「はー、可笑しい」
 とうとう笑い尽くしたのか、少女はようやく顔を上げた。金色の瞳に涙すら浮かんでいる。てれびには、それがただひたすらに輝いて見えた。
「笑いすぎだよ」
 つられたてれびもちょっとだけ肩を揺らして、口元を緩ませる。少女はまたニヤニヤし始めながらこちらを見た。
「いやあ、先輩があまりにも失礼だから」
 笑った瞳と視線がかち合う。
 てれびはわずかに体を強張らせたが、少女はスルリと続けた。「私は1年A組の『ほん』です。 あなたは?」
 てれびは自身がひどく緊張していたことも忘れて、きょとんとする。
「僕のこと、知らない?」てれびは控えめに自分の顔を指差してみせる。「結構有名だと思うんだけど……」
「はははは」
 懸命に堪えていたのかそうでないのか、ついに、ほんは口を大きく開いてまた笑い出してしまった。腹を抱えて、息も苦しいと言わんばかりに体を丸めている。カウンターをバンバンと叩いてすらいるではないか。
 おおっ広げにゲラゲラと笑うその様に、しかしてれびは懐かしいような、親しみ深いような、不思議な感覚に襲われていた。
 こうして自分と相対しながらこんな笑い方をする女の子なんて、今までの自分の人生には、1人もいなかったはずなのに。
……なんでだろう。
 てれびは女の子と会話する際、必ず聞き役に回る。100%と言っても過言ではない。
 聞き役に回るときは、自分は極力発言せず、上手く相手を誘導し、程よいタイミングで相槌や合いの手を入れ、相手が最も望むであろう言葉を、相手が最も望むであろうタイミングを見計らい、言えばよい。それだけだ。
 自分には相手を笑わせられるような力はないと、てれびは自分自身の可能性をしっかり理解していた。だからこそ、てれびは、てれびにとって1番効率的で楽な方法を身につけ、それに隠れて生きてきたのだ。同時に、女の子の扱い方だって、よく理解していた。
……それなのに。
 てれびは目の前の、最も扱いやすいと思っていたはずの『異性』を見つめてみる。てれびは、この『異性』の機嫌の取り方だけは、心得ていなかった。
「もちろん知ってます」ほんはニコニコしながら続けた。「けど、自己紹介はコミュニケーションの基本でしょ?」
 事前に知ってるからといって、省ける物でもないですし。
 そう言ったほんの瞳孔の奥には、確かな光がチラついている。窓からの明かりによるものではないのだろうと、てれびは思った。
 てれびは頬を緩ませて、答える。
「確かにそうだね。 僕───」一瞬、言葉に詰まる。「は、『てれび』。 2年A組」
 ほんがニッコリ笑って頷いた。

「よろしくお願いします、てれび先輩」

 てれびの目の前に、小さな白い手のひらが差し出された。てれびは目を丸くして、差し出された手のひらを見下ろす。
……あれ?
 この動作に見覚えはある。がしかし、自分はこういったとき、どうすべきだったか。
 てれびの思考はセメントかタールで固められたかのように動きを止めてしまった。
……どうしよう。
 もう随分と長い間、女の子からは手紙やチョコ、お菓子、服など、物質的な物ばかりを差し出されてきた。
 だが今はどうだろう。目の前の相手が、今まで相手をしてきた『女の子』であることには変わりない。が、この『女の子』が差し出しているものは?
 手のひら。
 物質的といえば物質的だが、さすがに手のひらをくれようとしているわけではあるまい。──けれど。
 冗談や例えなどではなく、残念ながら本当に、てれびはこの差し出された手のひらに対する対処の仕方が、分からなかった。
 わずかの間だが、てれびは凝固する頭で懸命に思考した。しかし、そんなてれびの動揺を見計らったかのように、ほんは読めない笑みを口元に貼り付け、言った。
「私が怖いですか?」
 てれびは勢いよく顔を上げた。黄金色の虹彩に促されて、舌が勝手にうごめいた。「ちがう……」
 ぽつり。言葉を漏れる。てれびは何かに押さえつけられて俯いた。しかしもう一度、
「違う」
 言った。駄目押しのような、情けない声だった。
 彼は両手を固く握りしめ、自身の膝の上に縛りつけた。握り締めた手のひらに、じっとりとした汗が滲むのを感じる。ほんの瞳が、てれびの両手に一瞥を投げる。いつの間にか、差し出されていたはずの手のひらは、引っ込んでいた。
 と、てれびが小さく、本当に小さく、呟いた。
「……君のことは、怖くないよ」
-6-
prev | cover | next