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「お待たせ〜」


案の定、すぐに集美は戻って来た。何冊かのアルバムを机に置くと、さっそく広げていく。
勝己は大希を抱えたまま身を乗り出した。


「ほら、これが生まれたとき」

「…目元がそっくりっすね」

「そうなのよ〜、やっぱ目元は母親に似るのかしら」


なんだか恥ずかしくて応利は遠目に見るだけだが、勝己と集美は大希とアルバムを並べて比較までしている。目元が似ているだの、はいはい姿が似ているだの、そんなことをあれこれと話し合っていた。
そりゃ勝己も嫌そうにするわ、と納得していると、勝己はアルバムをめくった最後のページに動きを止める。


「これ…エコー写真、すか」

「あぁ……えぇ、エコー写真よ。でも、応利のじゃないの」


集美は懐かしそうに、バウムクーヘンのような形に切り取られた白黒の写真を見やる。そのエコー写真は何度も2人も見たものだった。まだ、胎児というべき時期のものだ。


「応利が生まれる、3,4年前に妊娠していた子よ。流産してしまって、その写真だけが記録として残っているものなの」

「そういえば、そんな話してたな、昔」


昔一度だけ聞いたことがあった。本当はもう一人、上にいたのだという話だ。


「あの頃は、着床前スクリーニングが保険対象外でね。高くてやらなかったんだけど…きっとやっていたら、流産のあの感覚を味わうことはなかったわ。でも、それが正しかったかどうかまでは分からない」


着床前スクリーニングとは、受精卵が子宮に着床する前に取り出して遺伝子検査を行い、ダウン症などの障害を持って生まれてくるかを事前に確かめる検査だ。正確さは従来の羊水検査などより高く、着床前なので母体への影響が最も小さくなる。
応利が妊娠していたときにはすでに保険があったが、そもそも発覚したのは妊娠初期症状が出たあとだったので使うことでできる期間を過ぎていた。

前超常時代の日本では、関西の1つの病院でしか行われていなったような、センシティブな検査だともいえる。当時からすでに欧米では普及していたが。

勝己が言っていたように、応利が勉強したように、妊娠12週までの流産は染色体異常によるものだ。人類はどうやら、障害のある個体が生まれる数を制御するようにできており、生まれていれば障害を持っていたであろう赤ちゃんの大半は流産する。障碍者が増えた、という言葉があながち間違いではないのは、昔なら流産で生まれてこれなかったものが医療の発展で流産確立が下がったためだ。


「私は遺伝が専攻だったから、よく分かってたわ。魚の雌雄が生まれたときに決定していないように、生物には種全体としての大きな調整機能がある。流産だってそんな生命としての機能の1つだって。でもね、そんな理屈、くそくらえって思った」


集美は腹を押さえる。その硬い表情はあまり見ないものだった。


「ベッドの上で、キリキリするような痛みを感じて。本能で、これから起こることが分かった。同時に、とんでもない恐怖と焦りがあった。暗い夜の病室で叫んだの。でも、お腹の中から、赤ちゃんが下りていく感覚がして、今でも鮮明に思い出せる。『だめ、今じゃないのに』って、思ったのよ」


少しだけまとまりをなくした言葉は、優秀な頭脳を持つ母にしては珍しく、それだけ強い感情に揺さぶられたのだと分かる。


「…出たあとは、淡々としてた。看護師さんたちが、軽いフォローのあとに、業務的に話して。きっとわざとね。そうして、子宮を取り出すの。脱力っていうか、虚無感ね。すごかったわ。こんな話、妊娠している応利にはとてもじゃないけど話せなかったけど、大希ちゃんが無事に産まれた今だから、話せてよかったかもしれないわね」


応利にとってこの話は、二つの意味で大きなリアリティがあった。ひとつは、自身が妊娠していたために、その「感覚」があまりに鮮明に追想できたこと。もうひとつは、実の母から聞いた、という身近さだ。
大希を無事に産めたことがどんなに奇跡的なことか、男同士であることもあって、理解しているつもりだった。だがやはり、そういうところは男なのかもしれない。頭でっかちではないが、理屈ではない感覚的な部分での理解は、恐らく今が一番深いのだと思う。


「…そうやって、ただでさえ母親は心労が多いんだから、あんたたちヒーローには頑張ってもらわないとね。社会のことまで気にしないといけなかったら、とてもやってらんないもの」

「…そうだね、守るものが多いけど、うん、でも、全部守るよ」


自分たちが守っている「社会」とはどんなものなのか、改めて痛感するようだった。



***



玄関を出て、2人は応利の実家を後にする。必要なものをいくつか車に積んで、すぐに都内に入る。港区の沿岸部にあるタワーマンション、地下駐車場から荷物を持って大きなエレベーターに乗り込むと、一部のフロアにしか直通しない専用のそれが動き出す。

そして、ようやく帰宅すると、勝己が玄関に荷物を置いたところを見計らって、その背中に抱き付いた。大希は応利の腕の中で眠っている。


「…どうせなら前から来いや、いつまでも甘えんのがへたくそだな」


勝己はそう言うと、向きを変えて応利をその腕に抱き締めた。逞しい体に包み込まれ、勝己の鎖骨に額をつける。
何も言わず、無言の時間が過ぎていく。とっくに日が暮れている廊下は、人の動きを感知すると自動点灯する。同時に、人がいなければ消える。
ずっとそのままだったため、いつしか廊下はまた薄暗くなっていた。


「…こわい、勝己」

「……あぁ。俺もこえーよ、あんな話聞いたらな。お前は尚更だろうな」


実の母の話を聞いて、まだ今じゃないのに、という落ちていく感覚が追想できてしまい、応利は漠然とした恐怖に包まれていた。思わず無意識に下腹部を押さえてしまう。実際に体験した集美は、どれだけの恐怖だったことだろう。


「母さんが…どんな気持ちだったんだろって思ったら、なんか…」


じわりと、目元に涙がにじむ。それは勝己も冷たい感覚で気づいたようだ。
すると勝己は、おもむろに応利を離した。自然と応利は勝己の顔を見上げる。

同時に、照明が動きを感知して点灯し、廊下は温もりのある光に照らされた。


「俺の母親は、自分の世界を失うことを決意して俺を生んだ。応利の母親は、悲しみを乗り越えてお前を生んだ。今、俺も、大希も、ここにいる。俺たちは、3人でこれからを生きていく。だから、前を向け」

「うん、うん…!」


世の母親たちは、いったいどれほどの決意と覚悟で、命を生み落としているのだろう。その深い愛情と強さの、どんなに尊いことか。

この世界で最も偉大な人間は、きっとそうした決意を決めた母親たち一人ひとりなのだと、応利は思うのだ。


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