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光己はアルバムに写る、幼い勝己の姿をそっと指でなぞる。まだ立ち上がれるようになったばかりの頃だろう。その勝己を抱き上げる光己は、今と同じく綺麗な女性だが、化粧もアクセサリーもなかった。
ただ、満面に幸せそうな笑みを浮かべていた。

その写真を眺める今の光己の目には、懐かしさが滲む。


「…女にとって妊娠っていうのは、それはもう、世界がひっくり返るようなものなの。もちろん、生理が来て、自分の体が子供を産むためのできてることは分かってるのよ、それでも、一変するの」

「一変…」


応利にも似たような感覚はあった。ひっくり返るというようりは、動転する、と言った方が正しい。


「私の世界の中心は、それまで私だった。この世界の主役は私で、主演女優の私は、好きな服や、化粧や、趣味を選んだ。食べるものも飲むものも私だけが決めていた。でも子供ができた瞬間に、すべて変わるの。子供が世界の中心になって、すべての判断基準が子供になる。そうしようと思うんじゃない、自然にそうなってるのよ」


いわば自由を失うようなものだ。自分らしく生きていくことができた世界はなくなり、子供が生活のすべてを牛耳るようになる。

学生を卒業して、大人の女性になったあと、光己にとって世界は輝いていただろう。自由にできる時間も金もある中で、自身を囲むあらゆるものが選択肢だった。

ハイヒールやネックレスで存在を誇示し、ネイルやコーディネーションでセンスを表現できた。

美味しそうだと思った脂っこいものや甘いもの、流行りのドリンクや高カロリーなもの、友人たちとの騒がしい飲み会も夜通しクラブで踊りながら飲むカクテルも、すべて光己のものだった。

そういったことを失うのだと考えれば、子供を授かることに大きな負の側面があるようにすら思えるだろう。
しかし光己の目は、そういうことではないと明確に物語る。


「かつての素晴らしい世界を失った。でも、子供に会えた。我が子不在の世界なんて、なんの価値もないの。後悔も悲しみもなかった。そうね、しいていえば…寂しさ、かしら」


時間も金も、子供の養育のあとに配分されるものとなった。あらゆる選択肢は子供基準となり、アクセサリーは消え、ハイヒールはスニーカーになり、服は引っかかることや蒸れることのない品質のものになった。
フルーツやエビ、ブロッコリーなどを好むようになり、夜中にシェイクするのは粉ミルク。

それらはすべて、母と子の2人のものだった。


「勝己が中学生になったあたりから、自分の時間ができてきた。雄英に入ったら、もうヒーロー一直線。神野区とかいろいろあったけど、全寮制になって、そのまま卒業して、ヒーローになって。実は応利君と付き合ってたっていう告白を受けて、そして大希が生まれた。いよいよ、私はまた、世界の中心に戻って来たの。それもしいていえば、寂しい気持ちになるようなことだったみたい」


今、勝己は家庭を持った。完全に光己の手を離れ、光己は1人の女に戻った。それは、寂しいことなのだという。

応利は、ヒーローになった時点でそうした完全な自由は捨てた。社会のために生きるという公僕性のある仕事をするのだ、「私」がある程度制約されることを受け入れたあとに大希が生まれたため、光己ほどの強い感情ではなかったのだと思う。

それでも、自分の世界に降ってわいた大希の存在は、確かに、応利の世界の中心をずらしてみせたのだ。

それがどんなに嬉しくて、不安で、幸福で、怖いことか。体でもって応利は知っている。


「…まだ大希の祖母っつー役目があんだろ、世話になってやんだから、これにて閉幕みてぇなこと言ってんじゃねぇ」


そんな光己に、勝己は言いづらそうにそう言った。勝己にしてはストレートな方で、当然それは光己にも分かっている。光己は苦笑する。


「…もう、でかい図体で世話かけさせてんじゃないわよ」


そう言った光己は、それでも幸せそうに笑った。


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