005 運転ゆっくり
午前の授業を終えて少し早めに待ち合わせのカフェに向かうと約束の相手は既にテーブル席に座っていた。コーヒーを飲みながら新聞を広げる諸星さんの姿に思わず瞬きを繰り返してから「遅くなってすみません」と呟けば、「まだ約束の時間の30分も前じゃないか」と笑われてしまった。その笑顔にやっぱり癒されてしまう。
実はここに来る前、幼馴染からのもの言いたげな視線を背中いっぱいに受けて胃はキリキリと痛んでいた。いつものことである。それでも昨日みたいな余裕のない顔を見たのは初めてで、なんだか後ろめたい気持ちになっているのも事実だった。そこまで考えてぶんぶんと首を横に振る。
いや、忘れよう。零のことは。
少々乱暴にコーヒーカップを置いてため息を漏らせば、目の前に座っていた男はそんなわずかな吐息さえ目敏く見逃さなかった。
「考え事か?」
「あ、いえ…」
何でもないですとぎこちなく笑みを返すと諸星さんはそうか…とそれ以上追及してこなかった。ああ、大人の男性だ。普段、私の周りにいる男たちが子供すぎるだけかもしれないが諸星さんの落ち着いた雰囲気は新鮮だった。
「ところで午後の予定は?」
「今日は授業もバイトもないので、特にないですけど」
「そうか…なら少し遠出をしないか?」
「遠出、ですか?」
「ああ、海辺にいいレストランがあるんだ。少し浮かない表情をしているようだし気分転換も兼ねて行ってみないか?」
「は、はぁ…」
かつてこんな風に誘われたことがあっただろうか。元気がないといつも松田さんや萩原さんに飲みに行くぞとサラリーマンが集うような大衆酒場に連れていかれたが、すっかりそんな扱いに慣れてしまってこういう時どう反応すればいいのか分からない。気の利いた返事もできず呆然と頷けば、そんな私を見て少しだけ口角をあげた諸星さんが立ちあがった。慌ててその後を追いかけようとした瞬間、ふと彼が持っていた新聞記事に目が止まる。昨夜、何者かに殺害された政治家のニュース。一面を飾るトップニュースの被害者の顔写真にはとんでもなく見覚えがあった。
「どうかしたか…?」
「い、いえ…」
咄嗟に笑って誤魔化したが、震えだした両手を隠すのに必死だった。写っていたのは紛れもなく昨日ニュースで顔を見た瞬間、様々な情報が脳内に溢れ出した政治家の男。最後に浮かんだ怪しい取引現場を思い出す。もしかしてあれは幻ではなかった…?そう思うと途端に恐ろしくなって嫌な汗が背中を流れる。諸星さんの車に移動してからも震えは止まることはなかった。
「本当に大丈夫か?」
「は、はい…」
「まだ顔色が優れないようだな。運転はなるべくゆっくりでいこう」
そう言って諸星さんは過保護にも運転席から身を乗り出して私のシートベルトを締めるとそれが緩んでいないか何度も確認してから車を発進させた。言葉通りゆっくりと進む車の中でなんとか心を落ち着かせようと試みたが、なかなか男の顔が頭から離れない。ただの偶然かもしれないしもう二度とあの現象も起こらないかもしれない。いや、できればもう二度と起こらないでほしい…
必死にそう願いながら窓の外に目を向けると、郊外の国道を進んでいた車の先にどこまでも続く青い海が広がった。久しぶりに見る景色にわずかに感嘆の息を漏らしそうになったが、隣に座っていた諸星さんが何度もちらちらとバックミラーを確認していることに気がついた。つられて後ろを振り返ると一台の黒いワゴン車が見えた。随分とガタイのいい車だな…なんてそんな事を考えながらナンバーを目にした瞬間、再びドクンッと激しい動悸に見舞われる。あれほど起きないで欲しいと願っていた現象が今まさに起ころうとしていた。
────薄暗い倉庫、黒いスーツを身に纏った男たち、薬莢を残さないためのリボルバー式の銃に、スーツケースに入った怪しい薬品。見たこともない情報が次々に脳内に溢れる感覚に痛む米神を押さえながら声を漏らすと諸星さんは前を向いたままその異変に気付いた。
「どうした…具合が悪いのか?」
「いえ…なんだか、最近変で」
「変?」
「突然、知らない情報が頭の中に溢れ出すんです。今もうしろの車のナンバーを目にしただけで知らない黒ずくめの男たちの顔が…」
一人で抱え込むには限界だった。まだ出会って間もないが、この優しい人なら力になってくれるかもしれないと、そんなわずかな希望を抱いて打ち明けたが、ハンドルを握っていた諸星さんは急に顔つきを変えた。
「おい…少し飛ばすぞ。舌を噛むなよ」
「え…」
まるで別人のような低い声でそう呟いた諸星さんは深くアクセルを踏み込んだ。独特のエンジン音を響かせて車は加速しその重力で上半身は深くシートに沈み込む。
「あ、の…諸星さん…少し飛ばしすぎでは…」
スピード落としません?と控えめに提案してみても聞き入れられるはずもなくジェットコースターでしか感じたことのない感覚に恐怖で頭は真っ白になる。車はひたすら海沿いの道を走っていたが直進になるとさらにスピードを増した。顔色ひとつ変えずにハンドルを握っていた諸星さんは前を向いたままちらりとこちらに視線を向けた。
「シートベルトをできるだけキツく締めろ…」
「へ?」
「そのあとすぐに窓を開けるんだ」
急にそんなことを言われても恐怖でサイドグリップを握りしめたまま動けずにいたが、すぐにはやくしろと促されてシートベルトをキツく調整すると言われるがままに窓を全開に開けた。ものすごい勢いの風が車内に流れ込んできて文句のひとつでも言ってやろうと運転席の方に顔を向けた瞬間、車はガードレールを突き破って海へと真っ逆さまに落ちていった。
「えっ…えええ!?」
────何が運転ゆっくりだ、殺される!
半泣きでそんなことを考えながら必死に次にくるであろう衝撃に耐えた。車体が海面にぶつかると想像していた以上の揺れにもはや声さえ出ない。同時に全開にしていた窓から流れ込んでくる海水にすっかりパニックに陥った。うん、これはきっと夢だ。
しかしそんな私の思考を遮るように強い力で腕を掴まれる。沈み始めた車の中で諸星さんは素早く二人分のシートベルトを外すと後部座席から小型のタンクのようなものを取り出し私を見据えた。
「…覚悟はいいか」
「は?」
「あえて窓を開けておいたんだ。沈む速度は速いぞ」
この男は何を言っているんだろうと瞬きも忘れてその顔を見つめる。その間にも窓から海水は流れ込み、車体は前方に傾いていった。
「うそ…うそ…なにこれ…」
やっぱりこれは夢だ、悪い夢でも見ているのだと現実逃避していると諸星さんは私の腕を引いたまま既に半分ほど沈んでいた車内から勢いよく海中へ泳ぎ出た。すぐに海面へ出ると思われたがそのまま深く潜っていく彼に水中でぶんぶんと首を横に振る。反対の手にはシュノーケリングで使うようなレギュレーターとマスウピースが一体化しているような小型タンクが握られており、それを交互に渡され息をしろと促されるがこの状況でうまく空気が吸えるわけもない。
人は冷静さを失うと体は沈むというがその通りだった。溺れてパニックに陥った人間は子供であろうと成人男性をも巻き込んで溺れてしまうと聞いたことがあるが、この男は必死にもがく私をまるでなんでもないかのように押さえつけた。やっぱり殺す気なのかと思ったが、こうしてマスクを押し付け、息をするよう促すのだからますます意味がわからない。まさか苦しませて殺すつもりなのだろうか。そう思うと余計にパニックに陥りうまく息ができない。
視界はどんどん薄れていき体の力も徐々に抜けていった。目の前の男はそんな私を顔色ひとつ変えずじっと見ているだけだった。
(この男…鬼だ……)
そんな事を考えながらついに私は意識を手放した。
────彼に対するこの第一印象があながち間違いではないということを、後々、嫌というほど思い知らされていくことになるとは、やはりこの時の私は想像もしていなかったのだ。
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