顔を上げると、半開きになっている窓ガラスが目に入った。
 風が吹き込んでくる。てれびは窓に近づいて、向こう側に建っている校舎を見下ろした。
 今てれびが立っているこの校舎は、普通の教室で埋まっている教室棟とは別に建っており、特別棟と呼ばれている。特別棟と教室棟は渡り廊下でつながっていて、理科実験室や音楽室での授業を受ける際はその渡り廊下を通って特別棟に行く。
 てれびは校舎から目を離し、廊下に振り返った。
 この階には、1番手前から視聴覚室、被服室、そして音楽室がある。
 どの教室も特に変わった点はない。他の学校と大差ない、平凡な造りだ。てれびはまた窓の外を見た。やはり陽気すぎる日差しが腹立たしくてたまらない。でも、その中に流れる冷たい風は、まぁ、嫌いではない。
 てれびは頬を緩めて、冷たい風を肺いっぱいに吸い込んだ。冷たい風はテレビの身体中に行き渡っていく。てれびは、自分の体から熱が消えていくのを確かに感じた。
「てれびくーん、どこー?」
 瞬間、てれびの背筋が凍りついた。
 階段のある方に顔を向けて、てれびは反射的に姿勢を低くする。
「おーい、てれびくーん!」
 階段下、3階の方から、小鳥のさえずりのように軽やかな声が響いてきたのだ。
 てれびの心臓がギュッと縮こまる。心臓を患った余命1分の患者にでもなったような気分だ。いくら可愛らしい女の子たちの甘い声でも、今のてれびには余命宣告となんら変わらないのである。
 てれびは白い額に脂汗を浮かべながら、慌てて廊下の奥の方に目を投げる。
 奥から音楽室、被服室、そして視聴覚室。てれびの記憶が正しければ、これらの教室は授業で使うとき以外は厳重に施錠されているはずだ。
 てれびは1番奥、音楽室の目の前にある階段を睨んだ。自分の脚なら、女の子たちが階段を上りきるまでに、反対の階段から逃げられるかもしれない。
そう考え終わるより先に、彼の右足は一歩を踏み出していた。
 しかし。
「てれびくーん?」
 一歩踏み出した不自然な体勢のまま、てれびは動きを止めた。
 反対の階段からも女の子の声がする。まさかあそこまで声が反響するはずは、ないよな?
 てれびの顔から血の気が引いていく。それと同時に、言いようのない絶望がてれびの足のつま先から頭のてっぺんまでを満たしていく。
 あぁ、だって、だって今日は、今日だけは。
 てれびは、息をするのをやめて、口元に笑みを作った。自分でも、はっきりと、口元の筋肉が強張っているのが分かった。ついでに目の前がクニャリと歪む。生後間もない幼児に、抵抗もできず捻り潰される蟻のように惨めだった。
 着崩れた制服を整える。風で乱れた前髪も手ぐしで整えて、額の汗も、せり上がってきた何もかもをも拭い取る。てれびはフッとため息を漏らした。
 また自分は女の子たちの機嫌取りに勤しむのだ。面白くもないのに笑って、何度も何度も相槌を打って───。
 階段の方から、カツン、カツンと足音が響いてくる。終わりの音。周りの顔を窺って、作った表情を顔に貼り付けた自分を思い浮かべる。てれびの体は、足は、動かない。動けない。恐怖や諦めの蔦に囚われて、羽をもがれた鳥のように、もうどこにもいけない。あぁ。
 だって、だって仕方ないじゃないか。そうでもしないと自分は、「気持ち悪い」んだから。
「あの〜……すみません」
 ふいに、控えめな、でも少し高めの声が、するりとてれびの耳に滑り込んできた。こちらを伺うようでいて、どこか楽しそうな声。
 笑みを作るのも忘れて、声のする方に、ゆっくりと目を向ける。
「入りますか? ここ」
 なぜ、今まで、気が付かなかったのだろう?
 てれびは目を瞬かせた。先ほどまで何もなかった(ような気がする)廊下の突き当たりの壁に、ドアがあったのだ。
 そのドアの引き戸を10センチほど開けて、ひょっこりと、この学校の制服を着た子供が顔を覗かせていた。
 開いた口が塞がらないとはよく言ったものだ。てれびはポッカリ開いた口もそのままに、無意識のうちに、首を縦に振っていた。
 すると、ドアの隙間から覗いていた双眼が、猫のように怪しく細まった。
「どうぞ」
 手招くように、音もなくドアが開く。
 いつの間にか、手足の震えが止まっていることに、てれびは気づいた。
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