20250313







 書類をめくりながらも、ひどい緊張で胸が痛かった。夜風が背後の窓をかたかたとたたく。だけど兵士長室の片隅で暖炉が燃えるから、寒さはない。部屋にはふたりぶんの呼吸だけがあった。
 まさか私が兵長の執務をお手伝いすることになるなんて、おもってもみない命令だ。ああ、いまからでもハンジさんのところに戻りたい。早くここを出ていきたい。いつもみたいに第四分隊のみんなとお喋りをして、楽しく仕事をしたかった。
 兵長と片付ける執務は、壁外調査に出ている真っ最中とたいして変わらない息苦しさがつきまとう。気分転換に世間話をしようにも、下手なことを言えばきっと叱られてしまうし。
 ソファから、デスクを盗み見る。
 兵長は少し眉間を寄せ、机上の仕事を睨むようにしていた。羽根ペンを握ったままの指を下唇に当てている。壁外では常に剣を振るう手。巨人をいともたやすく屠るその手を見詰める。
 伏せられたまつげが一度ゆっくりまたたくと、きれいな、でもごつごつした男らしい指がペンを走らせはじめた。眉間のしわもうすまっている。腑に落ちないなにかが解決したのかもしれない。
 あ、

「なんだ」

 じっと見詰めていれば、うつむき加減でいる兵長の視線だけが上がって、目が合った。デスクに置かれているオイルランプがちらちら揺れている。光を受けた瞳が、青にも、灰にも見えることをいま知った。

「い、いえ……」
「……」

 勝手に伸びてしまった背すじ。てっきり集中しろだとか怒られると思っていたけれど、兵長は黙ったまま再び手もとに意識を戻した。
 夜が深い。音がほとんどない。私と兵長しかここにいない。それらの事実が、急に輪郭をもってあらわになる。

「……お前」
「はいっ!」

 兵長が小さく言い、ペン先をインクボトルのふちに撫でつけた。丁寧に。あたりまえだけれど、巨人のうなじを切り込むのとは、まったく別の動きで。

「紅茶はいけるクチか」
「紅茶……ですか?」
「貰いもんの茶葉がある」
「えっと、」
「飲めるか、っつってんだ。お前はそんなことも答えられないのか?」
「の、飲めます! 大好きです!!」
「……そこまで聞いてねえ」
「失礼いたしました!」

 とっさに立ち上がり、胸にこぶしを当てた。どん! と強く敬礼すれば、無表情だった兵長はわずかに顔を歪めた。アホだな、とか、ばかだな、とか、言いたげなおもざしに見えた。ちょっと恥ずかしくなって目線をうろうろさせる。

「……いま湯を沸かしてくる」
「兵長、私が」
「お前はそこにいろ」
「ですが」
「しつけえな……二度も同じことを言わせる気か」
「す、すみません。では、引き続き書類の確認をして」

 言いかけた言葉が止まる。こちらへやってきた兵長が、私の目の前、ローテーブルの上に中指をト、と置いたためだ。積み上がった紙束の上に。言葉だけじゃなく、暖炉の灯りまでもが遮られ、逆光の兵長を見上げる。

「休憩だ。お前の集中力はとっくに切れちまってるらしいからな……人のツラをジロジロ見やがって」
「う……申し訳ございません」
「まあいい。とにかくてめぇはそこでおとなしくしてろ。……わかったな?」

 はい、と。答えたかったのに、どうしてか声がかすれた。しっかりとした返事が、だからできなかった。すぐ近くで見詰め合っていたせいかもしれなかった。
 だけどやっぱり叱責されることはなく。兵長はゆるりと踵を返し、隣室へと消えて行った。
 まさか、休ませてくれるだけでなく、紅茶を淹れてくれるなんて。
 ──もしかしたら。兵長は、もしかしたら、怖い人ではないんだろうか。私はあの人のことを、よく知らないけれど。実は、優しい人なんだろうか。
 初めてふたりきりで過ごす時間に、胸の痛みはおさまらない。緊張感もいまだ失せないし、どきどきと鼓動が騒ぐのも煩わしい。
 ただ、ひとつだけ。私はもう、早くここを出ていきたいだなんて、思わなくなっていた。
 緊張に冷えた手で両頬をつつむ。はあ、と息を吐き、ブルーグレイの瞳を思い返せば、胸の痛みが増したようだった。
 紅茶の香りが辺りに流れだす。私は言いつけを守り、執務を放棄する。窮屈だった静寂はなだらかなものへと変わって、兵士長室に横たわっている。夜が、満ちていく。





夜に





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