エルヴィンとひとりの女の話/20200515







 巨大樹の森が夕刻を迎えた。意識をとり戻したナマエはどうにか大木に背を凭れ、立ち上がることもできずに目だけをうすく開けた。

 今回の壁外調査でも、たくさんの負傷者を出してしまった。そこかしこに痛みの、血の、死の臭いが蔓延している。そっと流れる風の音だけを聞いていたいけれど、ナマエも臭いの元だった。

 えぐれた脇腹の出血が止まらない。おそらく骨もいっている。呼吸をするごとに、おかしな音が怪我からもれた。ぶるりと一度震える。寒い。先程まで傷のあたりから灼かれるような熱さが広がってきたのに、すでに体温を失いだしているらしい。ナマエの終わりも秒読みだ。傷痕が残ってしまったと、自分の裸を見て悲しくなれる日はこない。けっして。

 今回は四十三回目の壁外調査だった。それだけの回数巨人の活動領域に踏み入ったのだから、調査兵団は確実に前進している、と信じたい。だけど犠牲に見合った歩幅で進めているかと問われれば言葉に詰まる。

 とくにできることがなく、ぼんやりと景色を眺めた。深緑の葉、隙間を埋め尽くすきれいな夕空、羽ばたく鳥、たそがれ時。いったい何色と何色を混ぜ合わせたらああなるのだろう、なんて思う。

 ついに力が抜けきり、裂傷を押さえる腕が地面に落ちた。つられて視線を下げると、ナマエの腕は花を手折っていた。小さな青い花々を。

 とてつもない疲労感にまぶたをとじる。そうして、自分の部下は無事なのだろうかと考えた。ほかの者たちは? ミケやハンジは? 彼らの班員は? リヴァイは?
 エルヴィンは。

 ──俺より先に死ぬな。

 そういえば、彼は昔よく、そう言った。
 ナマエらが時間も場所も選ばずに唇を重ねていたころ、エルヴィンはまだ分隊長で、ナマエはまだ班長だった。将来を誓い合う日を夢見たり、結婚式を挙げるならどんなふうに、なんて子供の戯言みたく語り尽くした明け方もある。

 あのころ。ふたりはいつも寄り添っていた。お互いの持ち合わせていないすべてを補うみたいに、足りない部分を、埋め合いながら。


 *


 エルヴィンは急ぎ、構えた拠点を見てまわった。回収された遺体や、名簿に死亡、と書き記していく部下の動きを。眼前に広がるのは、ほとんどいつもどおりの遠征時の様子だといえる。

「名簿を見せてもらえるか」
「エルヴィン団長! こちらです」

 部下の手もとを、兵士らの名が連なる名簿を覗きこむ。受け取ってみれば当然ひとりの女──ナマエの名前もあった。しかしその文字の横はいまだ、空白のまま。死亡とも軽傷とも重症とも、行方不明とも記されていなかった。

 ──見つかる。

 エルヴィンはひとつの名を見つめ、己に言い聞かせた。大丈夫だ。可哀想なほどの大怪我をしているかもしれないが、ナマエは見つかる。再会できる。生きて、また、彼女と。

「エルヴィン」
「……」
「オイ、エルヴィン!」

 突然の大声にはっとして目をやると、そこにはリヴァイの姿があった。返り血にまみれた彼の姿は夕闇に溶け、黒い影のかたまりのようだ。

「てめえ、何回呼ばせるつもりだ。ボケッとしてんじゃねえぞ」
「すまない。それで、用件は?」
「あいつを見つけた」

 リヴァイが口にしたあいつ、がだれを指しているのか、エルヴィンにはすぐさまわかった。ひとりの女を脳裏に浮かべる。──奴をここに運べない、全身の損傷が激しい、奇行種が暴れた辺りだ、まだ息はある。リヴァイの言葉が聞こえてくる。でも声はやけに遠い、彼は、近くに立っているのに。エルヴィンのなかに、現実味が少しもなかった。

「報告はそれだけか」
「そうだ」
「医療班は向かわせなくていい。これ以上損害を出せば、我々調査兵団は今後二度と壁外へ出られないだろう。……お前は引き続き、」
「行ってやれ」
「なに?」
「あいつのとこに行ってやれ」
「はは……ここを放り出してか? 負傷者はほかにも大勢いる、周りを見ろ、リヴァイ。もし見えないというのなら頭を冷やすといい」
「バカ言え、俺は冷静だ。少なくとも、てめえよりかはな」

 リヴァイの影が濃く、ますます黒くなる。夕陽がまた一段、沈んだためだった。そのなかで唯一淡いブルーグレイの瞳と、視線がかち合う。

「まあたしかに……怪我人はあいつだけじゃねえが。ここまで来て、くだらん後悔なんざしたくねえだろ」

 吐き捨てるように言い、彼はエルヴィンの持っていた名簿を乱暴に奪い取って背を向けた。拠点の確認をしはじめるリヴァイの背中で、双翼が揺れている。

「……まったく」

 エルヴィンは目を伏せ、自身のひたいに手を当てた。


 *


 土を踏みしだく音が聞こえる。その、荒々しい足音があんまりにも力強くてナマエは安心した。まだたくさんの戦力が残されている、まだたくさんの心臓が生きている──そんな気がしたから。

 直後、ふいに名前を呼ばれ、とじていた目がひらく。視界いっぱいに広がるのは大きな人影。最後に一度だけでも会いたいと、考えていた人の影だった。着々と沈みゆく太陽の傍らで、わずかになった陽射しを反射する金の髪は、ナマエにはなによりもまぶしく思えた。

「エルヴィン」
「ああ」
「私……ごめんなさい」
「やめるんだ。謝ることなんてなにもない」

 きみはよくやった。そう言ってしゃがみこんだ彼の手が、頬へ触れた。全神経がそこへ集中する。自身のすべてはいま、エルヴィンのためだけに機能していると感じる。

「……リヴァイは、無事?」
「無事だ」
「よかった」
「なんだ、俺の心配はしてくれないのか?」

 どこか懐かしささえおぼえる軽いくちぶりで問いかけられ、ナマエはうっすら微笑んだ。

「……リヴァイがいる限り、あなたは大丈夫だから」
「ずいぶんと断定的な言い方をする」

 エルヴィンの口角が少し、下がった。呆れたふうでもあるし、おちゃらけているふうでもあるし。降参だと言う表情でもある。
 ナマエの、地面へ投げ出していた腕がエルヴィンによってもち上げられた。手を取った彼は視線を下ろし、そうっと血濡れた甲をさする。さっきまで花をつぶしていた手の、甲。

「ねえ、エルヴィン」
「ああ」
「私、ここで眠りたい」

 エルヴィンの体温が伝染する。返事はないけれど、その代わり、指先を握られたせいだ。ワルツをおどる前、女性の手をとりうやうやしく微笑む彼を思い出す。嫉妬していた自分を、思い出す。でもいまエルヴィンは、ほかのだれでもなく、この手に、ナマエに触れている。

「壁の外で朽ちたいの」

 軽やかに続けた。だけどエルヴィンが微笑みかけてくれることはなく。

「だめだ」

 彼がうなだれると、顔が見えなくなった。こちらの瞳で捉えられるのは、プラチナブロンドのつむじや、グリーンのマントばかり。理知的な碧い眼を見せてほしかった。それと同時に、この人もまた、うつくしい色をしているのだと、いまごろになって気がつく。

「お願い……たまには我儘を聞いて」
「たまには、か。きみは昔から我儘だった」
「あなたが言う?」

 反論すればエルヴィンは笑った。声は掠れていた。
 この人は。

 ──俺より先に死ぬな。

 この人は昔、よくそう言った。

 ──じゃあ、もし私が死にそうになったら瀕死の私の目の前で、私より先に死んでくれる?

 先に死ぬなと言われるたび、そんなふうに返していた時期もある。絶対にできないとわかっていて。守られない約束だと知っていて。だけど嘘でもうなずいてくれたなら、ナマエはひどく満たされた。

 最後に同じ言葉を投げかけられたのは、エルヴィンが団長に、ナマエが分隊長になった日だっただろうか。ふたりで、別れを決断した日。

「っ……」

 大きく咳き込む。びちゃびちゃと血を吐くと、のどのあたりにこびりついた、違和感が気持ち悪かった。

「ずっと言いたかったことがある」

 エルヴィン、もう戻って。もう行って。そう口にしかけたものの、唇のはしを拭われて、沈黙する。

「だがずっと、言えなかった」
「……どうして?」
「怖かったんだ」
「怖かった?」
「言ってしまえば、君がいなくなりそうだと怯えていた」
「……あなたにも怖いものがあったの?」

 もっと早くに知りたかった。冗談めかして答えれば、後頭部に手のひらがさしこまれた。引き寄せられ、身体がかたむく。エルヴィンの肩越しに世界を見る。景色はきらきらとまたたいて映った。さっきまでとは比べものにならないほど、色づいて輝いている。まもなく日没だというのにもかかわらず。

 ナマエも腕をまわそうと力を込めた。でもできなかった。全身はとことん脱力したままだ。きつく抱きしめ合えたらよかったと思う。たとえば、昔みたいに。

「聞かせて、エルヴィン。ずっと言いたかったこと」

 吐血した口で紡ぐ言葉はどこか濁っている。でもたしかな音となり、お互いの間に存在した。そうしてちょっとの沈黙のあと、エルヴィンは。

「きみを」

 と。

「きみを愛している」

 と、つぶやいた。彼もどこかを負傷したのだろうか、痛いと泣く、子供のような声で。
 ナマエは再び目をつぶった。

 エルヴィンと、時間も場所も選ばず唇を重ねていたころ。エルヴィンが分隊長で、自身が班長だったあのころ、ふたりでいつも寄り添いながら、愛してる、ただそのひとことだけは飲みこみ続けていた。背負うものが増えていく毎日のなか、それだけが伝えられなかった。だから言葉の代わりに抱き合って、幾度となく溶け合った。

 ナマエは知っている。どれほどきつく抱きしめても、抱きしめられても、所詮別の人間だということをいたく思い知らされるだけなのだと知っている。強く抱いて重なっても、離れなくてはいけないときが来る。必ず。

 愛は束縛だ。どれくらい自由に生きようと、だれかを愛してしまったらとたんに縛られてしまう。愛するだれかにではなく、だれかを愛する、自分自身に。

 空気が揺らめいた。エルヴィンがかすかに身体を離す。ナマエもまぶたを上げてみれば、とり澄ますことのないまっすぐな碧眼が、見つめてきている。

「返事はもらえないのか?」

 子供じみた催促に、おもわず笑ってしまった。瞬時に痛みが薄れていく感覚がする。きっと気のせいなんかじゃなかった。だっていま、こんなにも幸せなのだから。

「わたしも。わたしも、あいしてる」

 返せば、エルヴィンもおだやかに微笑んだ。
 唇が重なって、あたたかさに、ナマエは目をとじた。

 まぶたの裏側の世界では、厭な臭いなどしない。どこまでも続く草原を見渡しても、壁すらない。青々とした草木を泳ぐようにかき分け、進みながら、高い空の心地好さに何度でも上を見る。となりに立つエルヴィンはタキシードを着ていた。驚きにみちた表情をしたものの、自分のほうはウェディングドレスに身をつつんでいると気がつく。誓いの鐘の音が鳴り響き、白い鳥がゆるやかにはばたいていった。まわりにはたくさんの仲間がいる。リヴァイやミケ、ハンジやナナバも。

 傍には彼がいた。
 エルヴィンが。

 ──ああ、これは。

 いつか夢見た、夜通し語り合った理想の結婚式だ。

「エルヴィン」

 呼びかけても、もう、なにも聴こえない。けれどエルヴィンのぬくもりがとにかくあたたかくて、優しくて、穏やかで、ナマエは幸福で、仕方なかった。


 *


 行方不明。名簿の、ナマエの名の横にはそう記した。エルヴィンは、ひとつの遺体が見つからなかったことにして、このまま──彼女の望むまま、彼女を外で眠らせてやるつもりでいる。

 空はかろうじてまだ赤い。自身が森にいたのはほんのわずかな時間だったようだ。が、息を引き取ったナマエの傍に、何時間も、何日も何年もいた心地がする。

「……」

 最期の眠り顔を思い浮かべる。微塵の苦悶もにじませず、幸福な夢でも見ているかのようだったおもざしを。

「エルヴィン」

 横から声がかかる。

「リヴァイか」
「てめえ、そりゃあ……」

 やってくると同時、即座に名簿を眺め下ろしたリヴァイがぽつりとこぼした。

「リヴァイ、お前が無事でよかった」
「ああ?」
「彼女の言葉だ」
「……あいつと会えたのか」
「会えたさ」
「なら、いい」

 リヴァイの目線が名簿から逸れる。会えたというのに行方不明と記入したわけは、訊かれなかった。

「団長! 帰還の準備が整いました!」

 部下の声が響き、見やると遠くで片手を上げている。エルヴィンはうなずいて応じた。

「進めるか、団長」

 次いで聞こえてきたリヴァイのそれは、こちらを窺うものではなく。進むぞ、と、言っているようだった。

 エルヴィンは数秒、瞳をとじる。
 もう、行かなくては。

「ああ。進もう」

 力強くうなずいたエルヴィンの、一歩が踏み出される。地面には、ナマエを囲んでいたのと同じ花が咲いていた。彼女にとてもよく似合う、青い花たちが。





たそかれ





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