大いなる希望
「浮かない顔ですね、高橋アナ」
「…分かってても言わないのがマナーでしょ」
セミロングの黒髪を癖のように撫で、高橋はため息をついた。
大日本放送の女子アナとして働き始め1年、理想と現実の違いにはもう慣れた。疲れを見せない化粧を覚え、高橋はすっかり業界の仲間入りをしているようだ。
主にヒーローの現場インタビューをする高橋は、新人ながらそれなりに評価されていて、仕事は順調だ。しかし、報道の現場の泥臭さや、人間関係の腐敗は、高橋の心を確実にすり減らしていた。
とりわけ最近は、仕事に慣れて余裕ができたからだろう、本当にこれでいいのかと思うことも多くなった。
「あんたはさ、カメラマン志望だったんだっけ」
「そうですよ!そのために専門学校入りましたし」
話しかけて来た男は、よくクルーを組んで現場に出るカメラマンだ。重いカメラを肩に背負う彼は、望んだ道を歩んでいる。
「私さ、本当はカメラマンになりたかったんだ。写真家の方ね」
「そうなんですか!趣味はカメラって言ってましたもんね」
「仕事にしたかったの。でも、親にも周りにも現実的じゃないって言われて、私自身もそう思って、アナウンサーやってる」
「それで浮かない顔してたんですね」
「…これでいいのかなぁって。やりたいことやらないで、このまま小手先で仕事して生きていくのかなって。それがふつうって分かってても、ちょっと思っちゃうんだ」
仕事に慣れて来たからこそ、これでいいのか、夢を夢にしていいのかと思ってしまう。それは、うまくいっているからこそ思うことで、恵まれたことだとも理解していた。誰もがやりたいことを仕事にしているわけでもなければ、やりことが向いているとも限らない。
とりわけアナウンサーの仕事は、誰もが憧れる仕事で、高橋のやりたいことではなかったが向いている仕事だとも思っていた。単なるわがままだ。
そう分かっているからこそ、どうにもならなくて、つらいのだろう。
「…ま、今の仕事も楽しいし。やるからには全力だから、あんたもついてきてよ」
「分かってますよ!」
まずは目の前の仕事に真摯に取り組むべきだ。潰れるのも早い業界だからこそ、高橋は気を引き締めるべきだと思いつつ、無意識にため息をついていた。
***
大希のハイハイが様になって来た頃、応利は勝己に時間があるときに公園にでも連れ出すよう指示された。そろそろ外にも慣れさせるべきだとのことで、公園で遊ばせるわけではないが、一緒に歩いて刺激を与える必要があるらしい。
すっかりプロ旦那と化した勝己のおかげで、応利はかなり楽な子育て休暇を過ごしているのではないかと思う。
勝己の言いつけを守るため、応利は大希の様子を見て、ちょうど良さそうな機嫌を見計らっては外に出るようになった。今まで、ただ外に出て散歩するような時間などあるわけもなかったため、何をするでもなく街を歩くのは新鮮だ。
それに、子育てのために家に閉じこもっているのも、ヒーローとして外を駆けまわることが多い応利には、知らずフラストレーションだったようだ。恐らく勝己の指示は、大希のことだけでなく応利自身のためでもあったのだろう。
初夏の日差しとなった今日も、応利は抱っこ紐で体の前に大希を抱えて外に出ることにした。空気に夏を感じるような暖かさで、平日ではあるが人の出は多い。応利は半そでのシャツに薄いカーディガンを羽織り、七分丈のパンツを履いて初夏らしい私服でその中へ繰り出した。
東京湾岸部の高層マンションに暮らしているため、歩けばすぐに臨海部の小奇麗な公園に出ることができる。地面からして人工の街だ、公園の木々も人の手で植えられたため、どこか自然ではないように思える。それでも、都会の真ん中で豊かな緑に囲まれて、その木々の向こうに高層マンションの連なりを見ながら歩くのは気分がいい。たまに海からの風に乗って潮の香も感じられた。
公園はかなり広く、地面は焼きレンガ調のタイルに覆われた道が芝生の合間を縫っている。木々とオシャレな街灯、曲線のあるベンチ、そしてクレープを売る移動屋台など、平日にしては賑わっていた。大半が子供連れだ。どこか品があるのは、辺りが高価な物件のひしめく臨海部のタワーマンションだからだろう。
ゆっくりと、応利も抱っこ紐に支えられた大希を抱えて歩く。特に顔を隠しているわけではないが、周りの人々はこちらに声をかけてくることはしない。そこも金持ちらしい配慮だった。応利を見つけてはしゃぐような年齢の子供は、この時間保育園や小学校などにいるため、未就学の幼い子供しかおらずそれもありがたい。