02.
午後イチの会議が終わり、凝ってしまった肩と脳ミソをほぐしながらふとハンジが目を向けた先で、リヴァイが頬杖をついていた。両手で。指を猫のように丸めて。
「ねえエルヴィン。あれ、なに……?」
資料をとんとん揃える真隣の男に頭を寄せ、コソッとつぶやく。つられて顎を上げたエルヴィンが三秒ほど固まったのは、ハンジの言う“あれ”を確かめたからだった。
空想にふける少女みたいな仕草をする人類最強──だけならまだしも、右、左、右、左、両足を交互に前、後ろ、前、後ろとぶらぶら揺らしている。
「……ふくらはぎは第二の心臓と言われている」
「あれがストレッチだって言いたいの?」
「無理があるか」
「無理しかないよ」
リヴァイの様子がおかしい。ハンジもエルヴィンも、朝から違和感を抱いていた。ふたりのことをさん付けや役職名で呼んできたりするし、めずらしくひとりの部下をずっと従えているかと思えばその部下、ナマエに、言葉遣いがなってないと頭をはたかれたりもしていた。
場に居合わせたハンジは慌てた。リヴァイが倍の力で制裁を下すと思ったためである。しかし彼はぺしょ……とした顔でただ「ごめんなさい」と言ったのだった。
ナマエを片時も離さないリヴァイはそのあとも何度か叱られ、そのたび
ふたりは昼食時も、執務室へと消えていった。自分の食事に関してルーズなリヴァイはものをあまり食べないが、今日に限ってはパンを数個持っていたのが印象的だ。傍を歩くナマエが手ぶらだったのも。
さらに彼は会議にまで部下を連れてきて、参加させると言い張った。さすがに無理がある。ナマエは副長でも班長でもないのだ。終いには『美味ぇ紅茶を淹れてやる……やりますから』と粘る女を、エルヴィンがどうにか退出させるという始末。
リヴァイの様子が、とにかくおかしい。
『失礼します!』
会議室の扉が勢いよく開かれ、びっくりするハンジらの横を通り過ぎたのはやっぱりナマエだった。彼女はずんずん進んでリヴァイの元へ行き、早く戻ろうと怖い顔で急かしている。
『リヴァイ兵長大丈夫でしたか』
去り際、眉間を寄せたナマエがそんなことを尋ねてくるのでもうお手上げだ。なにがなんだか、わかる者などいるわけない。
大丈夫じゃなかったよ。あれが大丈夫でたまるか。思いながらもダイジョブダッタヨーとハンジが答えたのは、ここ最近忙しくて疲れが溜まっていたからだ。いつもなら興味が湧くようなことも、今は触らないでおきたかった。
「あ、ねえリヴァイ、落ちたよ」
会議室を出ていく寸前で舞った一枚の紙。ハンジはぽりぽり頭をかきながら、イスの背を後ろへ傾けるようにして呼び止める。
『ああ、悪……』
あろうことか、反応して振り向いたのはナマエだった。リヴァイは無反応、華麗にスルー。
『ン゙ン゙ッ。兵長。……兵長!』
「……あ、え?」
『チッ……。落とし、……ました。ほら』
「嘘! 全然気がつかなかった、ありがとう」
『しっかりしろ……じゃねえ、してください』
「りょ、了解だ」
ナマエが紙を拾い、リヴァイに手渡し。
いやいやいやいや。なんなんだこいつら。なんかのゴッコでもしてるわけ? そうじゃなきゃ不気味なんですけど。と、ハンジの開いた口は塞がらない。
「うわ!!」
ふたりが出ていっても扉を見続けて考えていたせいで、イスの傾きが大きくなった。重心は後ろへと倒れていき──。
「っとっと……ゴメン、ありがとエルヴィン」
「危ない真似はよしてくれ。頭の打ちどころが悪くてお前にまでおかしくなられては困る」
ハンジをがしっと受け止め、イスごと起こしたエルヴィンの口調のなかに、冗談っぽさは見つからなかった。
*
「以上です。すべて滞りなく終えました!」
執務室に戻ってこられたリヴァイは、ソファにどさりと体を沈めてナマエの話を聞いていた。会議は無事に済んだようで、肩の荷をひとつ下ろす。注釈を書き加えた資料を前もって渡してはいたけれど、心配しきりだったのだ。
この際、補佐を任せて四六時中傍に付けようか。そうすれば会議にも参加させられるし、ふたりでいるための明確な理由が生まれる。
「兵長はどうでしたか? わたしのふり、順調ですか?」
ちらりと見やれば、いつもの自分の顔のはずなのになんだかこう、へにゃへにゃしていて骨がない。首をかしげて尋ねてくるせいか。中身がナマエだからだろうか。
「兵長?」
『あ、ああ。順調、だな……』
たぶん。おそらく。順調、だ。きっと。だれにも怪しまれてないし、女らしく振る舞えずとも、男っぽくはなかったはず。
「そうですか! よかった! 兵長はなにして過ごされてました?」
『……』
“ちょっとナマエ、あんた今朝いったいどうしちゃったの?! リヴァイ兵長の胸ぐらなんか掴んで!”
リヴァイの身体でナマエが一生懸命意見交換会をする間、リヴァイはナマエの身体でナマエの居室に行き、ナマエの友人たちに囲まれていた。そして。
“そうだよ。あんなに渡すんだって張り切って作ったチョコまで置き去りにしていっちゃうし”
ほらそれ、と友人Aが指差したナマエのベッドの枕元。リヴァイが振り返ると、橙色の小箱がひとつ置いてあった。パッと咲く花のように明るく、巻かれているリボンは黄色と差し色なのか黄緑。リボンのはしっこはくるくるしていた。つまめば、“きれいに癖づいてるじゃない。頑張った甲斐があるね”と友人B。
──ナマエが癖をつけたのか、わざわざ。
リヴァイの胸がジ〜〜〜ンとした。そもそも、ナマエが自分のためになにかを作ってくれたことが嬉しい。胸を震わせたまま、リボンに挟まっていた紙を開く。
リヴァイ兵長へ
思わず目を覆った。丁寧な文字を見て耐えられなかった。リヴァイはしばらくのあと、ゆっくりずり下げた手で今度は口もとを覆い、まじまじと箱を観察した。感動が止まらない。日々の嫌な出来事が吹き飛んでいく。
リヴァイも、バレンタインの存在は知っている。元ネタはかなり古い物語だということも。愛する者を故郷に残してきては兵士の士気が下がるから、兵士たちの婚姻を禁止した国があった、そんなあらすじの話。いつから現実の世界でも二月十四日が愛の日になったのかは定かじゃないが、リヴァイも毎年、いくつかチョコをもらう。年がら年中鬼のツラをしているが、モテたことくらいあるのだ。
そういうわけなので、ナマエがバレンタインデーを知っていても不思議ではない。でもまさか自分に、と驚きが隠せず、リヴァイは箱に手をかけた。丁寧にリボンをほどく。蓋を開ける。いびつな形のチョコレートがみっつ現れる。
泣きそうになった。片想いが実は両想いだった男、というより、孫に初めてプレゼントを贈られた祖父に近い。
そうして、まわりの女子たちがエに濁点をつけたような声で叫んだとき、リヴァイはやっと状況を思い出した。が、チョコはすでにひとつ、口のなかへ消えていた。茶葉でも混ぜてあるのかうっすら紅茶の香りが広がっておいしい。おいしかった。けれど。やってしまった。吐き戻すわけにもいかない、同じものを再現しようにも材料がない、レシピもわからない。もういまさら知らんぷりはできない。
“元気出して! チョコがなくても、告白はできるんだから!”
不思議がる周囲に「間違って食べてしまった」などと言えるはずもなくどよんとしていれば、友人らが次々に励ましてくれた。大事なのは気持ちを伝えることで、チョコはきっかけでしかないと。
“よし! 今夜の大勝負のために、私たちがナマエを最高に可愛くしてあげる!”
ナマエ(※リヴァイ)に救いの手が差し伸べられた。最高に可愛く? とは? と、わからぬまま手をとってしまったリヴァイがこのあと味わうのは、地獄だ。
“まずはお化粧! それから勝負服の組み合わせも考えて……”
半ば無理やりイスに座らされ、目の前に大きな鏡を持ってこられ。三十分近く、ナマエの顔を見つめるはめになった。
あとで落としちゃうけど、なんて言いながら友人たちはアレやコレやとナマエの肌に色を重ねていく。リヴァイは鏡のなかのめまぐるしさについていけず、酔いかけた。しかし目を瞑れば開けろと言われ、どう? と感想を求められる。
『クソ……』
可愛い。可愛すぎる。鏡を見るのがつらい。ナルシストは案外苦しい日々を送っているんじゃないだろうか。ナマエのすっぴんはたまらないが、化粧をしてもたまらなかった。可愛い、完璧だ、以外の感想をなにひとつつぶやけない。
真紅の口紅も緋色の口紅も、紫も黒も桃も、もうなんでもいい。ナマエがつけるのであれば。もはやなんでもかんでも買ってあげたい。買ってやろう。そんなことまで考えた。あまり自前の化粧品は持ってないようなので、ホワイトデーにどっさりあげよう、と。チョコはナマエの身体で食べてしまったのだけど。
そして次におこなわれたのはファッションショー。さっきのが地獄の入口なら、ここからは地獄の最深部。いい、いい、と両手を振り、後ずさって逃げてみてもリヴァイを四方八方で取り囲む女たち。みんながみんな、トップスやスカートを持っている。着替えるのはまずい。脱ぐのは。勃ってしま……うものはないけれど、さすがにだめだ。
断りを入れたのにもかかわらず、数秒後には無理やり上を脱がされ下を脱がされ、ブラとパンツ姿で全身鏡の前に立っていた。女は非力だ。数人相手では抵抗など無意味だった。
鼻血が出るんじゃないかと不安な気持ちを抱えたまま、リヴァイはなるべくよそ見をしようと決め、……結局は着替えさせられるナマエをがっつり眺めた。真下を向けばふたつの膨らみが。意外と大きい。そっと包むように下から持ち上げて、ふよふよ揉んだあとでド級の後悔に襲われた。自身の欲望を律する。スケベなことを考えるのはよそう。エロから意識を逸らそう。
悩んだ末にナマエの髪の毛をいじったり、[[rb:爪先 > つめさき]]をいじったり、してはみたのだが。なにをしても煩悩ひとすじで無駄だった。抜きたい。抜けるものは、ナマエにはついてないとはいえ。
やがてリヴァイが出した結論は、可愛い女は金がかかる=B正確にいえばナマエは金がかかる。だって、服も買ってやりたい。
リヴァイ本人はわかっていないし、この先もわからないままだが、本当の本当に正確さを求めると好きな女には財布のヒモが緩くなる≠セけのことだ。平々凡々の王者のようなナマエをこんなに可愛いと思うのは、愛しているからにほかならない。
すべてが終わり、兵服に着替え直すころにはすっかり疲れていた。身体というより精神が。
「兵長ー? 兵長はなにしてたんで……あれ? なんか、目の上がきらきらしてる」
ナマエが、いつの間にか隣に座っていた。自分自身と近距離で目が合った瞬間、より一層疲れが蓄積する。
『俺にさわるな』
「ご、めんなさい」
オイ、待て、違う、と。しょんぼりするナマエに慌てて弁解しかけたが、うなだれているのが自分の外見だったため、リヴァイは結局苦い顔をするだけだった。
『いつになったら戻るんだかな』
「ちゃんと戻るでしょうか。戻らなかったらどうしよう」
『一生傍に置いておくしかねえな、てめえを』
「い、一生?!」
『ああ』
「え〜」
『お前が嫌だっつっても、』
「えへへぇ」
『……なに笑ってる』
「じゃあわたし、ずっとこのままでもいいかもしれないです」
『やめろ、俺の身体でアホヅラきめんな……』
目尻をだらんと下げたナマエに舌打ちするリヴァイだが、ふたりして告白紛いの会話をしていることに気がついてない。
『それよか……これからの過ごし方だが』
「あっ。実は、ご提案というか、希望があります」
『言ってみろ』
「ありがとうございます。まず、元通りになるまで兵長の補佐を務めたいです。そうすれば会議にも参加できますし、いろいろと好都合ですし」
『同意見だ』
「よかった! それから、お風呂はふたりで入りませんか?」
時が止まった。ワンテンポ遅れて『あ?』と返せば、「わたしがわたしの身体を洗います。兵長は兵長の身体を洗ってください。洗いっこです! 洗われるときは、お互い目隠しとかをつけて」とナマエが。
『ああ……』
ものすっ……ごく卑猥な光景が浮びあがったが、べつにふざけた提案ではないどころか、むしろ名案な気がする。ナマエにブツを洗わせるわけにはいかない。
──待て。
リヴァイは軽く俯いた。自分の(※ナマエの)下半身を見下ろしたあと、隣に座る身体の下半身に視線をやる。ナマエ曰く、目覚めたときから入れ替わりははじまっていたという。
リヴァイの身体は、まだまだ元気な健康体だ。朝には生理現象が起こる。男ならだれしもが経験する現象だが、性的欲求を伴うことはないし、すぐに治まる。でもそんなこと知らないであろうナマエは、処理をしたのではないか? リヴァイの返答を待つナマエの、手もとに目がいく。
──いや。ねえな。
もしも抜いていたなら、こんなふうに平常運転で向き合ってくるはずがない。勃ったものには気づかれただろう。が、流してくれたに違いなかった。感謝。ナマエの胸を揉んでしまった自分を咎め、絶対、絶対絶対絶対この身体でひとりあそびはしないと誓う。
『……わかった』
「問題解決ですね!」
『そう……だな』
とりあえず、今は。ナマエの意見を尊重する。
『ああ、そういや』
「はい?」
『お前のチョコを食った』
「え? チョッ……ちょこ、え?!」
『手作りしたらしいな、部屋の奴らが言っていた。大変だったろ』
「た、大変てことはないですけど、でも、でも、ああ……」
ナマエはわたわたと口を動かしている。とはいっても自分の姿なので少し気持ち悪い、はずなのに、中身がナマエであると思えば可愛く見えてきてしまうのが怖くて仕方ない。
『茶葉かなにか入れたか』
「紅茶の茶葉、を……入れてみました。紅茶がお好きだって聞いていたので」
『美味かった』
「本当ですか?!」
『本当だ』
「よかったぁ……」
『ありがとうな』
「はいっ」
『ナマエ』
「は、んんっ……?!」
鏡にでも口づける気分だった。唇を重ねられたナマエも、同じ気分だっただろうか。ロマンティックとは程遠いふたりの初めて。くちゅ、と湿っぽい音がしはじめる。口づけは深くなっていく。舌を絡めていれば、下腹部がじんわり熱を持つのがわかった。と同時、ナマエがバッと光速で離れたので、何事かと訝しむ。
『どうした』
「……ちんち、じゃなくて、か、下半身が痛いです……」
『…………』
リヴァイは頭を抱えてしまった。
なにをすれば、そしてどんなタイミングで勃つのかモロにバレる生活。しかも好きな女に。それを気にしないでいられる男は、この世にきっと、ひとりもいない。