ファーストキスの味を知る話/20250115







 ファーストキスってレモンの味がするらしいんです、と言うと、兵長は「へえ」とそっけなく答えた。いつもみたいにおかしなもち方をされたティーカップが、兵長の唇で傾く。

「本当なんですから!」
「そうか」

 まったくもって興味がない、といった風体。彼はただ手もとの書類をめくり、私のほうを見もしない。

「この本に書いてありました」

 むっとしてデスクへ駆け寄ると、一冊の書物をずいと押しつけるように見せびらかす。やっと顔をあげた兵長の、表情はでもゆるまない。眉間を寄せたまま、目線で本のタイトルをなぞるとやがて口のはしをかすかに歪め、再び書類へと意識を向けてしまった。得たばかりの知識を誰かに披露したくて紅茶を差し入れるついでに話してみたというのに、反応があんまりにもうすくて口先が尖る。

 だったらほかの人に教えてあげようかな。思い立ち、同期の姿を次々浮かべた。エレン、ミカサ、アルミン。サシャ、コニー、ジャン──そこまできたとき、兵長のファーストキスはどんな感じだったんだろう、なんてことがふいに頭をよぎる。兵長とはつきあいだして短いうえに、昔話を耳に挟んだこともない。子供のころの様子も、いままでの恋愛遍歴も私は知らないから。

「あの。リヴァイ兵長」
「なんだ」
「兵長の初めてって、どうでしたか?」

 たずねてみれば、なぜか声が喉にひっかかるようだった。聞いた傍から質問したことを後悔し、やっぱりいいです、とかぶりを振る。でも脳内にはりついた、見知らぬ女の人とくちづけ合う兵長のシルエットは消えていかない。うつむきがちにため息をひとつ。心のなかのモヤモヤが、辺りを漂う紅茶の香りよりも濃くなった。

 ばさりと書類を放る音がした。整然と片付いたデスクの上には、その乱れた紙束たちと、中身のほとんどなくなったティーカップとがある。
 兵長が立ち上がる。彼はデスクを回り込んだ。目で追うようにすれば、私の身体は反転するかたちに。一歩ぶん、こちらへ踏み出されると自然と一歩下がってしまい、腿のあたりがデスクに押し当たった。

「兵長……?」

 兵長が、片手を卓上につく。後ろで紙束やカップの動かされる気配があった。抱えた本を奪われる。直後、両腕で腰を持ち上げられ、私はデスクへと座った。兵長はまるで、カップでもつかむみたいに私をさわった。丁寧に、とても慣れているふうに。そのまま両手をわきに置かれれば、距離はまったく近くなる。囲われている、というより、囚われている心地がした。

 兵長の肩口に手をあてる。リヴァイ兵長が、ゆるりと視線を下げた。抱擁みたいに熱のこもった目線は私の唇で止まり、また、まつげが上がる。たったそれだけで唇がわななく。どうしてか、じかに触れられた心地がしたのだった。

「俺を見ろ」

 行き詰まって、どうしようもなく伏せていた瞳を叱るような物言い。従えば、色素が抜けてしまったみたいにうすくきらめく瞳と見詰め合う。兵長に表情はない。これは彼の常であるけれど、まなざしはまっすぐで、強かった。

「っ」

 頭をかしげるみたくした兵長の鼻先が私の鼻に当たり、びく、と肩がはねてしまう。つま先も手のひらも首すじも、頬も頭のなかまでも熱くなる。

「……目ぇ閉じねえのか」
「あ、」
「まあ、構わないが」

 閉じます、と言い返そうとしたのに。そんな間もなく、唇が重なった。目は、反動で勝手につぶってしまった。
 初めてのキスは、紅茶を含むのと似ていた。芳しくてくちあたりが良い。渇きを潤してくれるのに、まだまだ次が欲しくなる、そんなようなもの。
 角度を変えて、何度もするうちに唇を舐められて、侵入してきた舌を私も舐めて、絡み合う。兵長の肩、兵団ジャケットを握りしめる。
 離れるころには透明な糸がひいた。指でぬぐわれると、恥ずかしさに視界がにじんだ。

「これがお前の初めてか」
「はい、」

 耳に、髪の毛をかけられる。兵長自前のうつくしいティーカップさながら、陶器のつめたさをもつ指先が気持ちよくて目を細めた。

「俺もだ」
「……へ?」
「行為自体は経験があったが。こうして、惚れてる女としたのは初めてだった」

 声音は表情と同様、落ち着いている。キスの味について語ったときのようにそっけなくさえあった。けれど私はそのことに不満を抱かない。触れてくる兵長の手つきが、見詰めてくるまなざしが、あたたかくて優しくて、ひときわ甘ったるい。いま紡がれたひとことも。たとえばちょうど、ミルクや砂糖を入れた紅茶みたいに。

「で? どうだった、味は」
「あ……レモン、じゃ、なかった……」

 たどたどしく答えれば、は、と小さく吐息で笑われる。ばかにするようではなく、仕方なく出てしまったという響きをたたえる笑み。

「待って」

 私から離れようとした兵長の、腰のあたりを。シャツをひっぱった。ブルーグレイの目だけで先を促される。

「も、もう一回、してください……」

 言って、今度こそうつむかずにいればリヴァイ兵長は少しのあいだ沈黙し、だめだ、とつぶやいた。ワイシャツを握る私の手をほどき、するすると手の甲や指先を撫でてくる。

「これ以上は俺が……やめられなくなっちまう」

 言い終わると同時。カリ、と、手のひらをひっかかれてぞくぞくした。キスのあとに繋がる行為を連想し、呼吸がちょっと、難しくなる。
 兵長が離れていく。視界がひらけて明るくなる。私もデスクから降りると、足がふらついた。

 イスに腰掛けた兵長のほうをふり返ることができずに、両頬を手でつつむ。ひどい緊張感が肩に乗っかっていた。どんな顔をしてどんなくちぶりで彼をふり向けばいいだろう。考えるほどにわからなくなって、本だけを持ってこのまま執務室を飛び出したい気持ちになる。だけどそんなの許されない。心を決めてデスクに向き直り、定型文のような兵士の挨拶を残して退室した。兵長のことはうまく見られなかった。
 そして扉が閉まるとき。とじゆくドアの隙間、奥で、兵長がうなだれるのを捉えた。両ひじをつき、指を組んで。ひたいを伏せて、へろへろと脱力していくさまを。

「はあ……」

 完全に閉まった扉の横、壁に背をもたれ、ずるずるとすべり落ちる。さっきまで執務室を飛び出したい一心だったくせに、すでになかへ戻りたいという衝動に駆られていた。だっていますぐ兵長に抱きつきたくてどうしようもなかった。キスはレモンの味なんかじゃない。兵長とのくちづけは甘くて熱い、紅茶の味がするんだと、知ってしまったせいで。





テオ・レ





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