THE LAST ATTACKを観て/20241114







 大事なものが失くなっていく日々だった。そしてものを失うと、周囲の色も褪せていった。天と地の戦いで手離したものは家族や故郷のみにとどまらない。

 だからだろうか、戦争がおわり、世界が復興しはじめてから私は、雑貨屋めぐりに熱心に入れこんだ。ところ狭しとものが並んでいるなら、どのような雑貨屋でもかまわなかった。店内が暗くても、まばゆいほどに明るくても。隅々までが磨かれていても、小物にわずかなちりがかぶっていても。見渡す限りに物々があるのなら、充分素敵な雑貨屋だといえる。いつ行ってもひとたび入口をくぐればあまたのものに囲まれる空間は、心地好かった。私は、雑貨屋にいるあいだ、けっして寂しくなかったし、孤独ではなかった。

 私は終戦後もつねに慌てて生きている。急速に廻る世界に置いていかれまいと必死に息をしている。この世界じゅうが、どこもかしこもまったくそうであるように。ただ、そんな日々のなか、雑貨屋にいるあいだだけはゆるくおだやかな時間の流れを味わえた。さまざまな品物を眺めているときだとか、小ぶりの懐中時計を手にもって、リヴァイさん用につつんでもらおうか悩むときだとか。

「すみません。これをください」

 グラスを選び、店内の奥、カウンターのなかへいた往年の女性へ声をかける。女性はうつくしいグレイヘアで、頭にはつやめくスカーフをまいていた。あごのあたりに結び目があって、おしゃれだ。着飾るというのはある種、自身を大切に労わることでもある。私は、ひと目で彼女の虜になった。このお店で買い物ができたことも、なおさら嬉しくなってしまった。自分に優しくできる人のもとにあった雑貨なら、どこへ行ったって色褪せずに輝き続けるだろう。

 外へ出ると、やっぱり時の流れが数段速い。一歩踏みだせば私も復興の渦にのみこまれ、あと戻りなどできなくなるに違いない。いつものように。

 リヴァイさんはもう帰っているだろうか。ぶら下げた紙袋のぶん重たい片腕を揺すり、考える。紙袋は自身の気持ちを表すように揺れた。浮かれ気味に、あるいは楽しげに。

 今日は、かたちのふぞろいなグラスを買った。

 ──ペアではないけれどいいのかしら。

 雑貨屋の女性の、気がかりな様子が思い出される。ええ、いいんです、と。そのとき私は支払いをしながら答えた。

 ──このふたつを気に入ったんです。とっても。

 十一月。とつぜん寒くなりだしたマーレの片隅、小さな街を、足早に行く。

 スカーフも探してみればよかった。おしゃれな大判のをまいて、なびかせながら海に行きたい。
 そう言えば、あの人は汚れるだとか、得体の知れないものばかりだと眉をひそめるかもしれないけれど。でも私は、得体の知れないものが好きだ。リヴァイさんと見つけていく、いろんなものが。

 山小屋をめざして歩く。すっかり歩き慣れてしまった道で腕を左右に伸ばし、紙袋をゆらゆらさせて、子供のころからよく耳にした童謡をくちずさんで歩いていく。酩酊した酔っぱらいみたいに。



 ドアベルを鳴らせば、リヴァイさんはいつだって出てきてくれる。ほとんどがしかめっつらをしているものの、居留守を使ったり、追い返すようなことはしない。絶対に。

「お前な。ここをどこだと思ってる」

 紅茶を淹れていたらしい、彼は車椅子をまわしてキッチンのほうへ向き直った。私も後ろをついていく。

「どこって。マーレ国?」
「バカ。違ぇ、この家の主はだれだか知ってるかって聞いてんだ」
「知ってます。リヴァイさんでしょう」

 キッチンにはいくつかの茶筒があった。なかには私の大好きな茶葉が入った缶もあり、もしかしてリヴァイさんは私がここにくることを予見していた、すごい人なんじゃないかと思った。この人ならありえる、とも。どんなに摩訶不思議な空想も、リヴァイさんでならたやすく想像できた。

 茶葉のにおいが香る。雑貨屋の近くにあったお菓子やが改装中でなければ、お茶請けもあわせて買ってきたのにと、肩をおとす。

「しっかりわかってんじゃねえか、お前の言うとおりここは俺の家だ」
「はい」
「ついでに聞いてやる。お前の家はどこだ?」
「2ブロック先の、」
「そうだ。ここじゃねえ」
「違いますね」
「俺たちは同居してるわけでもない」
「ええ」
「つまりだ。お前、俺の言いてえことがわかるか」
「あ、お湯が沸いたみたい」

 午後のティータイムにしましょう、のどが渇いちゃった、そう持ちかけると短い嘆息が聞こえた。

 彼の傍ら、私もキッチンでお手伝いをしていく。紅茶の淹れ方ならリヴァイさんの右に出る者はいないけれど、何度も何度も抽出するさまを眺めてきたぶん、我ながら出来がいい一杯を淹れるという自負があった。もっとも、リヴァイさんに褒められたことは、いまだかつてないけれど。

 ポットにお湯をうつす彼のもとに寄れば、まあるい頭に、戸外からの陽射しが降り注いでいる。光の当たった黒髪が、やや緑っぽく見える。きれいな色だ。きっといまこの瞬間、いろんなことが重なり合って偶然生まれた色だった。似ているものは見られても、今後同じものが映せるかはわからない。二度と瞳に入らない可能性のある、すべらかな色に見惚れる。

 ソーサーの置かれる音がした。欠けてしまった指などまったく問題ないというように、彼は手早く紅茶を用意していく。
 静かな家だ。鳥のさえずりひとつしない。



「海だ?」
「はい」

 底の見えはじめたカップをかたむける。リヴァイさんも、ゆっくり嗜んでいる。

「あんなとこ行って楽しい奴の気が知れねえ。できるのなんざ砂遊びぐれえのモンだろう」
「遊泳禁止ですしね」
「入水すら許可されてねえよ」
「行きたくありませんか?」

 答えはなかった。かちり、と磁器がNOを示すように触れ合う。先に飲みおわったのはリヴァイさんだった。彼のソーサーのすぐわきには、数冊の本がある。ここへおとずれた人々が、置いていくのだろうと思う。私が雑貨を持ち寄るように。

「潮風が強いから、スカーフをまいていこうと思うんです。頭に」
「てめえ、人の話をクソほども聞こうとしねえな……」
「リヴァイさんのぶんも、見繕ってきますよ」
「あ?」
「スカーフ」
「頭にまけってか。いらねえよ」
「頭というか……ここに」

 首もとのあたりへ手を伸ばした。指先はリヴァイさんの身体に届くことはない。でも彼は理解したようで、ああ、とかすかにうなずいた。

「以前はそこに、まいていたのでしょう。ワイシャツの、襟ぐりのところに」
「そんな時期もあったが。いや、待て。おかしいだろ」
「え?」
「頭にまきつけるならまだしも、首にまいてどうする。どう、潮風から守ってくれる」
「うーん……痛いところをついてきますね」

 そうでもねえだろ、とため息まじりにこぼし、リヴァイさんは足を組んだ。片一方には傷痍が残っているとはいえ、逆の脚はいまも、よく動く。

「じゃあ、頭にまきますか?」
「ああ?」
「今日、街でとってもおしゃれに身につけている方がいたんです。その方法で、リヴァイさんにも」
「街で、って。どこだ? また雑貨屋だかなんだかに寄ってきたのか」

 こくりと一度うなずくと、リヴァイさんは鋭い顔つきをした。

「ひとりでふらふら出歩くな、と言ってるだろ。男は? 男は一緒だったんじゃねえよな」

 刺々しい語調で続けられ、まさかと手を振れば彼はひたいに指をあて、そうか、とわずかにうつむいた。

「……なあ、いい加減、自分の荷物をテメェんちに持ち帰ることはしねえのか。このままじゃ家が物置になっちまう。お前以外にも、本だのなんだのと持ちこんでくる奴は多いしな」
「独り暮らしでひまをしないためですよ」
「余計な世話を焼きやがる……」

 私はテーブルに、両腕で頬杖をついた。まぶたをとじる。季節の空気に触れても、空が心置きなく晴れても変わらずただそこにある、広大な海を思い浮かべた。このご時勢であるためか、海の水はいつだって黒々しい。幼いころに見たものとは似ても似つかない。

 リヴァイさんが初めて見た海はどんな色をしていたんだろう。一面に太陽が溶けだし、光の粒がぱちぱちとはじけていたならいいと思う。やがてさざなみがリヴァイさんの足もとを撫でていく。そのたび、そのたびに彼のなかにある重たいなにかが波にさらわれていく。そうして海は、彼からかすめとった痛みや悲しみを深いところにまで沈めこむ。

 リヴァイさんにとって、そういう存在があればいいのに、なんてやけにくだらないことを想う。

「ダセェだろうが」

 目を開けた。彼は私を見ているわけではなく、イスの背凭れに片腕をひっかけ、窓の奥へ頭をまわしていた。こちらからは、表情はちっとも確かめることができない。

「ださい? 頭にスカーフをまくのが?」
「そうじゃねえ。んなモンはどうだっていい」
「だったら……」
「格好がつかねえだろう。洒落たまき方をしたって、こんなツラで、ナリじゃあな」

 リヴァイさんが右手をひろげた。そこにはいつもどおり、あるべきはずの指がなかった。少し視線をずらせば、片足に目がいく。不自由になってしまった脚。
 この人は、ものだけではなくて、自身の部分までも失くしてしまった。

「リヴァイさん」
「……なんだ」
「今日ね。素敵なものを買ったんです」
「話がコロッコロ変わりやがる……。一回でいいから、お前の脳みその造りを見てやりてえもんだ」
「あは。とってもつまらない冗談」
「……言ってろ」
「私は大好きですよ」
「は、そいつぁどうも」

 さっき買ってきたばかりのものを、紙袋からがさごそと取りだしていく。ガラスでできているものだけれど、箱なんかはない。単に新聞にぐるぐるまきにされたふたつのかたまりを見るなり、リヴァイさんはミイラの置物か? と声のトーンを低くした。まさか、そんなはずないじゃないですかと返しながらもおかしくて、くすくす身体が揺れてしまう。

「じゃーん。グラスです」

 何重にもまかれていた包帯、ではなく新聞紙を取りつくし、リヴァイさんの前に掲げた。

 真っ青に透ける大海原みたいな一個、とろける夕陽みたいな一個。かたちはふぞろいで、どう頑張ってもペアだとは主張できないけれど、私はこのふたつを気に入った。心底。リヴァイさんには、生命の生まれくる明るい海が、すべてのまどろみをかき集めたような優しい夕暮れが、とってもよく似合うから。

「今夜は、このグラスでお酒を飲みませんか」
「まだまだここに居座る気か、てめえ」
「明日の朝にはこれでお水を飲みますよ」

 と、ふたつのグラスをもちあげてみせた。ブルーとオレンジのそれらはペアではないけれど、わびしさなどはない。欠けている、そろわない、ということが、むしろ私を勇気づけた。

 戦争がおわっても。天と地の戦いについて知らない子たちが増えてきていても。あるとき当時の記憶がよみがえる。鮮明に、暴力的に浮かびあがる。それは戦士でも軍人でも兵士でもなかった、一般的な生活をしていた私にでさえそうなのだから、リヴァイさんたちにとってはどんなにかと思い馳せる。答えは、もちろん出ない。

 出ないけれど、でも、ないのなら答えをつくっていけばいいのだとも思う。まだ人生における正解が出ていないなんて、とてもラッキーこのうえない。

 結果が答えとなるのなら、と考える。結果が答えになるなら、私は、彼の最期の眠りが最も安らかであればいいと思う。兵士だったころ、長く眠ることができなかった、と彼は語った。ベッドに入れば悪夢を見たし、物音がすればナイフをつかんで飛び起きたと。そういう話を耳にするたび、私はバクになりたかったなあと思った。人の悪夢を食べる生き物。そしたらリヴァイさんが魘されることは、なくなったかもしれないのに。

 だけど私は人間で。夢も食べられはしなくて。さらにはなにかの縁で、彼と出逢い、親交を深めた。いまやリヴァイさんは私の足音にも気づかず眠り続けたり、ときにはベッドへもぐったままぐうぐうと寝息をたてたりする。寝癖をつけて部屋を出てきたりも。生粋のマーレ人である私と、パラディ出身である彼とのあいだには、初めこそ隔たりがあったものの。

 いま、彼は私にとって、もはやおまもりみたいな人だ。たとえばなにかを不安に感じたとき、リヴァイさんのことを思い出す。すると力がわいてきて、なんだってできるような気になった。

「泊まってく気でいるなら、客用ベッドの用意はテメェでしろよ」

 リヴァイさんが、オレンジ色のほうのグラスをもち、まじまじと見つめる。はいとうなずき、空いたティーカップたちを片づけるため立ちあがれば。

「……リヴァイさん?」

 手首をつかまれて、動きを止めた。車椅子に座したままの彼と、立ったままの私。

「……ここには、多くのものが持ち運ばれてきた。ファルコもガビも、ほかの奴らもアレコレ差し入れてくるからな」
「ええ」
「だが、お前が置いていったものが圧倒的に多い。片づけちまってもいい、俺にはほぼガラクタに見える……しかしだ。お前からすりゃあ、大事なものなんだろう」

 見つめ合っていた瞳を逸らし、卓上へと落とす。

 ものが増えていく。リヴァイさんの家に。それはおそろいのものもあったし、リヴァイさん向けのものあった。唯一ここへ残さないのは、私にしか使えないようなもの。服や下着、などなど。私は、私ではなくてリヴァイさんの生活が彩られれば、それで途方もないほど、充分なのだった。

「ここに持ちこんだものは、リヴァイさんからみたら、ガラクタかも」
「じゃあなにか? 不用品ばかりをお前は俺に、寄越してやがったってのか」

 ううん、とかぶりをふった。
 そうでは、ないから。

「……初めてここへお邪魔したとき」
「お前が看護師をやっていたころか」
「はい。そのとき、あんまりにも殺風景な部屋に寂しくなったんです。シンプルはリヴァイさんの好むものでもあると、いまは理解していますが。大きな棺桶のなかみたい、だと……思った」
「それで? 俺の部屋にごちゃちゃものを置いて、生活感を出した、ってか」

 沈黙したまま、卓上の、グラスをさわった。部屋はそこまで冷えていないのに、ガラスの表面はおどろくほどひんやりとしている。もう、またたきのまに冬がくる。

「リヴァイさんの日々に、色があってほしかった」
「……色?」

 色。とりどりの、色があってほしい。
 そうして晩年、リヴァイさんが白髪だらけになって、しわしわになって、元気を思い出すのも難しくなりだしたころ。たとえばそれこそ、ベッドの上でばかり過ごすようになったくらいのころ。長い、長い人生をふり返ったときに、たくさんのカラフルに囲まれていてほしかった。

 そして色が増えていくごと、つまり時間が経過していくごと、安眠できるようになっていったな、と、憶えていてほしかったから、雑貨を贈っていた。

 いつか必ずくる最期の日、人生をトータルで考えたとき、眠れずに眼をいためていた夜よりも熟睡してしまい気づいたら朝だった、という眠りのほうが多かったと感じられるような日々を、送ってほしい。そんなことばかりを、願っていた。

 この、傷痕だらけの人が。大事なものを、数多く手離したのであろう人が。それでも変わらない強さをたたえ、信じられないくらいきれいな優しさをもつリヴァイさんが、このまま幸せで在るようにと、願っている。いまも。きっと、ずっと、いつまでも。

 そうはいっても、この気持ちは私の単なるエゴだ。私だってものを失くしたくない、これ以上なにも失いたくない。リヴァイさんの、ことさえも。そんな想いから躍起になっていた部分も少なからずある。

「座れ」

 立ったままだった私の、手首がひかれた。テーブルの、さっきと同じ位置につく。

「この部屋に色を増やしていきたいってんなら……お前、ここに住め」
「はい……え?」
「もう、半分、一緒に暮らしてるようなもんだろうが。ジャンたちの土産だって、お前と俺と、わざわざふたりぶん渡してきやがる」

 それにな、と。リヴァイさんは前置きし、続けた。

「どんだけ彩られて死んだって、そこにてめえがいなきゃ意味がねえ」
「……え、と」
「寂しくなんねえよう、この殺風景な部屋じゅうを飾ってたんだろ」
「はい……」
「だがそこにお前がいなくちゃどうすんだ。根本的な解決に、至ってねえだろうが」
「根本的……?」

 リヴァイさんが、力強いまなざしを、向けてくる。瞳を逸らせなくなってしまい、彼の青と灰を、見詰める。

「リ……リヴァイさんは」
「ああ」
「私がいないと、寂しいの?」
「まあ、そうだな。大声でピーピー喚いちまうくらいには、物足りねえだろうな」
「ピーピー? ふふっ」
「なにがおかしい」
「ちょっと、見たいな。喚いてるとこ」

 ぺちん、と頭をはたかれた。喚くところを見るのは夢のまた夢、かもしれない。

 リヴァイさんがきゅるきゅるとタイヤをまわす。窓辺へ行き、カーテンを閉める。外はうす暗くなりはじめているから、私は暖炉に薪をくべた。火を灯せば、部屋は一気に明るく、あったかくなる。かさついた薪を見下ろしつつ、もうこんな季節なんだとぼんやり思う。

「で?」

 後ろのほうからの問いかけ。ふり向けば、リヴァイさんは私に向き直るようにしていた。車椅子の上、身体のどこかが悪いとはとうてい思えないほど、ふんぞり返った横柄な座り方で。

「どうすんだよ。部屋ならいくつか空いてるが」

 リヴァイさんの背面には食卓。いましがたふたりでついていたテーブルだ。その上にはささやかなロウソクと、私が買ってきたグラスがふたつ。暖色の炎を虹色に乱反射している。きらきら、きらきら。

 ソファへ腰をおろす。前で、グラスたちの純真な光はおどり続ける。そのまま再び、頬杖をついた。目をつぶる。傍にはリヴァイさんの気配。

「……ずっとこのままならなあ」

 口をひらけば、本音が声のかたちとなって身体から出ていった。ああ、これはもう二度と私のもとには戻らないだろう。一度口をついて出てしまった言葉は、もう、私のものではなくなり、どこまでも、どこまでも遠くへ行ってしまうから。

「ずっと、このままにしてやってもいいが」

 ぱちり。目を開ける。

「だが、その方法を教える前に……お前から先に聞かせろ」
「なんですか?」
「お前は、俺を憐れんでいるか」

 それはとっても悲しい質問だった。おかげで私はううん、と何回も首をふるはめになった。哀れだから、可哀想だから、手負いの男だから、惨めだから、何年も傍にいるわけじゃないことは、信じてもらいたかった。

「オイ」

 はっと顔をあげる。車椅子を寄せてきていたリヴァイさんのひざが、私の太ももに、わずかばかり触れている。

「私がもし、憐れんでいたら……」
「……」
「もっと、もっともっともーっとたくさん、お手伝いをしました。……あなたにできるわけないと決めつけて、紅茶のセットも、家の掃除も、ぜんぶやっていた。あなたにはこう言うの。リヴァイさん、寝ていてくださいね。……それでおわり」
「しかしお前は違った。それはなぜだ」

 なぜ──。言いたいことや、言えそうなことはいろいろあった。好きだからだとか、愛しているからだとか。

 だけど言葉というかたちにしてしまえばこそ、まったく無意味で陳腐な、伝えたかったものとは別のなにかになってしまいそうだった。だから私はしばらくのあいだ、ううんと唸った。

 やがてリヴァイさんも観念したようで、ひとこと、わかった、とつぶやいた。なにがわかったというのだろう。疑問を抱いたけれど、言葉にしなかったおかげで保たれた優しさがあったことには、お互い気づいていた。

 夜には、ふたりでお酒を飲んだ。こぢんまりとした会、それもそうだ、ふたりっきりなのだから。
 リヴァイさんとソファでお酒を酌み交わす。気分がよくなればひとりでハミングし、おつまみが足りなくなればふたりで簡単なものをつくった。飽き足りるほど食べたあと、最後は一枚のブランケットを分け合った。幸せだった。

 飲んでいる最中、ずっと胸にあったのはあの日のこと。リヴァイさんと出逢い、看病するようになり、一度はお別れして、再び会った日のことだった。一瞬でもあり永遠でもある気がした、再会の日。

「リヴァイさん」

 彼の肩に頭を乗せる。

「寝ちゃった?」
「起きてる」
「よかった」
「……なんだよ」
「今度、私の雑貨屋巡りにつきあって」
「構わねえが……男でも入れんのか」
「入れますよ。とってもカラフルな空間で、身体にぽっかり空いた穴たちをそのきらきらが埋めてくれて、すべてが癒えていくのがわかるの」
「ほう……」
「リヴァイさんも、きっと、気に入るから……」

 話しながらもふあ、とあくびが出た。もう寝ろと、うながされる。
 夢のなかへ浮遊するように、落ちていく。お互いの手が絡み合ったのが、かろうじてわかった。頭をかたむければ、リヴァイさんに寄り添うようになる。

 ここまでの人生、楽しいばかりではなかった。国の戦争にまきこまれ、家族も友人も失くし。身体にも心にも大きな傷を負い、日々、疲弊していた。死んだほうがましだと思ったことは数知れない。これ以上なにかを失くすのに耐えられなかった。だから終戦後、持ち物がなくなったあと、雑貨屋に、古物市に通った。そうして大切なものを増やしていった。それはひとえに彼のためであったけれど、私にとっても愛おしくてたまらないひとときだった。

 ふわり、頭を、撫でられる心地がする。

 あのねリヴァイさん。
 私、リヴァイさんが。リヴァイさんだけが最期におだやかでいられたらいい、と思っていた。でも、最期までともにいていいと、思ってくれるなら。私もあの往年の女性みたく、もっと自分を大事にして、自分を労わってみてもいいかなって、思えたの。だってリヴァイさんが自分のことをないがしろにしていたら、私は傷ついてしまうから。

「……おやすみ」

 低い声が耳もとで響く。安心感に、つつまれる。リヴァイさん、名前を呼びたいのにもう、眠くて目がひらかない。

 ふと、うわ掛けのかかるのが、夢見心地のなかうっすらとわかった。それから、抱きしめてくれるぬくもり。

 リヴァイさんと抱き合いながら、かすかな思考で考える。明日にでも海へ行こう。スカーフはまだないけれど。そうして手を繋ぎ、また、ここに帰ってくる。



 翌日、リヴァイさんと近場の海辺を散歩した。海には意外と、たくさんの色がついていた。海水はとにかく澄んでいて、無数の光がゆらゆら、たゆたっていた。まばゆさに目が眩み、車椅子を覗きこんでみると、リヴァイさんも片目をすがめて世界を眺めていた。

 リヴァイさんは待ってると言うから、車椅子をとめ、ひとりで波打ち際を散歩する。靴の裏が、じゃりじゃりとちょっとの砂を噛む。岩場にもどこにも人は少なかった。うなじをかたむけ、真上を見やれば、まあるい太陽が燃えていた。

 いままで、いろんな、とてもいろんなことがあった。家族の泣き声や血のにおいを憶えているし、銃が撃たれたあとの硝煙、転がる薬莢の金属音に怯えて過ごしてきた。だけどいまは私を抱きしめてくれる腕がある。とにかく優しくて、あたたかくて、いまになってようやく、ここで生きていられてよかったと思った。本当によかったと、そう思えた。

 ここまでの人生、楽しいばかりでは、なかった。けれどこれからの人生を、ともに歩いて行きたいひとを、見つけたの。

「オイ」

 彩られる風景のなか、後ろのほうからひとつの声がした。

「あまり遠くまで行くなよ。気をつけて歩け」

 大好きでやまない、たったひとりの男の人がもつトーン。彼だけの、声。

「リヴァイさん!」

 私はどうしようもなく嬉しくなって、急いでふり返った。彼のもとへと駆け戻り、車椅子ごとリヴァイさんを抱きしめると、身体が陽射しにあたためられていた。私の背にも腕がまわる。右腕が。

「リヴァイ……さん?」
「……」
「帰りたくなっちゃった? だったら」
「お前が好きだ」

 ざぶざぶと、しぶきのあがる海が騒ぐ。なのに私たちは静寂につつまれていたし、お互いの心音だけを聴いていた。

 彼のとうとつな言葉にどうにか答えようとするものの、胸がつまって口が動かない。やがてゆっくりと抱き寄せられた。ほんの三本ぽっちになってしまった、でも強くて優しい、武骨な指で。

「リヴァイさん、私、私ね、」

 あなたに、大好きだよって伝えるために生まれてきたんじゃないかって思うの。
 なんて答えたら、リヴァイさんは笑ってしまうかもしれないけれど。





ガラクタ





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