人の彼るな麗華−5
9月中旬、応利は両親と並んで玄関ホールに立っていた。扉の正面に立ち、横には控えるように使用人たちも立っている。
今日は轟家の当主夫妻と焦凍がやってくることになっていて、正式な招待であることから勝己は側にいない。こういう場ではまだ置かせてもらえないのだ。パーティーのような個人での自由時間があるときには側に控えさせられるが、客人が来るようなときやずっと集団で動くときには勝己は待機となる。
「轟様、ご到着です」
少しして、定刻通りに使用人の声がして扉が開かれる。玄関の前には車が停まっており、そこから轟夫妻と焦凍が姿を現す。
和風の邸宅に暮らすだけあって、轟家は和装だった。着物姿の3人がルネサンス様式の圧気
邸に入ってくる様は、まさに時代を感じるものだった。
代々英国かぶれなところがある圧気側は全員英国風の服装で、応利もシャツとベスト、上下紺色のジャケットとスラックスでループタイをしている。
「ようこそ、轟さん」
「お招きいただきありがとうございます」
轟家当主、炎司は貼り付けたような笑みで言うが、その貫禄もあって威圧感はぬぐえない。だが、華族のどろどろとした社会を公爵として生きてきた父にはそれしきのことは問題ではない。
形式的な挨拶を揃って済ませると、さっそく昼食会となる。
食堂に向かうと、使用人たちが全員分の椅子を引く。その前に立って、椅子が押されるのに合わせて着席した。絵画と清楚な装飾が施された壁側には母と轟夫人が座り、それに向かい合うようにして父と炎司が座る。焦凍も壁側で、その向かいに応利だ。
握手をするときは夫人から、壁側に座るのは女性、常に手はテーブルに置き、ナプキンを膝に。すべては欧州式のプロトコル。
運ばれてくる洋食のコースを食べながら、和やかな空気を互いに演出して話題を進めていく。パーティーでもそうだが、こうした会食においても、政治や経済、宗教の話はタブーである。これもまた欧州社交界の常識。英国ではやたら天気の話題が多いのだが、それもこの仕来りに基づくものだ。
「そういえば、焦凍君も留学に行っていたのだったね。パリだったかな?」
「はい、12歳から、2年ほど」
「あら、それなら応利と同じね。ロンドンだったから、お会いすることはなかったでしょうけど」
代々フランス留学をする轟家に対して、圧気家は英国へ留学するのが普通だった。応利も1922年から1924年の頭までロンドンに留学しており、実は関東大震災も経験はしていない。帝国學院の級友である焦凍と、ほとんど同じような人生を辿っているところだ。
「花の都はどうだったかな?」
「欧州主要国の首都としては、唯一戦火を免れただけあって、それは美しい街でした」
「応利さんがいらしていた霧の都はどうでしたの?」
「かの有名なウェストミンスター周辺は形を留めておりましたが、テムズ河川沿いや中心部は更地でした。学校のあった郊外は無事でしたが」
蒸気駆動の飛行船による空爆や蒸気爆弾、誘爆火災などによって、欧州の人口10万以上の都市の8割が焼失した。ロンドンも市街地の半分以上が壊滅し、フランスもパリ以外の大都市はすべて消滅。ベルギーやオランダ、セルビア、ポーランドに至っては全都市が焼失している。中立宣言していたスペインや北欧も巻き込まれて壊滅状態だった。ドイツも中規模以上の都市はすべて破壊され、ロシア帝国は国家が崩壊してソ連となった。
1919年の終戦からわずかしか経っていない中での留学ではあったが、英国は基本的にどんなときも平穏を崩さないstudy to be quietの精神であるため、意外と普通だったのを覚えている。
本当はもっと、焼け野原と化したイングランドの光景を見ているし、恐らく焦凍も焦土フランスの光景を見ているだろうが、そのようなことはここでは言えない。
その堅苦しさが、息の詰まるようだった。