20250302
ひとりの部下がどうにもふてくされている。
壁外調査の下準備、度重なる会議に演習の監査、書類作成などの机上仕事。もろもろの執務に追われて慌ただしく、しばらくのあいだ口を聞いていなかった。ようやく空いた身体で部下──ナマエに声をかけ、ひさしぶりにふたりきりの夜を過ごそうというタイミングにもかかわらず、ナマエが嬉しそうにほわほわと花を飛ばしたのは初めだけ。いまはいささか、こわばった気配を漂わせてすらいる。
自身の執務室に向かう最中、リヴァイはナマエの後ろをゆっくり歩きながら正面の双翼を見詰めた。リヴァイと同じくらいの背丈であるというのに、リヴァイよりもひと回り小さい背中。兵士と呼ぶには心許無いナマエはでも、すでに何度も壁外から帰還している。言うなれば精鋭だ。
ナマエには、後先考えずに敵地へつっこんでいく安直さがあるものの、その場その場の判断は早い。恐れ知らずで、とはいえ愚鈍というのともまたちがった。繰り出す一撃も一回一回が的確に巨人を削ぐ。頭で考えるより、元来もって生まれたセンスで戦闘しているような女だった。
しかし、だ。リヴァイは思う。しかしナマエは、ひとたび主戦場を外れるとどうもだめになる。
「……オイ」
いまもまた、なにかばかなことを考えているのではないかと思い、執務室に入るなり呼びかけた。ナマエはソファに座り、うつむき加減のままでいる。見上げられれば尖った唇がつんとしていて、いじけていることが窺えた。
ドカ、と隣に腰掛ける。乱雑に足を組み、片手をソファの背凭れにひっかけた。指先が、ナマエの後ろ髪にふれる。
「てめえはなにをそんなに拗ねてやがる」
「……」
「黙ってちゃわからねえが。この口は飾りか?」
軽く横を向き、さっきまでとんがっていた口先にさわると、ふにとつぶれる感触があった。ナマエはヴェールみたいに甘やかでやわらかい、どこもかしこも。
ナマエが目線だけをよこしてくる。瞳がとたんに熱でふちどられていくさまを見た。好きだと、訴えてくるようなまなざしだった。
けれどいまだにへそを曲げているらしい、すこし難しい顔をして、まつげを伏せる。
「……兵長、」
「なんだ」
「さっき、女の子と抱き合ってたのはなんだったんですか」
「……あ?」
「誤魔化したって無駄ですから。お、女の子の顔までは見えませんでしたが、その子はリヴァイ兵長に抱きついてたし、兵長はその子を突き返すこともしませんでした」
「いつの話だ」
「演習が終わって、私に声をかけてくれたあと。いったん別れてまた合流したじゃないですか」
「したな」
「合流直前の、西廊下の階段辺りで兵長は……女の子と」
「ああ……あいつか」
ふい、とそっぽを向かれると、指にふれる温度がなくなる。代わりにナマエの毛先をいじり、リヴァイは短いため息をこぼした。
西廊下の階段付近。数十分ほど前、リヴァイはそこでたしかに女と密着した。たまたま出くわした部下と演習時の話題になり──お前の対人格闘はあまりにもお粗末だ、と指摘したのがはじまり。いまここで指導してくださいと熱心に要求され、リヴァイはうなずいたのだった。狭い廊下で暴れることはできないから、ほとんどが形だけであったけれど。
「ふうん……」
全貌を明らかにしてみせても、ナマエはまだ、不機嫌な表情を崩さない。むしろどんよりとしたオーラさえまとい、真っ青な空気のなかにいる。
他にもなにか気掛かりなことがあるのか。問えば、うなだれたままで「恥ずかしいんです」とつぶやいた。
「恥ずかしい?」
「はい。つまらない勘違いをして、嫉妬で拗ねた自分がみっともなくてどうにかなりそう。……兵長といると、自分のコントロールがうまくできません。戦闘中のほうが、まだ楽です。リヴァイ兵長みたいに大人になりたいのに。……恋愛に対しても」
「……」
リヴァイはジ、とナマエの横顔を見詰めた。こんがらがった糸をどうほどいてやれはいいだろう。リヴァイにも正直わからない。初めてだからだ。こうしてちゃんとひとりの女と向き合うのも、ずっと傍に置いておきたいと想うのも。
結局、ナマエの頬を小さくさすった。
「俺は、お前を最優先にすることはできない」
あごをもち上げるようにしてやると、再び目を合わせてきた恋人は、どこかあどけない。転び、傷ついてへこんでいる子供のようだった。うすいガラスみたいに繊細な部分があるのだと初めて知る。
「お前が嫌だと言おうが、妬こうが、部下の面倒は見る。……さっきみてえに距離を近づけることもあるだろうな」
それどころか──。舞踏会にも参加するし、令嬢のエスコートだってする。任務遂行のために寝る必要があるなら寝る。そこに持っていくまでに完遂するのが、第一目標ではあるものの。
のみならず、死ににいかなければいけないときは死にに行くだろうと思う。特攻しろという、団長命令が下ったそのときは。たとえ遺されたナマエが、悲しむと理解していても。
「……はい」
「だが」
ソファが軋む。リヴァイは片足を座面に乗り上げるようにして、ナマエのほうをしっかりと向いた。こっちを見ろ、とうながす視線を送ればナマエも向き合う。
目の前にあるのは、いまにも泣きだしそうな顔。
「それでも俺は、お前を手離したくない」
頬に手のひらを当てた。親指でまなじりをさすると、やっぱり、すこし濡れた。
「兵士を辞めることも肩書きを放り出すこともできねえが……そのクセお前を他の男に渡すつもりもない、まあ、……幼稚な独占欲だ」
「リヴァイ兵長にも、独占欲が?」
「ああ」
ぞっとしない話だった。自分が、たったひとりの女に囚われているなんて。
「つまり。俺はお前が思うほど、大人じゃない。……わかるか?」
「あ、」
もう一度、唇を柔くつぶした。粘膜をめくるようにしてやれば、色づく歯茎と歯列が覗く。指先ですう、となぞり、口角まで辿る。
「お前が、嫉妬で拗ねたなんざ言いやがる。それだって……可愛くて仕方ねえんだ」
ナマエのまたたく速度が増した。色香のまじる気配に押されているようだった。ぎゅ、と服の裾をつかまれる。
「へいちょ、」
「俺だってな」
口角から、頬。頬から、耳たぶ。耳たぶから、耳輪。ガラスのヴェールをまくりあげるように、優しく、ゆるゆると指を動かしていく。髪を耳にかけてやると、ナマエは淡い吐息をもらした。リヴァイが、真夜中のさわり方をしているせいだ。
「お前を前にすれば、自制が効かない」
「んっ」
後頭部に手のひらをうずめ、引き寄せた。重なる唇。そこだけやけに、熱をもっている。
キスは徐々に深くなっていく。やがて息継ぎもさせないようなものに代わるころ、くた、と脱力したナマエの身体を支えた。
「なにも不安に思わなくていい」
肩口に頭を乗っけてくる女の耳もとで囁く。
「俺には、お前だけだ」
こくり、と。ナマエが首を縦に振った。
目をつぶる。自身の腕のなかにつつまれ、おとなしくしている彼女はリヴァイの執着心を微塵も知らないらしかった。でも、それでいい。どろどろとしたまったく重たい感情を、ぶつける気は毛ほどもない。
ふと、執務室のドアの奥、廊下から笑い声と足音が響いた。そういえばこの部屋を施錠していなかったと思い出す。リヴァイはソファから立ち上がった。兵長? と、ナマエが首をかしげる。
「……鍵をかけてくる」
ひとこと告げれば、眺め下ろした先のおもざしは赤く染まった。
クラバットに指をひっかけ、緩めながら、扉に向かう。これからが夜でよかったと思う。たまった仕事もない、兵装を解いてもかまわない夜でよかったと。嫉妬心に苛まれていたという可愛い女に、ひと晩中をかけてやれるから。