キスがしつこい兵長/20240818







 書庫のドア一枚を隔てた向こう側から、廊下を行き来する足音とともに「リヴァイ兵長」と呼ぶ声が聞こえる。そのドアに背をはりつけ、ふさがれた唇の甘さに胸の底までもくすぐられながらはやく終えなくては、と思う。はやく終わらせなくちゃ。だってだれかが兵長のことを探している。資料に目を通してほしいのかもしれないし、午後の演習について質問があるのかもしれない。

「お前……」

 ようやく解放された唇から、はあ、と息がもれた。目の前にいるリヴァイ兵長とは距離が近すぎて、うまくピントを合わせられない。ただただきれいな青と灰色がそこにはあって、私の形を映している。触れられたところから溶けだし、まわりの空気と自分とのさかいめが失くなってしまいそうなくちづけのあとでは、私が確かに存在していると肯定するのはいまは兵長の瞳だけだった。そこに私はちゃんといる、兵長の瞳孔のなかだけに。

「……余所事よそごとか?」
「ん、」
「なにを考えてる」

 囁くようにしながらも再び距離を詰められれば、しゃべる唇がこすれた。

「俺に集中しろ」

 そんなふうに言われても。私はさっきから、兵長のこと以外、上手に考えられていないのに。

 喉が小さく鳴る。兵長の吐息が私の粘膜をねぶるようにする。促されるがままに口を開けると、舌先同士がぶつかった。股下にさしこまれた足、腰にまわっている腕が逃げ道を与えてくれるわけもなく、もはや兵長に縋りつくほかない。

 ぬる、と歯列を辿られて、ふたりぶんの唾液がまざる。リヴァイ兵長は、口蓋のほうまでくまなく味わうようにゆるゆると動いた。淡い息を吐くたび砂糖粒ほどのかすかな声がもれてしまう。これを聞かれたくなくて、平静をたもっているふりをした。無様なくらい必死に。

 兵長の体温が遠ざかる。ほんのわずかなことなのに、どうしたって寂しくてクラバットの下のワイシャツをぎゅっと握った。その上から重なった無骨な手指が私の片方の甲をなぞる。指の付け根や、爪の先までも。そうして最後は手首を掴まれる。背面のドアに押しつけるようにされれば、片手ぶんの自由を失った。

 夏でも低い温度をもつ、彼のぬくもりが近づく。耳もとに兵長の息がさわる。同時に跳ねてしまった肩にはきっと、気づかれた。

「へいちょ、」
「……一生懸命、静かにできていい子だな」

 やわく歯をたてられて、耳たぶにじれったい痛みが走った。声を押さえていることさえ見抜かれていたと知ると、血管じゅうが膨張していく心地に襲われる。熱い、こんなに火照っていては隠しごとのひとつすらできそうにない、だって、つめたい肌をしている兵長には上昇した体温なんてすぐにばれてしまいそうだ。

「口開けろ」
「兵長、でも、んん」

 ふさがった唇では言葉を紡げずに、また、咥内をなぞられていく。うすく目をひらくと、少し伏せられていた兵長のまぶたももち上がるのが見えた。視線までも絡ませて、ひとりの人間になってしまったみたいにふたりでぐちゃぐちゃになる。ぎらつくブルーグレイ、捕食者の眼つきに惹かれてやまない身体は、もうこの人以外では満たせそうになかった。

 押し入ってきた舌に舌を舐められ、何度も撫でまわされる。腰にあった腕が動く。それは私の脇腹を優しく這い上がり、そのまま背骨をのぼってうなじへと。髪の毛に指が埋まるのを感じる。後頭部を押さえられれば、くちづけはさらに深くなった。粘着質な水音が鼓膜を虐めるみたいに響いている、どうしようもなくなって、呼吸を忘れてしまう。兵長に堕とされて、そうすると私は自分の居場所を初めて見つける気持ちにさせられた。いつだって。

 昂るキスに息を乱している合間、は、と弱く笑われるのが聞こえ、なんだか急に恥ずかしさがこみあげて一度固く目をつぶる。そうして、分厚い胸板を押し返した。

「リヴァイ、兵長……」
「ああ」
「だれかが、ん……、兵長のことを、探しています。そろそろ、」
「まだだ」

 隙間でつぶやくものはぜんぶ呑みこまれていき、言葉としての形を成さない。唇が重なっては離れる。子供のお遊びのような軽々しさでリップ音をたてたかと思えば噛みつくみたいにされ、立っているのも精一杯だった。
 ふと、もれ出す吐息をまき添えに名前を囁かれる。

「兵長」
「……なんだ」
「呼んでください、もっと」

 もっと私の名前を呼んで。その声で、たくさん。
 素直にねだれば、兵長は眉間を寄せた。舌打ちをするときによく似ている表情だった。苦しげでもあり、なのにいまは色めいてもいた。

 キスが荒くなる。でも私はどれだけ酷くされても相手がこの人なら幸せで、兵長とのあいだに生じるのなら乱暴ささえも一種の果てない快楽なのだった。

「……兵長って」

 幾たびもナマエ、と名前を呼んでくれる愛情を享受しながらも、口をひらく。

「キス、好きなんですか……」
「なぜそう思う」
「いっつも……いっぱい、してくれるし」

 長い、というか。良く言えば丁寧で、悪く言えばしつこくて。なんにせよ、彼にもたらされる感覚と行為ならば大好きであることに変わりはないのだけど。

「そうだな」

 甘ったるい、ついばむようなくちづけがひとつ。兵長が離れると、お互いを透明な糸が繋いだ。口のはじっこをぬぐわれる、頬をさすられる、とっても近い距離で見つめ合う。

「……いままでは、好き好んで口と口をはっつけてえと思ったことはなかった」
「じゃあ、いまは?」

 まだ答えられてもいないのに、少し、得意げな気分になって勝手ににやけてしまう。私の口角のあたりを眺めるなり、兵長が渋い顔をするからちょっとおかしい。ほっぺをぐに、とつままれる。

「いたい」
「嘘つけ。こんなに優しくしてやってんだ、痛いわけがねえ……オイ」
「はい」
「笑うのをやめろ」

 こくこくうなずけば、頬が元の形に戻った。

「リヴァイ兵長と私、両想いなんだなって思ったら嬉しくて」
「アホか」

 んなの、いまさらだろ。兵長は吐き捨てるように言うと、最後にやわらかいキスをくれた。
 もみくちゃになって乱れ気味になった兵服を直される。そのあいだに、私も兵長のワイシャツやクラバットを整えてあげることにした。このところお互いに忙しくてなかなか触れ合えなかったぶん、こうして人目を盗んでできることといえば、限られてくるから。

「あの」

 すっかり上官然とした兵長は、腕のカフスボタンをいじっている。うつむきがちな頭。呼びかければ目線のみを向けられる。

「今夜……兵長のお部屋に伺っても、よろしいですか……」
「あ?」
「たまっていた雑務が片付きそうなんです。あとは、おいしいと評判の茶葉も手に入れたので……その。紅茶を淹れに行きたいな、なんて」

 いくらつきあっているとはいえ、夜に兵長の私室へお邪魔したことはいまだかつてない。だからこれは、私なりの大きな一歩目だった。兵長のお部屋で紅茶を飲んで、短い時間でもいいからおしゃべりをして。少しでも傍にいたいという欲求。

「構わん」

 と、しばし考えるそぶりをしたあとで兵長が応える。自分の虹彩が光を深く取りこむのがわかる気がした。おそらくいま、私の瞳孔は絞られている。きらきらとあからさまな喜色をはらんでいるに違いない。

「だが」

 ボタンをとめ直した兵長が、こちらに向き直った。髪束をすくわれる。それは操り人形の糸のように兵長の指先で絡まり、楽しそうにおどった。

「来たら、帰してやれねえぞ。……夜のうちにはな」

 ぱらぱらと落ちていく毛先が首すじを撫でる。兵長の瞳がゆっくりと、逸れていく。いつもの鋭い眼光さえもそのままに、だけど今夜私室へ行けばすることを思わせるような妖しさで流れていった。きれいに。あるいは淫らに。まるで愛撫そのものみたいに。

 お前が選べ、と言われているのだと直後に気づく。今日、リヴァイ兵長の前ですべてをさらけ出すかどうかを、私が決めなくてはいけないのだと。たとえば戦闘中みたいに、ひとつの迷いもなくまっすぐなボリュームで命令されるほうがよっぽど楽だ。自らの意思で夜更けの私室をノックをするのに比べたら。

「このあとは……訓練地での演習か」

 お前もしっかりやれ、と。兵士長の声音で言い残し、彼は横を通り過ぎていった。
 ぱたりと静かに扉が閉まる。書庫にひとり残され、手持ち無沙汰になった両手のひらを頬にはりつけた。上気した頬が冷えるのには、数分を要するだろうか。

 リヴァイ兵長、そこにいらしたんですか、と廊下から話し声が届く。きっと兵長はすでにいつもどおりの顔色で対応しているはずだ。私はいま、こんなにも脈拍を狂わせているというのに。





Gimme a sign.





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