20240222
昼休み、エレンはぼうっとパンをかじっていた。社内カフェも会社近くの飲食店も混雑するので、朝の通勤途中にコンビニで買っておいたイチゴジャムのパン。取りだしたときには、少し潰れていた。
オフィスには他に、上司であるリヴァイしか残っていない。あまりに静かで、人が多ければ気づきもしないことがやけに気になってしょうがなかった。フロアタイルの、いつまで経っても新築みたいな匂いとか。作動し続けている空調機のゴォォという音とか。ときどき聞こえる、リヴァイのデスクチェアの軋みだとか。
エレンがリヴァイのほうを見やると、彼はゆったり腰掛け、片手にスマホを持っていた。逆の手は口もとを隠すように顎に添えらているため、何かを思案しているようでも、苛立っているようでも、むしろ楽しんでいるようでもあった。いまいち表情が読み取れない。
リヴァイのデスクにはいつもどおり、自前のマグが置かれている。他にパソコン周りを華やかにするものはない。彼のデスクはいつだって、パンフレットに載っている写真のように整然としていた。それをリヴァイらしいとエレンは思う。リヴァイは、ネクタイを歪ませたまま出勤したりしない。感情を大っぴらに出し、騒いだりしない。常にぴしっとしていて隙がない彼の姿は、エレンの目にはデスク同様、無機物のように見える。
「なんだ」
パンの端。ジャムの詰まっていない、パサパサの部分をちまちま口に入れていると、青灰色の瞳がエレンに向いた。いえ、と首を振り、観察していたことを誤魔化すみたく一気にパンを飲み込んだ。乾いた喉に張りついてうざったい。追いかけるようにココアを飲む。砂糖漬けになった身体が、元気になっていくのがわかった。
「課長って、あんま飯食いませんよね」
昼食時だというのにマグを傾けるだけのリヴァイに、話しかけてみる。内心、重たい気まずさを払拭したいからでもあった。
すう、とリヴァイの黒目が動く。エレンを視界に捉えた彼は、けれど一秒もしないうちに視線を手もとへ戻し、そうでもねえ、と言った。そうでもなくないだろ。胸中で反論しつつ、エレンはココアを飲み干す。
手持ち無沙汰になり、パンの袋を丸めたり折りたたんだりしていたが、やがて飽きがきた。新しい一杯を淹れようと立ち上がる。が、ふと思い立ち、リヴァイの席へ向かった。課長の分も淹れてきましょうかと訊ねるついでに、さっきから何を睨み続けているのか教えてもらおうという魂胆だった。
「課長、何か飲み物……なんすかそれ、ロボット?」
声をかけた瞬間、リヴァイのスマホが傾いた。意識が逸れて力が抜けたのだろう、画面が天井へ向くかたちで。つられて俯いたエレンの目にも画面が映る。そこには電化製品の写真が並んでいた。球体の、ロボットの画像のように見える。
「ロボットじゃねえ」
「……あ、ペットカメラ?」
自動追跡、家庭用、防犯ペットカメラ。商品名よりひとつひとつ情報を拾い、納得する。
「そうだ」
「課長、動物飼ってるんですね」
「最近飼いはじめた」
「犬ですか? チワワ? ポメ? ウサギとか?」
「猫だよ、エレン」
背後から突然声がして、エレンの肩がびくりと跳ねた。振り向くと、ペトラがいた。奥にはエルドやグンタ。ランチに出ていた先輩たち。室内が一気に、乾燥した空気で満ちる。最後に戻ってきたオルオはあくびをしていた。
「猫、かぁ。なんつうか意外ですね」
度を越した綺麗好きであるリヴァイなら、毛がつくだのなんだのと文句を垂れそうなものだけれど。それに、もふもふを抱っこするさまを浮かべてみても。
「似合わねえ、ッた!」
ベチン! と後頭部を叩かれて再び振り返ったエレンを、凶悪な顔をしたオルオが迎えた。彼の目つきは任侠映画のヤクザさながら。
「似合わねえってこたねえだろが。考えてみろ、課長が猫ちゃんを撫でる! ふわふわの可愛い命と、デレる課長! 最強だろうが!」
「はあ……」
それはもう、動物がいなくてもいいのでは。課長がデレてさえいれば。とは口に出さず、エレンは話半分にうなずいた。オルオはリヴァイを盲目的に慕っている。
「にしても、ペットカメラって高いんですね」
「安いのもある。まあ、簡単に壊れちまうが」
「へえ」
「ゆうべも一台壊されてな」
「はっ?! 壊された? 猫に?」
「四六時中監視されてるのが嫌なんだろうな」
「……ああ、猫ってあれか、すげえ走り回るんでしたっけ。カーテン登ったり」
「群を抜いて悪ガキなんだよ、うちのは」
ふうんと答えつつも、猫と追いかけっこをする上司を想像すると面白かった。
「あ。ありがとうございます」
ペトラが淹れ直してくれたココアを受け取る。リヴァイのデスクにも、新たな紅茶が入った。
「課長、また猫ちゃん見てたんですか?」
「また?」
ペトラのひとことに反応すれば、最近よくカメラの映像確かめてるから、とエレンに悪戯っぽく笑ってみせる。
「でも私たちには絶対見せてくれないのよ。写真も動画も」
「あはは。暴れんぼうのムービー撮ってんだ。オレも見てえ」
「でしょ? すっごく可愛いって言うから見せてほしくて頼み込んでるんだけど、だめなんですって」
リヴァイは仏頂面のまま、紅茶をひとくち。飼い猫を誰にも見せたくないなんて、可愛がっているというよりももはや溺愛に近いような。猫ちゃん用のSNSをはじめるなんてどうですか、と提案したペトラにも、彼は首を振っていた。
「なーんかいいっすね。家帰ったら出迎えてくれる存在」
「まあな」
「……あ、だから課長、最近めちゃくちゃ帰るの早いんだ」
「長時間ひとりにさせられねえだろ」
ペトラが自分のデスクに戻っても、エレンは話を終わらせなかった。普段こんなにリヴァイと会話することがないので、新鮮だったのだ。エレンからすれば無機物のようであったリヴァイの、人間味を感じる。
「世話、大変です?」
「手はかかる」
「毛の掃除とか?」
「……トイレをなかなか覚えない。我慢する癖がついてる」
「我慢、ですか」
「ああ。いつどこでしてもいいように、あちこちにペットシーツを敷いやってるんだが……だめだな。俺が帰って……促して、ようやくだ」
話しているあいだに買い物を終えたようで、リヴァイはスマホを置いた。
「今度のカメラは壊されないといいですけど」
「心配ない。物を壊すのはいけないことだと、躾けたからな」
「猫に? 猫って躾けられるんですか?」
「うちのは賢いんだ」
つぶやいたリヴァイの表情も、声色も、会議中のそれとほとんど変わらない。そのくせさらりと親バカじみた発言をするので、エレンは小さく吹き出した。
「厳しくしすぎて嫌われないでくださいよ」
「気をつける」
「遊んで甘やかしてやらねえと」
「んなモン毎日だ」
ふいに以前耳にした、リヴァイは独身だという噂が脳裏をよぎる。こんなに愛猫を可愛がっていてはきっと恋人もできないだろう、などと、勝手に推測した。同時に、それほど充実した生活が送れるのだと思うと羨ましくもなった。
「猫ってやっぱ、ねこじゃらしで遊ぶんです?」
「どうだかな。使ったことがねえ」
「じゃあ何して遊ぶんですか」
「遊び方はいろいろある。今朝もひとつ、玩具を与えて出てきた」
「オモチャ?」
「勝手に動くやつで……俺がいなくても、ひとり遊びができる」
普段厳しい上司の口から出るワードにしては、なんだか浮いていた。だんだんと、子供の話をするパパのようにも見えてくる。
「電動のオモチャとか、便利な時代ですね」
「……生まれたてみてえなお前が言うんじゃねえよ」
「だってそうじゃないですか。課長の猫、今も遊んでるかもしれないんですよ。課長がいないのに」
「まあ、遊んでるだろうな。……あんまりうるさくしてねえといいんだが」
「結構鳴くんですか」
「夜なんかとくにな」
「ああ、猫、夜行性って言いますもんね」
「おかげで毎晩寝不足だ」
「ええっ。そんなに?!」
「なあ、エレンよ」
「はい?」
「もういいだろう、この話は」
リヴァイに中断されてやっと、昼休憩をとっていたことを思い出した。すっかり話題に夢中になっていた。エレンは大学進学とともに親元を離れ、以降ずっとひとりで暮らしている。癒しも潤いもない生活は、パサついたパンみたいに味気ない。リヴァイの話を聞きながら、自宅に猫がいる想像をして、いつしか間接的に癒しを得ていた。ペット不可のアパート住まいなので、実際に飼うことはできないのだが。
自席につく。丸めっぱなしだったジャムパンの袋を捨て、歯ブラシを取り出しついでにスマホを確かめれば、メッセージの通知が一件。開けば友人からだった。合コン、という文字を見てすかさず返信する。
ざわめきが戻ってきたオフィスは明るく、音にあふれていた。そんななか、エレンの隣の席は今日も空っぽだ。同期の女、ナマエの席。パソコン周りには、小物がぽつぽつ置かれている。エレンは彼女の顔を思い浮かべ、新たなメッセージを打った。
ここ数日、ナマエは出社していない。ペトラたちも心配しているが、皆一様に事情を知らないと言った。体調不良かもしれないし、他に不都合があるのかもしれないし。退職する気でいるのかも。いずれにせよ、何か力になれたらいいと思う。ナマエとは、業後ふたりで飲みに行くくらいには気心の知れた仲なのだ。
「よし」
送信。そのまま、なにげなく目をやると、リヴァイは先程と同じくスマホを眺めていた。口もとはやっぱり覆い隠されている。ペットカメラの映像見てんだろうな、とエレンはなんとなくの予想をつけた。
「……あ」
ぽつりと声を出す。同期が休んでいるわけを、リヴァイなら把握しているのではないか? 教えてもらえるかどうかは怪しいところだけれど、聞いてみるだけ試してもいい。そうと決まれば話は早い、エレンは再び、立ち上がった。