004 あやまち
見慣れたアパートが見えてくるとかばんからごそごそと鍵を取り出した。有希子ちゃんには一人暮らしの条件としてオートロックやら5階以上などと最低限のセキュリティを言い渡されたが、そんな家賃の高さそうな所にはとてもじゃないが住めそうもなかった。それに工藤邸みたいに立派ではないがこんなアパートでも住めば都だ。
何よりこんな野暮ったい女、狙う相手もいないだろうにと有希子ちゃんのいきすぎた心配性を笑っていればアパートの階段の横、暗がりの中から一人の男がスッと音もなく現れ思わず身を固める。切れかけの電灯にチカチカと照らされてようやく見知った顔だと分かるとほっと肩を落とした。
「なんだ、零か…」
「てっきり誰かと一緒に帰ってくるとばかり思っていたが一人だったのか」
思わぬ言葉にぽかんと口を開けたまま立ち尽くす。
「え…今日誰かと約束してたっけ?」
まったく記憶になくてかばんからスケジュール帳を取り出そうとしていれば、いつの間にか距離を詰めた幼馴染幼にその手首を強い力で掴まれた。
「松田に聞いた。彼氏ができたんだって?」
「はぁ?」
射抜かれるような鋭い視線にようやく夕方のことを思い出す。松田さんめ…あのふざけたメールを本当に送っていたのかと内心舌打ちする。
「あれは…」
彼氏じゃなくて…と、そう続けようとしてふと零を見た。昼間、散々こいつに男なんてできるわけないとバカにされたのだ。少しだけ彼氏ということにしておいてもいいかもしれない。…うん。
「さ、さすが…情報が早いことで…」
なんてぎこちない笑みで言ってみたけど、その声は今にも震えそうだった。昔からおそろしいほどの洞察力と観察力を兼ね備えたこの男の前で嘘がバレなかったことなど一度もないが、意外にも零は掴んでいた手首の力を強めるだけだった。ちらりと顔を上げればいつもの冷静さは見えない。
「明日デートに誘われたんだってな…もちろん断ったんだよな?」
「え…」
思わず後ずさりたくなるようなオーラを発しながら掴んでいた手首にさらに力を込められ顔を顰める。
「な、なんで断らなきゃいけないのよ…」
大体、そんなことを言われる意味がわからない。零だってこれまで何人も彼女がいたが私が口を出したことなんて一度もない。幼馴染とはいえそこまで干渉される覚えはないと、そう口にしようとしたがますます強まる力に眉根を寄せる。
「いっ…痛い、痛いよ零…」
「悪い……」
ハッとして手を離した零は、あからさまにばつが悪い様子で視線を逸らした。チカチカと切れかけの電灯が点滅するアパートの前で、居心地の悪い沈黙が二人の間に落ちたが先に口を開いたのは零の方だった。
「…なぁ、部屋に入れてくれないのか?」
「女の子の一人暮らしなんですけど?」
「俺たちの仲だろ…大体、ここに何時間待たされたと思ってるんだ」
でた、零のジャイアニズム。そう思いながらも確かに零の手は異様に冷たかった。諦めたように息を吐き出すと黙ってアパートの階段を上りはじめる。もちろんその後を零がついてくるのを承知で。
「なんで携帯に連絡しなかったの?」
「二人で帰ってきた現場を押さえようと思ってな」
どんな男かこの目で確認しておきたかったしと、続く物騒な言葉にこんなんで本当に警察官になれるのかと不安になる。鍵をあけながらちらりと後ろを振り返れば零は部屋に入るのが当然という顔をしていてますます頭が痛くなった。
「お茶淹れるから座ってて。零はいつもの紅茶でいい?」
「ああ…」
一人暮らしの狭い部屋に通すと自分はあたたかい紅茶でも淹れようとキッチンでお湯を沸かしていたが、しばらくしてリビングに向かったはずの気配を背後に感じて驚いて振り向こうとした瞬間、褐色の腕に強い力で抱きしめられる。
「わっ…なに…」
「…少しだけ、少しだけこうしてていいか」
思わぬ抱擁と珍しく余裕のないその声に体は一瞬にして固まった。昔から零は余裕がなくなるとこうして私にだけに弱みを見せることがある。まるで出会った頃のように、一人にするなと…そう訴えるように。
「ナマエ…」
したい、と耳元で切なげに囁いた零は私の返事を聞く前に首元に噛み付いた。
「え、ちょ…待って…」
流石にその言葉は聞き流せなくて咄嗟に体の向きを変えて抵抗しようと試みたが、伸ばした手は簡単に抑え込まれて一纏めにされてしまう。その間も首筋や鎖骨にキスを落とされ力が抜けたようにキッチンマットに座り込むとそれさえも追いかけるように零の体が覆いかぶさってくる。幼馴染のひどく余裕のない顔を見ていられなくて固く目を閉じると一瞬だけ零の動きは止まったが、それでも腕の力が弱まることはなかった。
そのあとはなし崩しだ。
明日着ていく服を今夜中に決めたかったんだけどな…なんて徐々に服を脱がされながらぼんやりそんなことを考えた。
***
目が醒めると外は薄暗かった。まだ意識は半分微睡んでいて素肌のまま近くの温もりに擦り寄るとそれに反応するかのように背に回っていた腕に力がこもる。零から漏れるわずかな寝息に胸の奥が苦しくなった。そっと体を起こすとさらさらとした明るい色の髪の毛を撫でる。
こうして肌を重ねるのはこれが初めてじゃない。付き合っているのかと思うこともあったが、零は外ではそんな素振り一切見せないしいつの間にか他の女の子と付き合っていた。多分、そういうことなんだろう。この中途半端な関係におそらく先はない。傷を舐め合うようなものだから。あまりよろしくない関係だなと思いながらも多分また拒めない。
結局、わたしも零のことが…
そこまで考えて、強制的に考えるのをやめる。
零の背中はいつも遠い。14年前の事件の真相にたどり着くのだと目的の場所に向かってただまっすぐに前だけを向いていた。どんなに悲しいことがあっても怯むのは一瞬で、次の瞬間には再び拳を握りしめて歩み出す。そんな強い彼の隣に並びたいとは思わないけど自分はどこか宙ぶらりんな気がしていた。だからこうしてたまに振り向いて、弱い姿を見せてくれる瞬間が、悔しいけどたまらなく嬉しいのだ。
どうやら一人にしてほしくないのは私の方なのかもしれない。
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