカップを二つ手にしていた。ソファーの前のローテーブルにそれを置く。どうやらホットミルクのようだった。
応利と勝己の分だろう。
「…ありがと」
「……ん」
いつもより遅めの返答をしてから、勝己は大希の額を優しく撫でる。当然それで泣きやむわけではないが、勝己は満足そうだった。
「明日、早いだろ」
「つまりお前のが早く起きるだろが」
起こしてしまった申し訳なさから言うと、勝己は何でもないように言った。
勝己の分の朝食を作って送り出すため、勝己より早く起きること言っている。
「…こいつは、奇跡的に生まれたガキだ。俺たちは本来、こんな経験はできねぇはずだった。夜泣きしてピーピー言ってんの見ると、その奇跡ってやつを実感すんだ。だから嫌いじゃねぇ」
「勝己…」
たとえ応利たちが子供を成せることが自然であったとしても、子ども生むと言う事は、あまりにたくさんのリスクを持っている。どんなカップルのもとであっても、元気に夜泣きできること自体が、奇跡なのだと言える。
それを理解できない応利ではないが、自分で自分に言い聞かせるのと、こうしてパートナーに言ってもらえるのとではまったく違う。
泣いている大希を左手で抱えると、応利は右隣に座る勝己の手に自身の右手を絡める。恋人繋ぎのようにすると、勝己は思っていたよりも強く握り返してくれた。
それが嬉しくて、その肩に思わず凭れる。
「なにかわいいことしてくれとんだ。キャパがあるっつっただろ」
「はは、なんだそれ」
左腕と体の右側、両方に温もりを感じる。この何気ない一瞬を、なぜだか応利はこの先ずっと覚えているような気がした。