006 答え合わせ
遠くで波の音が聞こえる。
ああ、いつだったか零と唯と松田さんたちも誘って海に行ったっけ…。また皆で行きたいな───なんて、朦朧とする意識のなかで懐かしい記憶を手繰り寄せながら薄っすらと目を開けるとぼやけた視界のすぐそこに誰かの顔があった。湿った唇から強制的に空気を送り込まれる感覚。
──── 零、だろうか。
零が泊まっていく日は決まって彼が先に起きると私の前髪をそっとかきあげそのまま額にキスを落として帰っていくのを私は知っていた。一体どんなつもりでそんなことをするのか、いつか聞いてみようと思っていたのだ。
「れい……?」
徐々に視界がはっきりしてくると飛び込んできたのは見慣れた色素の薄い髪ではなく、漆黒だった。
「ッ─────!」
咄嗟に相手を勢いよく突き放そうとしたが次の瞬間にはゲホゴホと海水を吐き出した。喉の奥が焼けるように痛む。それを見た男は大して驚いた様子もなく私からゆっくり離れるとふむ、と顎の下に手を置いた。
「ある程度は想定していたが、素人と潜るとなるとやはり一筋縄ではいかんな…」
しれっとそんなことを言い放つ男をいまだ地面に手をついたままキッ睨みつける。
「諸星さん…あなた一体…」
「赤井だ…」
「え…」
「諸星大は偽名だ。本名は赤井秀一という」
「はぁ…赤井…さん」
「なんだ」
「あなた…一体、何者なんですか?」
そう言うと諸星…いや、赤井と名乗った男は濡れたジャケットの内ポケットから黒い二つ折りの手帳を取り出した。金色に輝くバッジが光を放つ。
「FBIだ…まだ新人捜査官だがな」
「え…えふ…FBI?」
映画やドラマでしか耳にしたことのない名前に目を丸くする。FBIといえばアメリカ合衆国の警察機関の一つ、連邦捜査局というやつだ。バッジを見せられてもにわかには信じがたくて怪訝な顔を向ける。
「どうしてFBIがこんなこと…」
「上を見てみろ」
間髪入れずに返ってきた答えに顔をあげるとそこは先程ガードレールを突き破った車道のあたり。奴らに気付かれるなよ…と続く赤井さんの言葉に警戒して、覚束ない足取りで立ち上がると近くの岩肌に身を隠すようにして顔だけを覗かせた。
車道のそばには黒いスーツを着た男たちが数人立っていて、車が落下したあたりの海面をまるで何かを探すかのように見下ろしていた。携帯片手にどこかへ連絡をとっていた一人が帰るように合図すると男たちは黒いワゴン車に乗り込みそのまま去っていった。
「連中が狙っているのはお前だ」
「は…」
背後から掛かった言葉に弾かれたように振り返る。
「もしかしてつけられていたんですか?」
「ああ…」
赤井さんは胸ポケットから煙草とマッチを取り出し火をつけようとしたが海水で湿ったそれは火なんてつかなくて小さく舌打ちを漏らした。
「まぁ、この高さから落ちればさすがに奴らも死んだと思うだろう」
「…思いますよ。正直わたしも死んだと思いましたもん」
まさか後部座席に酸素ボンベまで準備していたとは思いもしなかったけど。まるでこうなると最初からわかっていたかのような用意周到さだ。
「でも、どうして…私なんかが…」
両親は幼い頃に死んだし天涯孤独の身。誘拐されたところで払える身代金などない。私を狙う理由がまるで分からないと、そんな考えが顔に出ていたのか赤井さんは濡れた煙草を懐に戻しながらじっと私の顔を見つめた。
「突然、知らない情報が頭の中に溢れ出すと言っていたな」
「は、はい…」
「君がその頭にダウンロードしてしまったのはインターセクトというものだ」
「インターセクト?」
聞き馴染みのない単語に首をかしげる。爆弾の仕組みや解体に詳しい萩原さんたちからいつも専門的な用語を聞かされてはいたがそれでも聞きなれない言葉だった。
「…悪いがあまり時間がない。移動しながら説明させてもらうぞ」
腕時計をちらりと見た赤井さんはその逞しい腕を私の肩に回して不安定な岩肌の上を歩き出した。反対の手で携帯を取り出すと松田さんに負けないくらいの速さでどこかにメールを打ちながら事の次第を語り始めた。
「数日前、とある組織の機密データがFBIのエージェントによって盗み出された」
「はぁ…」
「そしてそのデータは一人の女子大生へと送られた」
「へ、へぇ……」
「ということは、その女子大生は組織が所有するすべての機密データを手にいれたことになるな」
まるで映画みたいな話だなとどこか他人事のように聞いていたが赤井さんはふいに足を止めると私の顔をじっと見つめた。とても嫌な予感がする。
「…それが君だと言ったら驚くか?」
──────驚くわ!
そう叫びたかったがぐっと堪える。
「そっ…そんな馬鹿みたいな話、信じられると思いますか?」
赤井さんは少し考え込むような素振りを見せたあと再び歩きだした。
「数日前、兄から奇妙なメールが届いただろう」
「ああ、はい…」
「あれは本来、我々FBIの元に送られてくるはずのものだった」
「どうしてそんなものが私に」
「さぁな…そればかりは俺たちも分からん。なぜ彼が命懸けで盗んだデータを妹の君に送ったのか…まぁ、それなりの理由があるんだろう」
「ま、待ってください。その言い方じゃまるで兄がFBIみたい…」
「どうやら君は、本当に何も知らないようだな」
呆れたように言われて思わず眉根を寄せる。知らないもなにも兄は何も言わなかった。
「私を置いて出て行ったのはもう10年以上も前のことですし、たまに思い出したように送られてくるのは楽しげなメールばかりで…そんな兄がどうしてFBIなんかと」
「彼自身がFBIのエージェントだったからに決まっているだろう」
「う、うそ…!兄はそんなこと一言も…ずっと世界を旅しながら自由気ままに生きてるものだとばかり…」
そう言い切ると赤井さんが鼻で笑った気配がした。
「我々のエースが気ままな放浪者か…。だが、君を心配させたくはなかったんだろうな。その気持ちは同じ兄として分からんでもない…」
まさか兄がそんな秘密を抱えていたなんて思いもしなくてすぐには受け止められそうもなかった。そんな素振り、本当に一度だって見せたことはなかったのだ。
「…でも、どうしてそのメールが私の携帯に送られたと?」
「FBIから支給された携帯はテクニカル分析官の手によっていつでもその履歴をたどる事ができる。君が最後だと、奴らもそれを知って君を狙ったんだろう」
「あの…さっきから言ってる奴らって」
「君は本当に質問ばかりだな…」
面倒くさそうに眉根を寄せた赤井さんはただでも不機嫌そうな面持ちを更に歪めてみせたが、殺されそうになったんだから色々聞きたくなるのも当然だと視線で訴える。濡れた衣服のまま移動するのは想像以上に体力を使ったのか、近くの岩肌に背を預けると赤井さんは長く息を吐き出した。
「…奴らのことに関してはあまり口外できんが、君の兄…そして我々FBIが追いかけている国際的犯罪組織とでも言っておこうか」
「国際的犯罪組織…」
「事故とはいえ君がその頭に落としてしまったのも奴らが開発した新技術。暗号化した情報を視覚から取り込み、対象に接触すると情報が引き出されるという代物だ…まぁ、まだ試作段階のようだがな」
「そんな…」
兄から送られてきたメールを開いた時のことを思い返す。確かに何枚もの画像をまるでサブリミナル効果のように強制的に見させれているような感覚だったし、あのメールを開いてからおかしなことが立て続けに起きているのも事実だ。ずっと知りたかったことの答えをようやく聞けたようで怖いと思いながらもどこか腑に落ちていた。
「それじゃあ私の頭の中にインストールされてしまったのは、兄が命がけで奪ってきたその犯罪組織の機密データだっていうんですか?」
「ああ、その通りだ。思っていた以上に察しがいいようで助かるよ」
「そんなばかな…」
昨日、商店街のモニターで見た政治家の男は悪いことなど無縁のような顔をしていたが、頭の中に溢れた情報によると裏では怪しい取引を何度も繰り返していたようだった。それが引き金となって奴らに殺された可能性もある。ただの大学生が知るはずもない情報を私が知っているのもインターセクトの仕業だというのか。
…だけどその話が本当ならと、すぐに嫌な予感が胸をよぎる。
「あのっ…兄は…お兄ちゃんは無事なんでしょうか…?」
「残念だが、君の兄さんの消息は今のところ不明だ」
「そんな…」
頭を鈍器で殴られたような衝撃にただでさえふらついていた足元の感覚がなくなる。最後に兄に会った時、私はなんて言った…?
お兄ちゃんなんて───────
遠い日の記憶がよみがえるのと同時に全身から力が抜けていく。今にもその場に項垂れそうになる体を咄嗟に赤井さんが支えた。
「おいおい、頼むからこんなところで倒れてくれるなよ…」
そんなことを言われてもあまりのショックに体は動かずそのまま地面に座り込んでしまう。しばらく瞬きも忘れて呆然としていたがすぐにハッとしてデニムのポケットに入っていた携帯を取り出してみたが赤井さんのものとは違って電源が入ることはなかった。カチカチと何度ボタンを押しても暗い画面のままの携帯に車ごと水没させた犯人を恨めしげに睨みつけると彼は困ったように両手をあげた。
「過失の割合は50:50だ。奴らを撒くためだったんだからな」
こっちからしたら過失の割合どころの話じゃないと心の中で悪態をつく。唯一、残された肉親の身に危険が迫っているかもしれないのに連絡もとれないなんて…
「…お兄ちゃんは本当に死んだの?」
「それはまだ分からない…」
思わず手元の携帯をぎゅっと握りしめる。赤井さんは私と視線を合わせるように目の前で跪くとまっすぐにこちらを見据えた。
「だが、彼が命懸けで奪ってきたデータなのは確かだ。それなら正しいところに届けたいと…そうは思わないか?」
「正しいところに…」
「そうだ、このまま兄を無駄死にさせるのは君も本意ではないだろう」
「なっ…!さっきはまだ分からないって…」
この男…と目の前の顔を睨みつけるが赤井さんは特に気にした様子もなく立ち上がった。時間を気にしているのかちらりと腕時計を確認する。
「悪いがあまり時間がない。このままそこに座り込んでいるか、俺と来るか、今すぐ決めろ」
そう言って伸ばされた手をじっと見つめる。
まったく無慈悲にも程がある。突然、信じられないような話をいくつも聞かせておいて今すぐ答えを決めろだなんて。それも生きるか死ぬかのような重大な問題を、だ。それにどう考えたって私に残された選択肢はひとつで、彼はそれを分かっていて私に決めさせようとしているのだ。
波の音だけが辺りを支配する中、私は唇を噛み締めて目の前の手を握りしめた。
だけど次の瞬間、立ち上がろうとした私に彼が告げたのは想像していたよりずっと残酷なものだった。
「悪いが君には一度ここで死んでもらう」
「は…?」
「安心しろ、死んでもらうと言っても死んだふりだ。
─────その後、君にはこの国から出てもらう」
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