139話ネタバレ含/リヴァイ×マーレ人夢主/捏造過多/20210411
雨が降っていた。
石造りとは違い暖色が多いログハウスは、自然の恵みに少し生き生きとする。故郷を感じられるから──彼はそういった理由で、木造の住宅を選んだ。車椅子でも不便のないように設計された家。
ログハウスによく似合うウッドテーブルも、やっぱり彼が選んだものだった。執務室に似たようなヤツがあった、とひどく懐かしそうに言っていた。彼が兵士長だった頃をわたしは知らないから、執務室で紅茶を飲む姿も想像できない。自分の想像力のなさを、生まれて初めて悔やんだ。
そのテーブルに着きながら、真正面の窓をぼんやりと眺める。周りの会話が徐々に遠くなっていき、ざあざあと雨の降る音が近づいた。
雨の日は、いつも憂鬱な気分になった。普段の半分ほどしか高さがない空や、馴れ馴れしくまとわりつく湿気た空気も原因だけれど、彼の傷痕が疼いてしまわないかがとにかく気掛かりで嫌だった。
「……お前らはもう少し年寄りを労れ。相手をするのにも体力を使う」
ふいに視界が揺らぎ、ピントが窓ではなく手前に合う。変わった持ち方で持ち上げられたティーカップに。そして意識はカップを持つ五本指に移った。
青と白。不健康そうな冷たい肌の色だと思う。彼、リヴァイさんの存在だけが、いつも暖色のなかで浮いていた。
「年寄りって……兵長、まだ四十でそんな」
一緒にテーブルを囲んでいたジャンが、苦い顔で笑う。そのとなりで同じようにしていたコニーはわたしの空のカップに気がつき、紅茶を注いだ。客人に気遣わせてしまったと慌て、そっと頭を下げると、返事の代わりに微笑みが返ってくる。
「四十は爺さんだろうが」
「漏れ聞いたところによれば、脂が乗ってくる良い時期らしいですよ」
「そりゃデマだ、お前らもすぐにわかる。あっという間に老いぼれだ」
「こうして兵長と会うと、歳重ねるのも楽しみになりますけどね」
「ジャン、お前は頭皮の心配しとけよ」
「るせえぞコニー。余計なお世話だ」
馴染みの青年ふたりに対するリヴァイさんの受け答えはわずかなもので、沈黙も多い。けれどそれが彼の常だから、誰も気兼ねしない。たとえばファルコやガビに対しても、他の訪客に対しても、わたしに対しても。リヴァイさんの態度は変わらなかった。
怒れば怖いし、口が悪くて粗暴な面もある。でも基本的には落ち着いた静かな人だという印象が強く、人類最強と謳われていた頃の彼を、一度でいいから見てみたかった。
リヴァイさんが、人類最強の兵士として名を馳せていたらしい頃。今から三年前。天と地の戦いと呼ばれる争いが、幕を閉じた。終幕は突然で、世界はエレン・イェーガーの死を連日連夜歓んだ。
もちろん、わたしも終戦を喜んだ。でも、争いに参加していたというより巻き込まれていたというほうが感覚的には近かったから、死なずに済んで良かったと歓喜するのではなく「これで国に振り回されなくなる」と胸を撫で下ろしたのだった。
失ったものがあまりに多すぎて、正直、戦士とか兵士とかマーレとかパラディとか勝ち負けどころではなかった。戦争は何もかも壊して奪っていったくせに、それらを返してはくれない。
たとえば。地鳴らしが発動されたとき、両親は他国にいた。
調査兵団の奇襲を受け、ヴィリー・タイバーが殺された夜から地鳴らしに怯えて過ごしていたけれど、二ヶ月が経ったある日いきなり父が母に旅券を贈ったのだ。こんなときこそ外に出よう。二泊だけれど旅行に行こう。結婚してちょうど三十年目でもあるから記念にと、呑気な父は気晴らしを提案した。
娘のわたしも呆れるくらいに仲が良く、いつまでも消えない愛があることを教えてくれた両親は、わたしの誇りだった。
そうしてふたりを見送った数日後、巨人が行進を始めた。父が選んだ旅行先は国のほとんどを平らにし、そこで母だけが死んだ。
終幕から一年以上かかってやっとマーレに還ってこられた父は車椅子生活を余儀なくされ、わたしは世話に明け暮れた。といっても、たった数ヶ月ほどのこと。
健康だけが取り柄だと大声で笑っていたような人があっけなく死んだとき、ああお父さんはお母さんがいない世界で生きられなかったんだなあ、わたしはお父さんの生きる理由になれなかったんだなあ、ととても冷静に考えたことを覚えている。
「俺があいつを旅行に連れて行かなければ」
心が壊れてしまった父は、最期までそう言っていた。再会後一度も名前を呼ばれなかったと気がついたのは、父が死んでしばらくのあと。
どうしてわたしではなく母が死んだのだろう。わたしが死んで母が生きれば、父も生きたのではないだろうか。
争いは終わった。
けれどそのあともわたしはずっと、ずっと悪夢を見ていた。
そして約一年半前。使わなくなった車椅子を回収したいと通達があり、指定された病院まで行った帰り道、茜空の下でリヴァイさんと出逢った。病院からほど近い、草木もとっくに荒れ果てた公園に彼はいた。あの病院の患者か、通院している人だろう。最初はそんなふうに思った。
しばらく立ち止まって遠目から眺めていたのは、近くに車椅子が一台置かれていたせいだ。彼がリハビリの最中でもないのは明らかで、片脚を引きずって崩れた低いブロック塀を頼りに歩こうとする姿はどう見ても無理をしている。
見守っていれば案の定すぐに転倒し、そのまま大の字になって動かなくなった。周囲には人がひとりもいない。さすがに放置してはおけず、介助者はどうしたのかと疑問を抱きつつ駆け寄った。
夕焼けに染められた彼は意識を失ってはなく。むしろひどく明瞭で、雲の流れを見ながらぼうっとしているだけだった。
驚いたと言えば、リヴァイさんは。
「起き上がれないわけじゃない。ただ、いきなり、起き上がるのが心底億劫になっちまった。……なぜかわからねえが」
と話した。
わたしには、なぜだかが解った。
介助者は国が用意してくれるが、合う人間になかなか巡り会えない。ひとりで不便なままいるほうがよっぽどいい。さっきも新人を追い払った。悪いことをした。あとから彼はそう嘆いたけれど、合う人間に巡り会えない本当の原因は不自由な身体を受け容れられていない、リヴァイさん自身にあった。手助けなど不要だと、強く思っていたから。
わたしが手を貸そうと決めたのは軽い気持ちで、それに当初は繋ぎのようなものだったから、同居生活がこんなに長く続くとはまさか予想もしなかった。
お前といるのが一番しっくりくる、と言われたことがある。国に用意されたのでもない人間は、楽だったらしい。わたしもリヴァイさんといるのは心地好かった。両親が死に、父に愛されていたのか、必要とされていたのか、そもそも生きている意味はあるのかと自信がなくなってひび割れていた心は、リヴァイさんに癒されていった。
わたしは彼と出逢い、悪夢を見なくなった。
リヴァイさんも、いつかはそうなってくれるといい。
「──お前らはまだ若い。他にやることがいろいろあるだろう」
再びぼんやりしていた意識がぱっと現実味を帯びる。話し声の合間に聞こえる雨音はさっきよりも優しくなっていて、きっともうすぐ上がるんだ、と思った。
「まあ、ありますけど、……来過ぎてるってほどでもないです」
「いや、来過ぎている。お前らに限った話じゃねえが……ここに来るよりもっと、大事なことがあるだろ」
ジャンとコニーが黙ると、辺りはしんと静まりかえる。リヴァイさんはどうやら、訪問頻度を下げろと物申しているようだ。
彼の元には多くの人が訪ねてくる。ガビやファルコもしょっちゅう来るし、アニやライナー、ピークやオニャンコポンさん、──アルミンなど、いろんな人が顔を覗かせる。リヴァイさんはそれを喜ぶ反面、複雑でもあるらしかった。
「俺はもう兵士長じゃねえ。お前らも、もう部下じゃない。せっかく外にいるってのに、ここへ来ることに時間を割くな。さっきも言ったが歳を食うのはあっという間だ」
口調はバッサリ切り捨てるようなもので、ひどく冷たい。だけど気を揉んだりはしなかった。話し相手はわたし以上に長い間、リヴァイさんの近くで過ごしたふたりだから。
「俺、歳を重ねるって大事なものが増えていくことだって、最近思ったんです」
ジャンが手もとのカップを、まるで宝物をさわるように両手で包んだ。リヴァイさんの選んだ、シンプルなデザインのティーカップ。
「まだ全部が終わったわけじゃない。来週には大使としてパラディ島に航らなきゃなりませんし、何を以てすれば終わりと言えるのか、終わったと言っていいのか。正直わかりません」
なくなったのは、壁や巨人化する力だけ。今もエルディア人の血を受け継いだ子を産むと遺伝子がどうのこうの、という差別なんかがある。巨人化が解けて人間に戻れた人の家族は笑えても、自分の家族も巨人のまま保護しておいて欲しかった、なぜ殺した、と憤る人が影にいたり。
「でも、あの頃より自由なんです。大事なものが増えてもいい。大事にしたいと思っても、伝えてもいい。大事なものばかり優先しても。それに、選ばないこともできます。放棄したっていい」
選ばない、と。ジャンの言葉を自分に言い聞かせるみたく、リヴァイさんがつぶやいた。
カップを置いてから下げた目線で見ているのは、テーブルの下の右手の指か、不自由な脚か、あるいはもっと別の何かだろうか。こういうとき、わたしと彼の間には途方もない距離があると感じる。そしてその距離を寂しく思い、そんな自分に、辟易した。
「大事なものを、俺は増やしていきたいと思ってます。たとえばこういう……ティーカップだったり」
「あとはあれだよな! 時間を忘れて喋った記憶とか!」
「ああ。……なので兵長、俺たちはこれからもここに来ます」
「来るなって命令は聞けませんよ? 俺らはもう、部下じゃないんですから!」
「はっ、……そりゃ鬱陶しいな」
直角になるような形でリヴァイさんの右どなりに座っているわたしには、彼の瞳の色を窺い知ることは不可能だ。だけど、ひどくあたたかい声で笑うことがあると知った。とても短いその声は、耳にいつまでも残った。
「次は故郷の土産持って来ます」
「いらねえっつってんだろ……毎度毎度何か持って来られちゃ、物で溢れかえっちまう」
「でも兵長……懐かしのストレートティー、楽しみたくないですか?」
ニヤついたコニーの誘惑。土産を持ってくると言ったジャンも口角を上げた。今の彼らはまるで、得意げになってえへんと胸を張る十五歳の少年だ。
「……まあ、どうしてもと言うなら、受け取ってやってもいい……」
「ふふ」
思わず笑い声を漏らしてしまい、口もとを覆い隠す。こっちを見たリヴァイさんが眉をひそめるから、さらにおかしくなった。
「何笑ってやがる……。お前も気色悪ぃな……」
「だってリヴァイさん、十代の子みたいで」
ジャンが拳で口もとを隠し、コニーは構わず大きな口を開けて笑った。不貞腐れたような舌打ちをこぼしたリヴァイさんは、またカップを持ち上げる。
彼はもう、左手でしか持たない。共に生活しはじめたばかりの頃は、不安定でもなんでも今までどおりに右手を使いたがり、いくつもティーカップを割った。それを片付けることさえできずに焦燥感に苛まれる姿を、たくさん見てきた。
ある日を境に左手でしか持たなくなり、諦めてしまったのかもしれないと懸念したけれど、一緒に過ごしているうちに諦めたのではなく受け容れたのだと理解できた。
「……和平交渉の開会式は来週か」
「はい」
「ちゃんと行って、帰ってこい。いいな?」
「っ、了解!」
青年たちが兵士のような凛々しさで応えたのは、リヴァイさんが兵士長のようだったからだろう。わたしは兵士長に会ったことはない。でもわかった。
彼らの雰囲気が和らいだと同時に、雨音がまたひとつ、優しくなった気がした。
「俺らは、帰ってきて初めて一人前ですからね」
コニーが窓の外を眺める。
どこか遠くを、海の向こう側を見るかのように。
*
「リヴァイさん」
大きな窓がある洗面所で、後ろ姿に声をかけた。数日前と打って変わって青空が高く、陽射しを存分に受ける清潔な空間がまぶしい。
リヴァイさんはちょうど、歯を磨き終わったところだった。わずかに前屈みの身体。振り向かない彼と鏡越しに視線が合う。
「ああ……タオルか。助かる」
わたしの手もとの真っ白なパイル地に気がつき、彼は言った。それから、でも、と言いたげに視線を横へ流す。そこにはすでにタオルの用意がある。
「……いつもの棚に置いておいてくれればいい」
「わかりました」
取り込んだばかりの一枚を持ったまま引き返そうとしたとき、「いや、やっぱりそれを使おう」と聞こえ、再びリヴァイさんのほうを向けば今度は直接目が合った。
左目は光を反射し、きらきらしている。この、彼だけが生まれ持った青灰色を、わたしは大事に思う。そして光を失くした片方も。
「どうした」
タオルを受け取ったあと、リヴァイさんは車椅子のひじ置きに頬杖をついた。
「……え?」
「何か話でもあるのか」
「いえ、そういうわけではなくて」
「だったらどうして持ってきた。今朝ここのタオルを替えたのはお前だろ」
そうか。彼は、わたしが持ってきたのはきっかけだと考えたのだ。
「べつに何を聞いても怒ったりはしない。話したいことを話せ」
「……じゃあ、その、タオルですが」
「……」
「最近干したもののなかで、一番気持ちよく乾いたんです」
「ああ、連日雨続きだったからな」
「はい。畳んでいたら太陽の匂いがして」
「太陽の匂い……?」
一度うなずき、だから持ってきたんだと伝えると、リヴァイさんは訝しむような顔で口を閉じた。理由を信じていないか、わたしの話が例え話だと思っている可能性もある。
「それを使ってほしいと思って……ふわふわだし、気持ちいいし、良い匂いだったので」
充分な間が空いた。
「まさか、それだけか」
「……それだけです」
気まずさと気恥ずかしさとがどっと押し寄せ、叱られた子供みたいな気持ちになる。
「──は、」
この間の、雨の日と同じ。それは鼓膜を柔く撫でていく。
リヴァイさんは俯き、さっきまで頬を預けていた手におでこをくっつけているから、表情はわからない。でも彼は今たしかに笑って、わたしが笑わせたのは初めてで、嬉しいとかなんでとか呆れられたのかとか、いろんな感情が溢れ出した。どれも表には出せなかった。
ただただ、この瞬間が彼にとって穏やかな記憶として残ることを、願うだけ。
「……昔。まだ巨人の正体が何かもわかっていなかった頃の話だが、お前と同じことを言う奴がいた。晴れた日に干したものからは、太陽の匂いがすると」
リヴァイさんは俯いたまま、ひざ上のタオルを親指でひと撫でする。
「そいつは当時十五のクソガキで……俺が面倒を見ると決め、たくさんのことを教え込んだ。まあ、掃除と紅茶の淹れ方が主だったが」
「なんだか光景が目に浮かびます」
「だろうな。お前にも何度ダメ出しをしたか覚えてねえ」
「おかげで、誰にも負けないくらい美味しい紅茶を淹れられるようになりました」
「ああ。今はもう、俺よりお前のほうが俺好みの茶を淹れる」
軽口のつもりだったのに。肯定されてしまうと、何も言えなくなった。
ふっと黒髪が揺れる。リヴァイさんが、持っていたタオルに顔をうずめたのだ。つむじと、垂れた前髪。伸びてきたな、と思う。リヴァイさんは、生きている。
「匂いがどうとか言ってねえで、さっさと続きをやれ」
一瞬、わたしが「はい」と言いそうになった。けれど彼の言葉は途切れずに。
「言われるたびそうして俺は、……叱ってばかりいないで、一回くらい確かめてやればよかったか……。あいつはまだ、ほんの十五のガキだった。ガビとファルコと同じ、ただのガキだった」
──リヴァイさんは、今、どこにいるのだろう。わたしたちの間に果てのない距離が生まれる。
三年の歳月が流れても、過去は過去になっていないのかもしれない。傷もまだ、かさぶたにすらなっていないのかもしれない。今も血が出続け、痛んでいるのかもしれない。記憶が存在する限り、本当の意味での終わりなどないのかもしれない。
どうにかして少しずつ、ひとつひとつをほどいていかなければならず、すべてを過去と言えるようになるにはもしかしたら現在≠フ何倍もの時間を要するのかもしれなかった。
「その方とともに、生きていきましょう」
「……そいつはもう、生きてない」
リヴァイさんの前で両ひざを着き、投げ出されていた右手に触れる。自身の左手で彼の小指と薬指を包み、右手で親指を包んだ。俯いて目を閉じ、失くした二本に思いを馳せる。
彼の痛みは彼だけのものであり、わたしが掬い取ることは決してできない。残った傷が良いものか悪いものかを決めるのもやっぱり彼にしかできないことで、わたしはそれを、一番寂しく感じている。
「その方に教わったことをするんです。よく晴れた日には洗濯をして、太陽の匂いを嗅いだり。リヴァイさんがその方と一緒に生きたから知ったことを、していくんです」
俯いたままでいると、うなじに手のひらが当たった。わずかに引き寄せられ、後頭部の上が重くなる。
「いなくなった奴らはクソみてえに多い。数え出したらキリがねえ」
すぐ目の前のあたりから声が聞こえて、リヴァイさんがひたいを伏せている重みだとわかった。
「だがそれは……一緒に生きた奴が多いとも言えるのか」
「……はい」
つらい記憶もリヴァイさんの一部なら、無理に切り離さないでいたいと思う。深く根付いたものを無理やり切り離すのも、たぶんとても痛いから。
こんなに優しい人だから、リヴァイさんを形成しているすべてのものに──たとえばつらい記憶にも、意味がちゃんとあるのだと思う。
過去を消すのではなくて、穏やかな未来を増やしていけたらいい。知らないうちにつらい記憶が埋もれてしまい、探し出せなくなるくらい、たくさん。
今日は天気が良いとか夕食のパンが美味しかったとか。散歩が楽しかったとか雪が解けたとか。近所のおばあさんが果物をくれたとか小さな子が花をくれたとか。わたしにできるのは、そういうささやかな安らぎをリヴァイさんが見つけたときに傍にいて、話したり、笑ったりして共有し、確かな記憶として彼に残るようにと願うことだけ。
「……そいつらに教わったこと全部をやるとしたら、明日から忙しくなる」
「リヴァイさん。忙しくなるのは、今日からですよ」
握り締めたままだった彼の指。残された痛み。
わたしにできることは少ないけれど、途方に暮れるような距離をゆっくり縮めていったら、そのあとはとなりで過ごさせて欲しい。こうして寄りかかってくれたとき、いつでも支えられるように在りたい。
「それも悪くねえな」
重みが消えた。リヴァイさんは上体を起こし、うなじの手も離れていく。わたしも顔を上げて、陽射しを一身に浴びる彼を見つめた。
「……前髪、上げてみませんか?」
目よりも下まで伸びている黒髪に視線をやれば、リヴァイさんも青灰の瞳を動かす。
「この間ジャンが整髪料をくれたんです」
「そういや、あったな」
「いつも切っていますが、たまには。気分転換に」
「……ちょうど伸びてきて邪魔くせえと思っていた」
生きている。これからも髪は伸びるし、お腹も空くし、悩みもする。
もしも明日死ぬとしても。
今、ここで。彼もわたしも生きている。
「お前、やれるか」
「たぶん……」
「なら任せる。猿みてえな頭にすんなよ」
「猿? どんなのですか、それ」
ジャンがくれた、ジャムの瓶を平べったくしたみたいな整髪料の容器を棚から取る。シンプルなものだけれど、三年前には手に入らなかったと思うと不思議な心地がした。世界は廻り続けている。どこかで転んだ誰かを置き去りにしたまま、急速に。
「鏡見なくていいんですか?」
整髪料ごと振り向くと、リヴァイさんはまだこっちを向いていた。
「必要ない」
「最中どうなってるか気になりません?」
「ならねえ」
「男の人はそういうものなんでしょうか」
瓶からクリームを少量えぐる。嗅いだことのない匂いがかすかに浮かびあがった。それは陽射しに溶かされ、すぐに空気と馴染んで消えた。
「俺が男だからじゃねえ、任せたのがお前だからだ」
「リ、リヴァイさん」
「なんだ」
「絶大なる信頼を得た途端、いきなり緊張してきました」
「オイ……」
「でも、失敗しても洗い落とせますからね!」
「……」
手のひらに広げた固めのクリームを、前髪に揉み込む。全部後ろに撫でつけるほうがよかったかな、だけど前髪があるほうがリヴァイさんらしい、なんてことを考えつつ。
「……兵団にも、こうして毎朝髪を整える金髪野郎がいた。だがそいつは朝に弱くてな」
「じゃあ、きっと毎日つらかったでしょうね。ベッドは寝起きの身体を離してくれませんし」
「寝起きの悪さをベッドのせいにすんな」
「百パーセントベッドのせいですもん。リヴァイさんもそのうち、このまま二度寝したい〜ってゴネはじめますよ」
「バカ言え」
リヴァイさんの身体が今よりもっと動かなかった頃。それこそ、彼が右手を酷使していた頃、わたしは入浴の介助もよくしていた。最初は洗髪すらもかたくなにひとりでやりたがり、やれない現実に直面するたびリヴァイさんは捨て猫のように暗く項垂れた。
ひとりでも洗えるようになったこと。ベッドでも眠れるようになったこと。魘される回数が減ったこと。
前に進んでいる、ということ。
「……よし。できました」
ぱっと手を広げて数歩下がると、リヴァイさんはようやく方向を変えた。鏡に映る自分を見やり、満足げにしたあとで縫い傷と右瞼をなぞる。
「これは、隠すべきか」
「リヴァイさんがそうしたいのなら」
「……」
「もしどちらでもいいのなら、今はまだ、何も決めなくていいと思います」
「……そうか」
だったらこのままでいい、と。彼は柔らかな声で決断した。
頬や唇の裂傷を縫合したのは、大事な仲間だと聞いている。その仲間の判断と選択が、今という結果に繋がった。リヴァイさんを形成する、大切な痛み。
リビングに戻り時計を確認すると、時刻は間もなく午後一時三十分。
「そろそろオニャンコポンさんたちが迎えに来ますね」
「もうそんな時間か」
「今日は快晴でほっとしました」
天と地の戦いから三年。
ひとつの争いは終結したものの、人類のおよそ八割を失った世の中はルールや環境を大きく変え、各国の主張がぶつかり合っている。当然軍事力の強い国が幅を利かせるけれど、パラディ島の女王陛下は同じ過ちを繰り返さないことが重要だ、と訴え続けていた。
ジャンやコニーをはじめとする数人は明後日、連合国の大使として終戦のための条約締結を目指し、和平交渉を行う。だから今日、パラディ島へ航る。
リヴァイさんは渡航する彼らをオニャンコポンさんやガビ、ファルコと共に見送りに行くことになっていた。迎えはもう間もなく来るはずだ。
わたしは見送りに行かず、待っていることにした。リヴァイさんたちが帰ってくるとき、出迎えてあげたい。あたたかい空間を用意しておきたいのだ。
「リヴァイさん。紅茶を飲みませんか?」
彼の表情が、ふ、と和らぐ。
とくに何も言ってこないけれど、リヴァイさんがゆうべ眠れなかったことは知っている。仲間を送り出すのに不安がないといえば噓になるのだろう。怯えも何も口に出さないこの人が、いつか、なんの憂惧もないまま笑える日が来ることを祈る。
「俺が淹れる。お前は休んでろ」
「でも」
「久しぶりに自分でやりたくなった」
──気分が良い。
リヴァイさんが何気なく、小さく言うから、突然泣きたくなってしまった。彼がそんなことを言ったのは生活を共にした一年半のなかで初めてだ。
嬉しくて泣きたくなる感覚もとても久しぶりだと思い、そういえば泣きそうになること自体が久々だと気がつく。泣かないとか泣けないとか、意識すらしていなかった。
わたしもどこかで転んでしまい、たくさんの傷を負って歩けず、置き去りにされていた。いつしか起き上がるのが心底億劫になっていた。立ち上がれたのは他でもないリヴァイさんのおかげで、だけど彼は史上最悪の殺戮者、エレン・イェーガーとも生きた人。
マーレ人といえどもわたしは何百年何千年も昔のことに熱心になれず、差別や平等さについても無関心で、手の届く範囲にいる人が笑っていれば充分だった。リヴァイさんと出逢い、様々なことに触れるまでは。
自分にとって何が大事で重要か、本当に守りたいものはなんなのか。そろそろしっかりと、自分の目で見極めていかなければならない。国や環境に振り回されるのは、もう終わりにして。
「じゃあ、お願いします。わたしは洗濯物を畳んじゃいますね」
「休めと言ったのが聞こえなかったか?」
「ふふっ」
「……何がおかしい」
「今、リヴァイ兵長に会いました」
「あ?」
「いえ。なんでもありません」
「……まあいい。お前は座って新聞でも読んでろ」
リヴァイ・アッカーマン。
わたしにとっては英雄どころか人類最強の兵士ですらない、ただのリヴァイさん。人種も性別も関係なく大事な存在。これからも雨の日は、この人を心配して憂鬱になりたい。
「ナマエ」
「っはい」
「……来い」
キッチンで作業中の背中をウッドテーブルから見つめていると、リヴァイさんがいきなり振り返り、じっと見ていたのがバレた。少しの気まずさと共に立ち上がって横へ行けば、「このあといつもどうしてる」と右手の二本指でポットを指す。
「……もしかしてリヴァイさん、わたしの紅茶が恋しいんですか?」
「……」
「そうですか。弟子が優秀だと苦労しますね」
「そうだとは誰も言ってねえだろうが」
「言われてません。まだ」
「てめぇ……ナメた口ききやがって」
「あはは」
こぼれた笑い声がキッチンにも床にも落ち、あちこちに転がっていく。大きな窓からは陽射しが照る。家のなかはとても明るい。これ以上はいらないかもしれない、と目が眩むほど。
「──こうして、あとは待ちます」
「終わりか?」
「ある程度は」
「もっと何かしてるだろう。なんつうかこう、特別な」
「いえ……これだけです」
「ああ? 俺のやり方と変わらん」
「それはだって、リヴァイさんに教わりましたから」
「なぜ味に違いが出る。お前の紅茶のほうが美味い」
「ええ……なんで? なんで、……なんで。ダメ、全然わかりません。才能ですね、きっと」
「そりゃあいい。ならずっとここにいろ。その才能を最大限に活かせる」
「やっぱりわたしの紅茶が恋しいんじゃないですか」
「何度もそう言ってる」
「言われてません!」
そうだったか、と首をかしげてみせるリヴァイさんとポットを見下ろし、複雑に絡まった思考をほどくのは一旦やめにして茶葉の行方を見守った。
ふいに外から声が届く。楽しそうにはしゃぐガビとファルコと、なだめるようなオニャンコポンさんの笑い声。
それは他のどんなものよりも耳触りの好い音楽で、暖色の空間には沈黙が漂った。穏やかで幸せな、淡い紅茶の匂いと一緒に。