エルヴィンに最期を守ってもらう話/20201025
秋は夜が長いという。それはつまり、巨人の活動時間が短いということだ。ならばもう少しゆるめたいはずの気持ちはしかし、望みとは裏腹に張り詰めている。
月明かりが針葉樹の葉の隙から漏れ出づるなか、エルヴィンは木の枝上で女兵士を抱きしめ、震えた。彼の呼吸は、真冬を寒がるこどものそれと似ている。
バサバサ、ギャアギャア、ガサガサ、ザワザワ。夜の森はいろいろな音がした。なのにひどく静寂で、騒音と無音の境界線が曖昧になる。不安定になる。神経は過敏になり、エルヴィンはギンとした眼でまばたきすら忘れ、辺りを見渡した。巨人も仲間も確認できずにようやくまたたくと、乾燥した眼球がちりっと痛む。
「……生きている、」
生者にしては低すぎる体温のナマエを見、もしいま死んでいても気がつかないと思ったとたん笑ってしまいそうなほど怖くなり、心音を聴いたあとでつぶやいた。
壁外から生きて帰ってきて初めて一人前といわれる兵士になって数年。腕のなかの女──ナマエはひとつあとに入団した兵士で、同郷なこともあり、彼はよくよく気にかけ面倒を見ていた。そこには恋慕こそなくとも、特別な感情が浮いたり沈んだりしていた。
──いもうと、のようだ。
エルヴィンはそう思うときの胸のあたたかさを、間違いなく愛している。
父子家庭で育った彼は、父を失って以降、家族に憧れたり家庭を持ちたい己を叱責し、何度も頭のすみに追いやり、己にとっての幸せの定義を書き換えてきた。父を殺した自分が妻や子を持てるか? そんな可笑しな話があるか? あの立派だった、生きるべきだった父と同じ、未来を、自分が生きられるか?
それは酷く可笑しな話だ。考えるたびエルヴィンは口もとを歪めてしまった。
そういうときにどうして笑っているのかと聞かれれば黙って眼で笑い返してみせた。気持ちの悪い奴めと言われ、同期たちのなかでも孤立しがちだけれど、彼はそれで構わないのだった。
お前たちは人類のために戦っているのだろう?
エルヴィンは彼らにそう、胸のうちで語りかける。自分の夢のため、ではないのだろう? 他者を守るために死ねるのだろう? 屍を敷き詰めて道を作り、その上を土足で進むことをお前たちはきっと批難するだろう。
ならばなにも言うまい。絶対死ねない、などと。俺には夢がある、などと。彼は孤立しがちだが、それでまったく、構わなかった。
だけどナマエと出逢ってしまった。いもうとのようだと思ってしまった。一回思ってしまったら、もう、思わなかった日々に戻れなくなった。いとしい、まるでいとしい、
──家族のようだ。
エルヴィンはナマエを、間違いなく愛している。
「エル、ヴィン」
「もう大丈夫だからな」
どこか遠くで鳥が羽ばたいた。それのたった十分の一程度の声量でナマエが名前を呼ぶ。なのに、エルヴィンには聴こえなかった、羽ばたく音は聴こえなかった、彼女の声しか聴こえなかった。
「君は助かる。俺がかならず助けてやる」
戦闘陣地を広げるため拠点を設営する、というのが今回の壁外での目的だったが、夜目前の夕刻、数体の奇行種に遭遇して調査兵団は兵士の数を極端に減らした。その際ほとんど機能しなくなったふたつの班をおとりにする作戦が立てられ、うちひとつの班に彼女がいた。すでに満身創痍だったナマエをエルヴィンは離散時のどさくさにまぎれてどうにかさらい、懲罰を受けるとか兵器違反で退団だとかいうもしかしたらに考えが至らぬまま馬で駆けてきた。そうして森林に潜りこみ、馬を置いてふたりきりで木の上にいる。
懐中時計もないので体感が頼りだけれど、アンバランスな感覚はもう使いものにならずに、いまが何時なのか、あとどのくらいで朝がくるのかわからない。
でも闇夜にまみれて時間が経てば辺りはよく見えはじめ、だから暗くてもわかった。ナマエの血の色が夜と似ていくこと、ナマエの肌から色が消えていくこと。ナマエが明日を迎えられないこと。
「大丈、……なあ聞いているか、聞こえるか」
「うん」
「よかった。そうだ、なにか話をしよう。昔の君の話を聞きたい。やんちゃだったか? きっとそうだろうな。君は人を驚かせる天才だし、いつも笑って……ああ、すまない。話してくれ」
怯えきったエルヴィンの幾つもの呼吸が過ぎる間、反して彼女が吸って吐いたのは一度きり。乱れた己を正そうと深呼吸して、そして、息をひそめる。ナマエの音を聴きたかった。ナマエの生きる、音だけを。
「……いつか、エルヴィンの指揮のもと、外に出てみたいな」
「はは……突然だ。そうだな、もし俺が指揮官になったらできる限り犠牲者は出さない。だから君も、死に怯えることはなくなる」
「でも……もしかしたら、なにかひとつを守るために百の命を切り捨てないとならなかったり、するかもしれない」
「そんな、悪魔みたいな……非道なことはしないさ」
「……私、私ね。エルヴィンが臆病者じゃないって、知ってるよ」
ナマエの瞳のなかに薄い、潤みの膜が張る。そのなみだに煌々とした月明かりが反射する。眩しいだろうか、閉じさせてやりたくもあるが、一度でも閉じたら二度とまぶたをひらかない気がしたのでエルヴィンはナマエをまぶしいままでいさせた。
「人類のため、王のためならば、死こそ栄誉、死こそ誇り……たとえ敗北を喫しても、生き延びて帰還するより、息絶えているほうがずいぶん讃えられる……組織は無能だと、責められるのにね」
「……」
「エルヴィンが……戦闘を避けてばかりで、弱虫、臆病者って言われてるの、知ってる……それでエルヴィンが、悔しいことも、諦めていることも」
「諦めている?」
「解り合うこと。信頼に足る仲間を、つくること。本音を……さらけ出すこと」
ひときわ大きく揺れた胸の真ん中あたりから、全身に血がめぐる。
「本当は……とても勇敢だってことも、知ってる。強い信念が、あるんでしょう? 見たい景色と、見ているものが、あるんだよね」
エルヴィンは息を、引き取るときのように吸った。ナマエには夢のことを一度も聞かせていないのに、なぜ。
「……わかるよ。一番近くに、いたんだから」
「君には驚かされてばかりだ」
かすれた吐息がもれたのみだったが、彼女は笑った。嬉しそうに。いつも驚かせてきたあとにしてみせる、いとしい笑みで。
「……そんなエルヴィンを、理解して、信頼してくれる人は……現れる」
「もう、君がいる」
「ねえ、エルヴィン。私の守りたいもの、エルヴィンが、守って」
「守る、守るさ、なんだって守っ……」
「私は、エルヴィンを守りたい」
「だからね」ナマエは続け、そして、「私をここに、置いてって」と言った。やけにくっきりとした声で、言葉のひとつひとつが、エルヴィンの鼓膜を刺す。
「俺はここにいる。君のそばからは、離れない」
秋は夜が長いという。それはつまり、巨人の活動時間が短いということだ。ならばここでナマエの最期を抱きしめていても、きっと時間は、それでもまだまだ、
「夜が明けたら戻れない、いま、すぐ行って」
「嫌だ……」
エルヴィンは彼女の身体ごと、己を抱くようにした。心臓が重なる。怖い。刻一刻とにじり寄る朝が。終わりが。別れが。もうすぐ新たな一日を、独りではじめなくてはならない。明けない夜はない。どんなに朝がくることに怯えても、夜は、終わってしまう。
「もう行って」
「君を置いていけない」
「……眠るところ、見られたくないの」
「……、」
決めなくては。大事なものを捨てる覚悟を。人間性をも捨て去る覚悟を。
いつか、夢のふもとに手を伸ばしたときに迷わぬため、揺らがぬため。怯えない、泣かない、痛まない、傷つかない、それから、悔いない、ために。
「エルヴィン」
強さを。
「私の最期を、守ってくれて……ありがとう」
守りたいものを、守れるだけの。
どうか、果てのない、強さを。
なんとかマリアまで辿り着くと、エルヴィンは兵団本部の付近を流れる川のほとりで馬を降り、フードを深くかぶったまま昏い面差しで外套、それからシャツをひと撫でした。こびりついた、自分のものではない濁った血を。ナマエからこぼれたものなのにナマエではない、彼女を生かしていた、その血を。
たゆたう流水音を聴きながら、疲弊した身体で立ち尽くす。ふと手のひらにも血がついていると気づき、指を組んでひらを合わせ、祈るようにひたいを伏せた。
「……進め」
進め、進め、進め──。
よるべのない哀しみを、エルヴィンは声にし続けた。
そのあと本部に戻った彼のことを叱る者はなく、みな一様に無事でよかったと言った。そのたび少しずつ、体温を失っていくようだった。
極度に緊張した糸をほぐすことができずに彼はその夜、眠らなかった。黒にも近い藍が、重苦しい紫が、顔を出した朝陽に押しやられるのを見ていた。ナマエが見られなかった色を、ただ、見ていた。
翌日、本部を取り囲む森林のなかで一心不乱に土を掘っていたが、不眠のせいか眩暈に襲われ、中断する。
あまりにもよく晴れた空を仰ぐと眩しさに灼かれ、手をかざした。浮かぶ雲を眼でなぞる。細い筋のような、透き通る秋の雲。高く、遠く、現実味のない秋の空。綺麗なはずのそれらは、いまはでも、エルヴィンには悲しく映った。
独りではじめた今日は、昨日や一昨日となんら変わりなく、探しても間違いは見つからない。正しく在る日常と、ぶれない昼夜のサイクルが、容赦なく前へ進めと責め立てる。
「──エルヴィン」
「ミケか」
ふいにかけられた声によって意識を手もとに戻した。固い土を掘っていく。傍らにある血濡れのシャツはゆうべ自身が着ていたものだが、血はナマエのものだった。だから捨てることも燃やすこともできず、シャツは埋めることに決めた。
「昨日、お前がひとりの兵士を抱えて戦列を離脱していくのを見た」
ミケが囁くようにする。
「それで?」
違反を報告するというのか、あるいは脅迫でもしてくるか。たいして話したこともない男を警戒する。
「今日は少し、天気が良過ぎるな」
「ミケ、発言が支離滅裂だ」
「お前にはきっとつらいだろう。この……晴れ空は」
肝がつぶれるみたいだった。おもわず目を見ひらき、エルヴィンはミケを見上げたけれど、ミケは空を見上げていた。無言がしばらく、ふたりを分かつ。キチキチキチ、と百舌鳥の高鳴きが聴こえたところでエルヴィンは「意味がよくわからない」と返した。訝しむような顔をしてみせ、踏みこんでくるなという声色で。
「俺は鼻が利く」
「知っているさ」
「お前なにを考えているかも、わかる」
「ああ、……嫌な奴だな。たしかに俺はいまあまりよくない感情を抱いているが、それはお前には関係ないよ。俺の問題だ。いくら鼻が利くからといっても、こんなふうに他人の」
「フッ」
碧の眼を細め、心底不快そうな表情で言ったエルヴィンに対し、もう一方の男は笑った。碧眼はさらに歪む。なぜ笑う? なにがおかしい。つね日ごろ自分が訊かれるそれを思う。疑問をぶつけるより先に、ミケは答えた。
「……においなんかで、人の機微まで解るはずがないだろう」
やられた。苦虫を噛みつぶす。放っておいてくれ、とエルヴィンはおとなげなくも吐き捨て、そのあとで、もしかするとミケも悲しい空を見上げたのだろうかと思った。繰り返される、まったく正論のような日々に追われるのは自分だけではない。
時間をかけてシャツを埋め終わったころ、大きな作業などしていないのに再び眩暈がして、エルヴィンは立ち損ねた。
「エルヴィン。俺たちは、兵士だ」
服を埋めているさなかじゅう、横で黙ったまま動かなかったミケが、やっと動く。言葉を発し、手を差し伸べる。
「……だから、戦い続けないとな。これからも。立ち上がれなくなりそうなときは、仲間を頼れ」
この手を掴め、と。立ち上がれ、頼れ、と、彼は言っている。
──仲間とはこういうものだろうか。
悲しさやつらさで眩暈がして倒れそうになったとき、少しの否定もなく受け容れてもらうことは、易いことではきっとない。
孤立しがちな男は、力強い手を掴み、立ち上がった。
「ミケ、俺の考えを聞いてくれないか?」
「なんだ」
エルヴィンは戻る道すがら、いまの兵団の在り方や陣形への不満を話した。初めてのことだった。
「──なるほどな。たしかに遭遇した巨人をいかに倒すかということばかり重視している」
「ああ。損害を減らさないと、いつまで経っても調査兵団は人員不足だ。もっといい展開図があるはずなんだ、絶対に」
「なら話は簡単じゃないか。お前が新陣形を考案して、上に訴えればいい」
「そんなこと……いや、うん……そうか。そうだな」
「俺はお前の意見に賛成だ。先へ進むために戦闘を避けることは、逃げじゃない」
エルヴィンを理解して、信頼してくれる人は現れる
ナマエのひとことを手繰り寄せた。自分にも誇れる仲間と、そして、自分を信じようとしてくれる仲間はできるだろうか。彼らのためなら死ねると思い、俺には夢があると打ち明けられるような。
「なにか手伝えることがあれば、協力しよう」
「……ありがとう、ミケ。頼りにしてるよ」
なんの悪感情もないままに笑顔をこぼし、エルヴィンは本心から告げた。
また、ひとりになって空を仰ぐ。燦々と照る光は明日も、明後日も、明明後日も、だれが死んでも、生きても、変わらず朝を連れてくる。胸の哀しみは消えきらない。
だけど、頭上に広がる秋空は先程と同じものであるはずなのに、彼の眼には先程よりもずっと、ずっときれいに映っていた。