NN L/20210525
リヴァイは黒山羊と見つめあっていた。黒山羊は、煤けたレンガが張り巡らされたピアススタジオの壁にそっと佇んでいる。胴体はない。剥製だ。ぐるりと後方に渦を巻く太い角が、いくつかのレトロなウォールランプに照らされて、濃い影を作る。リヴァイは今にも動きだしそうなそれを、かれこれ五分近く見つめていた。レプリカだと聞いたが、どうも本物にしか見えない。
「──悪魔の象徴だったか」
山羊から目を逸らさずにつぶやく。上質な皮を使用している一人掛けのソファは座り心地がいい。そこでくつろぎながら、「レクター博士が座ってそうでしょ」と店主の女──ナマエが言っていたのを思い出す。
「悪魔じゃなくて」ナマエが、黒いゴム手袋を装着して振り返った。「神」
キャミソールに細身のデニム、くたびれたマーチン。ナマエのいつもの装い。露出した肌の至るところにブラックのインクだけで掘られたタトゥーがある。
「つっても邪神だろ」
「あれ。調べたんだ」
「ハンジがな」
「ああ、そういうこと。……準備できたからそこに寝て」
ナマエはさもダルそうに施術台を指した。次回来るときには煙草だけでなく愛想も買ってきてやろうか──そんなリヴァイの考えを見抜いたのか、店主らしからぬ低音で「なに」と石を投げてくる。
「お前、だれに対してもこうなのか」
「こうって?」
「愛嬌が少しもねえ」
リヴァイは施術台に寝そべった。やはり煤けた天井。ツタがはびこっていそうな、アンティーク調の空間。BGMはふたりぶんの息遣い。
「リヴァイに言えたことじゃないと思うけど。じゃあ、これ」
新しいやつね、と。ナマエは滅菌パックをかざし、ニードルが使い回しじゃないことを明確にした。
「こういう商売には必要だろ」
リヴァイはだらりと力を抜く。片膝を立てると睨まれたので、しかたなしに綺麗な仰向けになった。トップスをめくればへその上に黒点が現れる。さっき付けられた目印だ。そこに針を通す。
「度胸があれば充分」
ナマエはジェルでニードルをぬめらせ、柔い灯りでてらてら光るそれを印に近づけていく。そしてジェルが付着した指を、へその下から上に。ゆっくり塗り広げるみたいになぞられて、リヴァイは一瞬、目を眇めた。
「すごい腹筋」
「……仕事だからな」
「鍛えるのが?」
「歌うのが」
みぞおちのあたりまでを撫でつけた指が、急に方向を変える。服を押しやってなお進む。
「ッ、……オイ」
「ここ」
「……あ?」
「次はニップル開けなよ。両方。私がしてあげる」
リヴァイは頭を傾け、自身の胸もとを見下ろした。ぬるりとした指は視線から逃れるように遠ざかっていった。
「悪くない」
「うん」
「お前にされるなら」
やっと目が合う。今度はナマエの唇が、血色のない弧を描いた。そうしてニードルを滑らせる。その鋭利な先端を、傷ひとつない素肌に当てて。
「いくよ」──と。春の夜みたいな声で言った。
ほんのわずかに遅れをとり、リヴァイの顔が薄く歪む。体内に金属の冷たさが押し込まれる。なのに体中は熱くなった。皮膚が裂ける。
貫通したとき、はあっ、と吐息が漏れた。漏らしたのはリヴァイで、ナマエだった。ふたりともが興奮している。傷だから。ピアスの穴は怪我、傷痕だから。
「痛い?」
それが二度と塞がらないよう、弓なりのシルバーが通される。呼吸と共に上下するピアスは、ウォールランプを反射して甘やかに光ってみせた。
「痛ぇに決まってんだろ……」
「へえ。よかったね」
「なにがだよ」
「リヴァイ、マゾでしょ?」
「……な、わけあるか」
「じゃあどうして来てんの」
ナマエは丁寧に後処理をしたあと、手袋をゴミ箱に放り捨てた。そのまま施術台から離れ、吸っていいかとも聞かずにリヴァイが持ってきた土産に手を伸ばす。ボ、とライターの火があがった。白い、痩せっぽちの女に似た煙も。
「俺の喉がダメになっちまったらどうする」
リヴァイも施術台から降り、全身鏡の前に立った。服をまくって一箇所を凝視する。
「煙草のことなんか気にしてないくせに」
「気にしてる。知らなかったか?」
「知らなかった。だったらほかのとこ行けば。穴開けるだけなら店はたくさんある」
鏡越しに背後を確かめれば、咥え煙草の素行不良が室内を片付けていた。たまに髪を掻き上げて、溜息みたいな煙を吐く。すべての生命活動が心底ダルいとでもいうような様子で。
リヴァイは再び自身を見た。腹のあたりが熱を持って、疼いている。これから先、この傷痕を見るたびにナマエを思い出すのだろう。
「お前がいるから」
流れる煙に近づいて、リヴァイはナマエから煙草を取り上げた。急に寂しくなった口もとが不愉快そうに尖った。「返して」と伸ばしてきた腕を引いてやり、体を抱き寄せ、火は灰皿に押しつける。
「お前がいるから、ここに来てる」
「……ああそう。わかったから。離して」
「お前はだれに対しても同じなのか」
「またその質問?」
「だれに対しても、あんな目つきで穴開けてやんのか。……こんなふうに、肌まで触って」
腰は抱いたまま。キャミソールの裾から直に背をなぞるとナマエは小さく仰け反り、声を湿らせた。
「なあ。……答えろよ」
さらに指を上げていく。ホックに触れた瞬間、ぎろりと気性の荒い眼差しが向けられた。
「どう、だと思う?」
ナマエは、笑っている。
その挑発。あるいは誘惑に、リヴァイもうっすらと笑んだ。下着の留め具を外すと同時に重ねた唇は冷たくて、消えない傷をつけた鈍色の針を、連想した。