03.
──むかつく。むかつくむかつくむかつく!
身体が入れ替わっておよそ一ヶ月目の夜。ナマエのはらわたは煮えくり返り、ぐつぐつと音をたてていた。リヴァイと言い合いをし、彼の私室を飛び出てきたところだが、出ていくべきは自分じゃなくてリヴァイだったと暗がりで思う。今からいったいどこへ行けばいいのか? さすがに大部屋に戻って寝ることは憚られる(リヴァイの評判がどうなろうと構わないけれど、同部屋の女子が不憫だ)。
「はあ」
思わず溜息がこぼれた。
ナマエはもう、この身体での行動にも慣れ、彼らしさを装うことにも毎日ふたりでいることにも慣れてきていた。入浴時に羞恥する回数も減った。でも、入れ替わって二日目から開始した“男女ふたりきり同部屋生活”に、とにもかくにも困憊している。兵士としての集団生活とは、似て非なるのだ。
リヴァイをただ好きで、遠くからぽわぽわとしながら眺めていたときには知らなかった彼の一面を多く見つけ、喜んだりする反面悲しんだりもするようになった。意外と寝癖がつきやすい髪質なのだとにんまりした直後、几帳面ゆえの口うるささにげっそりしたり。
それはおそらくお互いさまなのだろう、リヴァイも舌打ちや溜息の量を増やした。本物のナマエの眉と眉の間にも、しわがくっきり残りそうで不安な近ごろである。
あとはとにかく、感覚の受け取り方がまったく違う。これがなによりつらかった。たとえばリヴァイの身体は猫舌だから、ナマエの大好きな熱々のスープは飲めない。体力にも天と地ほどの差があるし、睡眠の質も異なる。毎晩ぐっすり眠る自分の身体。二時間ほどしか眠らないリヴァイの身体(しかもイスでないと眠れない)。音にも光にも敏感で神経質にならざるを得ないので、ナマエのストレスはフルだといえた。
今夜だって眠くない。いつもなら、嫌なことがあればすぐに寝てしまうのに。そしたら翌朝にはすっきりできるのに。仕方なく、ナマエは屋外の鍛錬場へとやってきた。三月の夜は暖かい。どこかでホウ、ホウ、とふくろうが鳴いている。
明日は三月十四日、ホワイトデー。そして調整日。だからなのか、鍛錬場はがらんどうだった。ナマエひとりきりの雑木林。なんだか、……なんだか。
「……」
寂しさに蓋をして、全身のスジを伸ばした。組んだ指を空へ伸ばせばまん丸の月に手が届く。そのままナマエは数秒間、ぼーっとした。どこまでもちゃんと景色が見える。リヴァイはナマエよりも目がいいのだ。夜にも輪郭はあったらしい。
補給処で、鍛錬用の立体機動装置を確認する。自分のではないからトリガーの固さやグリップの馴染み具合がいまいちだけど、使えないことはない。ガスも補給し、刃なしの持ち手を両脇のホルスターにしまった。
ふらふらと訓練地を歩く。中央辺りまで来たところで息を吸う。風が吹き、ざわざわと木々が揺れる。少しだけ、春のにおいがした。
ト、と土を蹴りあげ、アンカーを噴出する。ぐんと腰が引かれて背が弓なりにしなる。自身のすべてを引力に任せ、重力に任せ、なのに無重力に任せるみたいな、空中でのみ得られる浮遊感がナマエは好きだ。ノッポな木々を伝う。リヴァイの身体はとても軽やかで、ひどく自由だった。
かなり前のことになるが、ナマエは壁外で、リヴァイに傷痕を縫合してもらった過去がある。今みたく木々を伝い飛び回っていたところ巨人に捕まり、死を覚悟した。でもこうして生きているのはリヴァイに助けられたから。ナマエの幼馴染であり、同期でもあった親友だけは、巨体のなかへ飲み込まれてしまったけれど。
落ち込むナマエの怪我を治療し、そっけなくも労りの言葉を向けてきたリヴァイの優しさを憶えている。以降憧れは強まっていき、やがて恋心を自覚した。気づけば夢中になっていた。
その日のことを、さっき、ナマエは聞いてみたのだ。憶えてますか? と。
『ああ、あったな。あんときもお前は、痛ぇ痛ぇとガキみてえに喚いて騒がしかった』
たぶん悪かったのはタイミング。リヴァイじゃない。だけどびっくりするぐらいにショックを受けてしまい、ここ最近のストレスのせいもあってか、堪忍袋の緒が切れた。
ナマエはリヴァイとは違う。リヴァイが耐えられるようなことも、リヴァイにとっては平気なことでも、ナマエにはつらかったりする。痛みの感じ方だって違う。リヴァイは痛みに強いのだろうけど。
そういうふうな言葉を突きつけ、出てきてしまった。
幼馴染が心臓を捧げた壁外調査の日。ナマエがリヴァイに救われた日。痛んでいたのは傷口だけではなかった。あのいっときを勝手に心の支えにしたのは自分だし、そんなこと知らないリヴァイからしてみれば八つ当たりでしかないけれど、あの瞬間を支えにしてやってきた日々が突然くすんだ。恋は、押しつけなのだと思った。理想の押しつけだと。
林を旋回する。飛ぶだけ飛んで、だけど一向に満足がいかないので、鍛錬ともつかぬ鍛錬を終わりにしようと考えた。
暗い森に光が差している。大地の緑にぽつぽつある水溜まりは、月光の反射で蒼い。こんなに景色がきれいに見えるなんて。リヴァイはこれを知っているのだろうか。
──きっと知らない。
ナマエはぎゅっと口を引き結んだ。そうして、リヴァイの元へと向かうことに決めた。
むかむかする。怒っている。だけどこうしてひとりで腹を立てていたって、なにも解決しない。話し合い、伝えなければわかってもらえない。ナマエがリヴァイじゃないように、リヴァイだってナマエではないのだから。きつい物言いを謝ろう。
「っきゃあ!」
とことん格好がつかない。キリリと着地し、颯爽とリヴァイの元へ行くつもりがべちゃっと地面に這いつくばる。うう、と呻き、しょげた顔面を引き剥がしたものの。
「ッ、」
予想外にもしっかりと捻挫していた。足首が激痛に襲われたので、ナマエはその場にうつ伏せで転がったまま沈黙する。
なんだか疲れてしまった。
リヴァイらしく在らなくては。人類最強らしく。そういう、一ヶ月間抱えていた気疲れがどっと現れ、泣き虫ではないナマエも今はちょっと泣きたくなった。リヴァイはいつもこんなに気苦労が絶えないのだろうか。いろんなものに疲れてしまっても、彼の夜はとてつもなく長い。
──あれ?
涙が出ない。ナマエはたしかに疲弊していて、泣きたい気持ちも最高潮になったというのに、リヴァイの涙腺はびくともしなかった。
ふと、リヴァイの身体では意識をしなければ笑えないことを思い出す。リヴァイの顔は、自然と笑顔になってしまうことがない。にやけてしまうことがない。ふにゃふにゃした様子にはなるけれど、それだけだ。
簡単に笑えないリヴァイは、簡単に泣くこともできないらしい。
──足……痛い。
彼は痛みにとても強いのだと。傷の手当てをされるときも、顔を歪めたりしないから。リヴァイは人類最強で、だから生まれつき特別なのだと。自分とはなにもかもが違うのだと、ナマエは──。
「痛い。痛いよー」
だれもいない鍛錬場。ひとりで子どものように喚いてみる。ナマエが素直になることで、リヴァイの身体が泣いてくれたら。
『オイ』
唐突にかぶさる、影と気配。
『ったく、探したじゃねえか』
これから向かおうとしてたんです。謝りたくて。さっきはごめんなさい。……言いたいこと全部、夜に溶けてしまう。
『さっさと立て。汚れるだろ』
「……足が痛い」
『怪我したのか』
「……兵長も痛いんですね。怪我すると」
『はっ。そりゃあな』
どこが痛いと尋ねられ、なにがどうなったと説明を求められ。ナマエはやっと怪我についてのみ謝罪した。リヴァイは気にするなと言うが、気分は沈む。
『仕方ねえ、痛みを忘れられる方法を伝授してやる』
「えっ。そんなものが?」
『目を閉じろ』
腕を引かれて起き上がり、座ったナマエは瞼を下ろした。
『いいか? いくぞ』
「はい、……ッ゙?!!」
与えられたのはげんこつか、頭突きか。別の箇所が痛めば元の痛みを忘れられるという、理不尽にも程がある理不尽を戴いた。その理屈はまったく理解しがたいが、一時的に足の痛みを忘れた。
「っ、ナマエ!」
『ぅぅ〜。痛いよう……』
「オイ、ナマエ、目を開けろ!」
『ええ? ……あ!』
言われたとおりにしてみれば。さっきまで座っていたはずのナマエは、今、片膝をついていた。目の前にはリヴァイがいる。本物のリヴァイが。つまり、これは。
『ええーっ?! も、戻った?!!』
「みてえだな……」
『こんな方法で戻るなんてありですか?! そんな都合がよくていいんですか?!』
「……まあ、いいだろ」
戻れたんだからな、とこぼすリヴァイにうなずいてみせると、彼が立ち上がろうとした。捻挫などしていないみたいにまっすぐ。その腕を引いて阻止する。
『兵長……! あ、あの、足!』
「ああ?」
『足が! えっと、ここはわたしがおんぶしますから、歩かないでください!』
「遠慮する。ひとりで歩ける」
『でも』
「ナマエ」
『はい』
「さっきは悪かった。あの言い方は、よくなかった」
『……いえ。わたしのほうこそごめんなさい』
ナマエは今度、ちゃんと謝罪した。独りよがりに怒って出ていってしまったことも。申し訳なさそうにするリヴァイの隣にしゃがみこむ。
『リヴァイ兵長』
色素の淡いブルーグレイ。やっぱり自分よりもずっとずっときれいな色の瞳。
『いっぱい、話したいことがあるんです』
その瞳に映る景色が美しいこととか、紅茶の淹れ方がプロ級になったこととか、寝癖の素早い直し方とか、あの壁外調査の日に、好きになったことだとか。ほかにもたくさん。
『だから、足が治ったら、お散歩しませんか?』
「散歩がしてえのか」
『はい』
「なら今からだ。こんなの怪我のうちには入らん」
『だめですよ! 兵長にとってはなんてことなくても、兵長の身体は痛がってます』
「お前の行きたいところに俺のせいで行けねえほうが
素で言ってのけるリヴァイに、ナマエの胸がきゅんとした。恋は理想の押しつけだけれど、でも、嫌なところをいくつ見たってやっぱりこのひとがいいと思ってしまうだろう。その証拠に、ナマエは前よりもずっとリヴァイに惚れ惚れしている。
『じゃあ……明日、足の様子を見てから』
「いいだろう。その代わり、俺の行きてえとこにも付き合えよ」
『どこですか?』
「街だ」
『街? なにか、買いたいものがあるんですか?』
「いろいろとな」
『いろいろ……』
「そうだ。そんときはお前、ほかにだれも連れてくるなよ」
『えへへ。はい!』
リヴァイの指がナマエの頬に触れた。数分前までこの指は、ナマエのものだった。おかしな話だ。
『兵長、好きです! 大好きですっ!!』
改めてちゃんと伝えられる日がきたら、大人っぽく、色っぽく、可愛く伝えようとしていた告白が希望とは真逆の声色で鍛錬場に響く。またしてもロマンティックとは程遠い。でもきつく抱きついて、抱きしめ返されて、「俺もだ」と優しく囁かれてしまえばもう、幸福のボルテージは振り切れる。
『……あの』
「なんだ」
『……ちゅー、してください……』
「んな抱きつかれてちゃできねえ」
『……、』
恥ずかしさに呑み込まれつつ、ナマエはわずかに距離をとった。一回したきり、してない口づけ。
「目ぇ閉じねえのか」
『あっ、えっ、そっか! 閉じま、』
目どころか口さえも閉じていない。のに、奪われた。
閉じようと慌てたナマエがキスの直前に見たものは、ふ、とかすかに笑んだリヴァイの顔。気が抜けてつい笑ってしまったかのような。初めて見た。
二月十四日、入れ替わったばかりの朝。きっと自分はヒロインにすらなれないなあ、とナマエは思った。思考は凡人止まりだし、主人公という役柄にも不向きだし。けれどリヴァイといればいつだって、主人公にもヒロインにもなれるらしい。
『んん、兵長、』
「……ん?」
『好き、』
腰を抱かれて、唇をついばむみたく舐められて、舌が絡まって。ナマエはキスの合間に何度も何度も好きだとこぼした。そのたび頭を撫でられると嬉しくなって、首もとにまわした腕で、リヴァイを引き寄せた。