「……」
 とっさに開いた唇からは隙間風のような音しか出なかった。てれびは頬の辺りの筋肉が急速に強張っていくのと同時に、背中と脇腹に冷や汗がどっと滲むのをはっきりと感じた。
……声が出ない。
 なぜだろうか、いつもなら滑り良く飛び出していく声が、取り繕うための調子のいい言葉が、ただの呼吸となって消えていってしまった。これまでの細小な歩みの中で、てれびが必死で研ぎ澄ましてきた、自分の居場所を作るための道具たちが、今や使い物にならないのだ。
 アナタって、気持ち悪いのね。
 あの幼女の蛇にも似た双眼が、詰るように自分を見据えている。何度も、何度も、何度も、繰り返し自分の頭の中で翻って、瞬いて、脳裏にこびりついてしまった瞳が。
 こめかみの辺りに、嫌な感じの汗が滲む。てれびくんって。こういうときは、なんて、なんて返したら、目の前の相手に、頬を紅潮させて、手を叩かせることが、できるんだっけ?
 てれびくんって。違う、僕は分かってる。きっとできる。喜ばせることに関してなら、僕の右に出るやつはいない。だから、だからそんなこと。
 自分の物ではなくなったかのような頬の筋肉が、ピクピクと痙攣し始めた。
 声が出ない!
「ね、座りましょう」
 その声に、いつの間にか俯いていた顔をゆるゆると持ち上げると、柔らかい丸みを帯びた月が、狭まったてれびの視界に滑り込んできた。
 てれびの様子を分かっているのかいないのか。小柄な生徒は軽やかな笑みを顔から消そうとせずに、自分の隣──とは言っても一人分の間隔を空けて置いてある椅子を、左手でとん、と叩いている。
 見たこともない、宝石のような、飴玉のような甘い瞳が、伸びやかに細められる。それを食い入るように見つめるてれびの呼吸が、再び平静を取り戻すのに、そう時間はかからなかった。
「う、ん」
 裏返ってしまった声に内心赤面しながら、てれびはカウンターの向こう側に回り込む。先ほど手にとった分厚い本を右腕でがっしりと抱え、空いた左手で小柄な生徒が勧めた椅子を引いた。
 座りながら、てれびは何の気なしにその生徒に目を落とす。カッと見開いた。
「え!?」
 勢いよくもう一度立ち上がったがために、椅子が吹き飛ばされて床に倒れ、悲鳴をあげた。てれびはそれに気付かず、続ける。「な、な、なん……!」
 わなわなと体を震わせて、てれびは力の限り叫んだ。
「君、女の子なの!?」
 目の前の小柄な生徒の履いている、何ら変哲のないスカートを指差しながら。
 シンプルな紺色の学校指定のプリーツスカートは、脚に貼り付くように形を変えており、スカートの上から太もものラインをうっすらと感じさせる。スカートからは生白い太ももがわずかに顔を覗かせていた。しなやかな曲線を描く太ももと、程よい太さを持ったふくらはぎを繋いでいる膝小僧は丸く、膝の脇の窪みに小さな影ができている。左膝にある青痣だけが、滑らかで柔らかい乳白色の肌の上で絶妙なアクセントになっている。
 てれびは目を逸らし、逸らした視線をカウンターの上に放り投げた。
「……ごめん、僕、てっきり」てれびはもごもごした。「男の子だと」
 ちら、と目の前の少女を窺い見る。すると、少女もこちらを見上げていた。金色の瞳が、読めない感情を内包しながら、じっとこちらに向けられている。てれびの心臓がギュッと縮まった。
「あははは!」
 一瞬、何が起こったのか、てれびは分からなかった。無邪気な笑い声が、突如として静謐だった世界に弾けて響いたのだ。
「そんな……あははは」
 まだ足りないとばかりに笑い声が溢れてきそうなのを堪えて、目の前の少女はニヤニヤと笑っている。てれびは呆然と立ちすくした。
「え……」てれびが微かに声を漏らす。
 少女はまた噴出した。「ひひひ! っちょ、ちょっと待ってくだ、うふっ」
「……」
 体を震わせてカウンターに突っ伏した少女を、ぼんやりと見下ろすてれびの口元には、いつの間にか、微かな笑みが漂っていた。
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