20241209
高さ五十メートルの壁から見下ろす領土マリアは、とても絶景とは言い難かった。辺りを見回したところで、視界に飛び込むのは根っこの埋まる土みたいにジメついた夕暮れ、そよぐ草木や天高くを滑空する鳥の群れに、真下にはりつく不気味な巨人どもばかり。天敵の激越した鳴き声にまじり、風もびゅうびゅうとつめたく唸る。
ただし、リヴァイの数メートル先を歩く女は、それらすべてをまったく気にとめていないようだった。ほとんどドレスといって差し支えのない、フリルの潤沢に施されたワンピースの裾がやけに美しく揺れている。後ろから見ればフォルムの完璧な香水壜みたいだ。彼女、ナマエは貴族の邸宅に置かれているのがよく似合う。
「オイ。あまり俺から離れるな……」
リヴァイは腕を組み、前方のナマエに厳しい語調で注意をぶつけた。彼女がふり返る。舞踏会のさなかでステップを踏み、ターンを決めるように。
「リヴァイ兵長が追いついて!」
楽しげなくちぶりで再び前へと向き直るので、リヴァイは舌打ちをこぼした。腕組みをしたままナマエの背中をゆっくり追う。
彼女は、この壁のあたりで街を守る駐屯兵団への出資者だ。といっても、金を出しているのは女の父親であるけれど。聞けば幼いころからの友人が兵士になり、駐屯兵団へと配属されたのだという。そんな理由ひとつで金を惜しみなく出すとは、と、お育ちの良い女にため息をつきたくなる。
つまるところ、駐屯兵団の後ろ盾ともいえる女だった。ナマエがひとこと壁の上を歩いてみたいと言えば、首を横に振る者はないに等しい。たとえば、駐屯部隊長でさえも。
そうして今日、馬車に揺られて調査兵団本部へ突撃してきたナマエは壁の上に行く、だからリヴァイ兵士長にエスコートしてほしいの、と申し入れてきた。それはあんまりにも唐突な出来事だった。お願いごとというよりは命令に近いだろうか。
さらに今回の話を引き受ければ調査兵団にも出資する、と言ってのけたため、殉ずる他に選択肢など当然なく。結局、エルヴィンがうなずくならば仕方がないと己を言い含め、重い腰を持ち上げて請け合った。
リヴァイはナマエと、舞踏会でたびたび会っている。背に手をまわしてリードし、とりなして、ともに踊ったこともあった。が、それ以上はない。なぜ自分が指名されたのか、リヴァイには検討もつかなかった。
ふいに、目の前の女をふわりと風が吹きつける。いましがたしぼって出した絵の具くらい新鮮な、果てしのない夕闇に染められて赤い光の影響を受けるワンピース。広がる裾は、十二月に咲きこぼれるツバキの花びらみたいだ。
兵団マントより華麗にはためくスカートを押さえ、ナマエはややうつむき加減になった。きれいにまとめられたハーフアップの髪の、わずか程度乱れた毛先のみを後ろへ流すと、そのままふありとした軽やかさで彼女は。
「……なにしてやがる」
ぺたん。壁上に腰を下ろした。かと思えば大雑把に寝っ転がりはじめる。リヴァイは怪訝な顔をして、鼻根に小さなしわを作った。
「やめろ。危ない」
「大丈夫よ」
「ほう……? ずいぶんと自信があるみてえだが」
「だって、傍にはあなたがいる。なのに、いったいなにを恐れる必要があるの?」
硬い壁の上に、両手を伸ばして寝転がる女はけろりと答えてみせた。リヴァイに全面的な信頼をおいている、といった物言いだ。あるいは傲慢な。
「……お前は人を疑うっつう気持ちを失くしたらしい。ついでに警戒心まで捨ててきちまったか?」
「拾いに行けなんて言わないでね」
「は、言わねえよ。探して見つかるなんざハナから思っちゃいない」
呆れ心地ばかりがふりつもる。リヴァイは念の為、ナマエの近くに寄った。ローゼではなくマリア側に立つ。
「リヴァイ兵長」
ふと、寝そべったままのナマエが腕を伸ばした。
「なんだ」
「つかんで」
「テメェで起きられるだろ」
「起き上がりたいんじゃない。リヴァイ兵長にも寝そべってほしいの」
もはや舌打ちも出なかった。嘆息すらも。このばか女をどうにかできないか。なんならもう、馬車につっこんで帰らせてやりたいところだ。
リヴァイは眉間を寄せ、黙ったまま黒目のみをきろ、と動かした。夕暮れ時が終わりそうだ、空が、暗くなりだしている。ナマエはいま、リヴァイの生み出す影のなかにいた。
「ねえ、リヴァイ兵長ってば」
「……うるせえな、聞こえてる」
「なら早く、横になって」
相変わらず愉快そうな言い方をする。このままでは長引く、そんな気配を感じてリヴァイも渋々地面に座った。三角座りのような体勢で片ひざのみを立て、そこに片ひじをひっかける。寝そべるまではしなかったが、静かになったナマエは満足したようだった。
壁外を眺める。どこまでも続く大草原。風に撫でられた草々が揺らぎ、巨大な湖が波打っているように見えた。もしくは伯爵の揺らしたワイングラスの中身のよう。遥か遠くにかすむ山脈の向こうに、太陽が消えていく。連なる山のてっぺんにはもう、乾いた丸い月がひっかかっていた。
「見て。星が出てきた」
横で彼女がつぶやいた。まどろみ、おだやかな口調。いま、きっとナマエの身体の下にあるのは壁などではなく、ぜんぶをつつむやわらかなベッドだった。
リヴァイは後ろ手をつく。うなじをかたむけると、頭上では涙みたいな流れ星が幾筋も走っていく。なににおいても突拍子のない女とふたりきり、ゆるく、流れる夜を肌に浴びた。
「お前はなぜ、俺を選んだ」
降り頻る星屑のもと、淡々とたずねる。
「どうしてここにつれてきたのか、って?」
「ああ」
そうね、と。彼女はしばらくの間悩んでみせるので、リヴァイも口をひき結んだ。
紺青の夜。煌々と照る月明かりにまぶしささえおぼえる。巨人たちも活動を停止させたのか、聴こえてくるのは原っぱのうねりくらいで、とにかく、静かだった。
「私。来月、手術をするの」
星空の明滅とうりふたつのボリュームでナマエが言った。リヴァイは黙ったまま、身じろぎひとつせずに続きを待つ。
「成功率はとっても低いんですって。だからいま、お父さまもお母さまも私のわがままをきいてくれている。好き勝手やらせてくれているの。駐屯兵団を支持しているのだって、壁の上でこうしてリヴァイ兵長とお話するのだって、私がこんな身体でなければ許されなかった」
「……んな状態だってのに、こんなとこにいちゃマズいんじゃねえのか。容態が急変したらどうする」
「それであなたを選んだ」
「あ?」
ナマエを見下ろせば、彼女は仰向けで空を見詰めていた。腹の上で両指を組み、埋葬される直前のような体勢で。虹彩にあまたの光が映り込み、きらきら、きらきらと、無限に輝いて見える。
目が合う。見つめ合うと、ブルーグレイの瞳にはナマエ以外なにも映らなくなった。ふたりの間にはただ風の音だけが通り過ぎていく。リヴァイはふいに、大広間で幾たびも聴いた交響曲を思い出した。木枯らしとは似ても似つかない音なのに。彼女とふたりでいるいまの状況が、記憶とだぶるのかもしれない。
「リヴァイ兵長なら、なにがあっても助けてくれるって……そんな気がしたの」
「そういや俺は、ちまたじゃクソみてえな呼び名で呼ばれていたな」
「人類最強の兵士さま」
「くだらねえ……反吐が出そうになる」
「私は好きよ。リヴァイ兵長は調査兵だわ。武器を振るい、実際壁の外へ出る兵団に属すあなたが最も強いと言われるのなら、それほどの戦果を所属兵科で挙げたということなのでしょう。数知れずの巨人を倒し、街を、人を守った。未来を切り拓いてきた。あなたに希望を見ているのよ、みんな」
「……言ってろ」
「それにね」
「まだあるのか……」
「ええ」
声がさっきよりも、とっても近く聞こえたのはきっと気のせいだ。だってナマエとの距離はさっきからずっと変わっていない。近くもなく、遠くもなく、あいまいなまま。
「私は、ずっと前から」
ナマエが口をとじた。わずかにまつげを伏せ、呼吸をする。丹念に言葉を探しているふうでもあったし、ためらいだしているふうでもあった。リヴァイはどうすることもない。どうしてやることも、できない。
リヴァイも同じように息を吸った。まだ真冬であるというのに、冷えた春先のにおいがした。これはナマエの香りだと遅れて気がつく。
「やっぱり、やめておく!」
「……は?」
「いまのは忘れて」
妙に明るい声で飛び起きた彼女の背中、可憐なフリルのドレスは土に汚れていた。だけどナマエは気にしないと言う。もう、馬車に乗って帰るだけだからと。
昇降機に乗りこむ。遠い街並みを目だけで見渡せば、家々の窓から漏れ出す灯りが、空の星と似ていた。
「かけておけ」
リフトはのんびりくだっていく。その代わり、壁上にいたときに比べて吹きすさぶ風が強く、荒いので、リヴァイは自身のマントをナマエに羽織らせた。彼女も厚着してはいるものの、身にまとえばあたたかいと微笑んだ。
「手術ね」
低位置まで下降したところで、ナマエの乗る馬車がようやく見えはじめる。それらを見下ろしながらナマエは続ける。
「成功する確率、本当はほとんどないの。だから最後に壁上に行きたいってお願いして、ここへ来た」
リヴァイはあごを上げる。眼前に広がるのは見慣れた街の風景だ。でもおそらく彼女にとっては違う。こんな高度から街を眺めることなど、兵士であってもそう多くはない。
ナマエが毛先を払う。寝っ転がって、すっかり乱れてしまった後頭部をリヴァイは見やった。
「ああ、楽しかった!」
心からの声でこぼし、彼女はリヴァイをふり向く。今日一番の、というより、過去最高の笑顔に思えた。舞踏会で着飾っているでもないのに。令嬢の風情じゃなく、単なる若い女の顔つきが街じゅうの灯りに照らされている。
リヴァイは手を伸ばした。ナマエのこめかみのあたりで絡まっていた髪の毛をさわり、といてやると、彼女が緊張感をもったのがわかった。つい、おかしくて気がゆるむ。この女はさっきまで壁上にいて、巨人どもの声をさんざ聞いた。そのときはほんの少しもはりつめていなかったというのに。きれいに仕立てあげられた香水壜に、いまは赤みがさしている。その頬を尻目にみて、再び正面に直った。こめかみに触れるとき指先がかすめた頬は、血がかよっていて、あたたかかった。
下に戻れば、オロオロと心配そうに辺りをうろついていた父親、駐屯兵団の数人がリヴァイを待ち受けていた。ナマエの壁上での様子をアレコレ探られる。でも、リヴァイは結局。
「いつもと変わんねえよ」
とだけ答えた。彼女は実際いつもどおりにトンチキだったし、脈絡もなかった。鬱屈さも、寂しさも、たしかに持ち合わせていたけれど、いつもどおりにばかっぽく、やわらかく笑っていた。もしもそれがナマエなりのかたくなな強がりだというのなら、強がりというひとつの持ち物として、そっとしておいてやりたい。
「リヴァイ兵長!」
近くに停まっていた馬車の小窓から、ナマエが顔を出している。フリルの袖を振られたのでのろのろと近づいていき、やがて向かい合った。車内から降り立ったこまづかいが、リヴァイへマントを返す。
「危うく着て帰ってしまうところだった。その外套、とてもあたたかいのね」
ナマエは「ありがとう」と笑った。そうして、小切手を用意させているから待っていて、と口角をあげる。
「お前……」
「なあに?」
まあるい瞳がリヴァイを捉えた。
「次にここに来るときは、もっとマシな服装を選ぶんだな」
「次、って」
「今回でわかったろ。壁上にその靴は向かない。蝶々みてえにひらっひらのドレスもな」
リヴァイを見詰める目の、きわに。ふちに涙がたまっていくのが、ガラス越しに映った。ポケットから白いハンカチを取り、さしだしてやる。
「安心しろ、ソイツは新品だ。さっき……壁上に腰を下ろしたとき、俺のケツでつぶしちまったが」
くすくすと歌うような笑い声が耳に届く。来月には死んでいるかもしれない女の声だとは、とうてい思えなかった。
「ありがとう、リヴァイ兵長。新しいハンカチを、数日以内に兵団へお届けするわ」
「ソイツを返してくれりゃあいい」
「だけど私、汚してしまった」
「んなこた知ってる。洗ったモンを、お前が届けに来い」
「私が?」
「そうだ」
「いつごろになるか」
「いつでも構わねえよ。……そうだな。たとえば春がきて、暖かくなってからでも」
「……わかった」
別れの直前で、ナマエは初めて令嬢らしい表情をしてみせた。凛と咲く女は深い笑みをこぼす。リヴァイの心のなかへ、花びらを一枚、落とすみたいに。
「さようなら、リヴァイ兵長。またね」
こまづかいの手により小窓が閉まる。御者の合図で車輪がまわりだす。馬車は、まばたきするころには遠くなり、あっというまに離れていった。
リヴァイも踵を返す。背中のほうに消えていく彼女の気配を感じ、自分の馬車へと歩きながら今年の冬はどのくらい続くのか、と考えた。次に彼女と会うときは春だろうか。
次にふたりで会ったときは。またこうして、ナマエのわがままを聞いてやってもいい。
そしてなにより。
──私は、ずっと前から。
あの言葉の続きを聞かなくてはいけない気がする。どんな内容が続くのかは、正直予想もついているけれど。ナマエの唇で紡がれる言葉に意味があると思った。
凍てつく寒さがリヴァイの肌を舐めた。一度後ろをふり返る。しかしもう、彼女を乗せた馬車さえも見つけることは叶わない。地面が一面、月や街灯、家並みの灯りにつやつや濡れていた。
また、歩きだす。カツ、カツ、と兵団ブーツのかかとが鳴る。リヴァイは息を吸った。辺りにはまだ淡い、春先の残り香があった。