20240224
夕暮れ時を少し過ぎ、辺りは暗くなっていた。リヴァイが馬車を降りると、ブーツの底が雪に沈む。兵団本部前の雪は道の両脇にはけてあるが、今日の雪足は強い。除雪するそばからどんどん新たに積もってしまったのだろう、地面はちっとも見えていなかった。いまついたばかりの轍でさえも、あっという間に薄くなっていく。門横にできた雪の丘には、シャベルが数本、降伏の白旗みたいに刺さっていた。
肌を切り裂くような北風が吹き抜ける。リヴァイの手や足先は、とっくに冷えきっている。鼻頭もひんやりとしているのが、さわらなくてもわかった。深いグリーンのロングコートの襟ぐりを合わせ直して歩く。門から兵舎までの距離はわずかだが、降りしきる大粒のかたまりに視界をちらちら遮られ、遠近感が曖昧だった。歩いても歩いても進めていない気持ちになり、雪に足を取られるのを鬱陶しく感じながらも、歩みを速める。
また強風。腕に抱えた花束が煽られ、数枚の花びらが飛んでいった。リヴァイは思わず振り向き、手を伸ばす。しかし一枚も掴み取ることはできず、いくつかのカラフルな花びらは、白い景色のなかをはらはらと舞い踊った。それはなにかを祝福するときの、紙吹雪のようだった。
花びらはやがて攫われ、見えなくなる。あとにはただ、無彩色の風景と、すすり泣きにも似た風の音、後ろを振り向いたまま立ちすくむリヴァイの姿だけが残った。
ナマエが花しか食べなくなった、という不可解な報告をリヴァイがもらい受けたのは、約三週間前のこと。冬には突入していたけれど、まだ壁外にも出られるくらいの時期で、実際報告を受ける少し前にもリヴァイら調査兵団は壁外調査へ出ていた。
ハンジ・ゾエ率いる第四分隊に所属するナマエはそのときの遠征で負傷し、帰還後数日間、眠り続けた。とはいっても、負った傷はほかの兵士たちに比べればわりあい浅かった。なのにもかかわらずどうしてここまで目をさまさないのか、と衛生兵に詰め寄るハンジの後ろ姿を、リヴァイは鮮明に憶えている。
「気持ちの部分を、大きく損傷してしまったのかもしれません」
衛生兵はそう答えた。気持ちの部分? リヴァイが眉をしかめて復唱すると、はい、と返される。嚙み砕くための説明などはなく、返事はそれだけだった。
ハンジが沈痛な面持ちで口を開いたのは、そのまた数日後。ナマエが意識を取り戻したという朗報とともに、花を食べるようになってしまったという相談を寄越したのだ。ハンジはナマエをいたく可愛がっていたので、彼女の突然の奇行にひどく困惑している様子だった。
それもそうだろう。いまだかつて、生花をむしゃむしゃ食べる人間に出逢ったことなんてない。パンやスープ、野戦糧食を無理やり食べさせてみれば嘔吐し、発熱する人間になんて。
話を聞いた初めこそ、リヴァイはかわいた笑いをこぼした。だって、さすがにくだらない冗談に感じていた。冗談ではないとすれば、クソメガネのアタマがとうとう文字どおりに狂ってしまったか。仄暗い可能性をつぶすためにも、吐き捨てるみたいに笑ってやったのだった。
けれど本当におかしくなったのは。狂ってしまったのは、ハンジではなく。
「ナマエ」
リヴァイは兵士長室の奥、ドアを隔ててひと繋ぎになっている私室へと入るとベッドに近づいた。ホワイトのマットレス、シーツに包まれて横たわるナマエは閉じたまぶたさえも血色のない白で、まるで真冬みたいだ。その寝顔を見下ろす。ときおり眼球がせわしく動くので、なにかの夢を見ているのだろう。
リヴァイは見繕ってきたばかりの花束を、静かにサイドテーブルに置いた。脱いだコートは乱雑にポールハンガーへと掛ける。かぶった雪は兵舎へ入る前にあらかた払ってきたものの、残ってもいたらしい。袖や肩口付近についた結晶が、部屋の片隅で燃える暖炉の火を反射してきらきら光った。
そっとベッドに腰を下ろし、軽く後ろを振り返るようにして寝顔を見つめる。ナマエの唇だけが視界のなかで赤い。リヴァイはナマエの身体を越えたところに片手をつき、上体を伏せ、目をつぶった。
冷たいキス。
でもナマエは気がつかない。こうして何度もリヴァイに奪われているのを知らない。一方的なくちづけは、盗みを働いているのとそっくりだ。
ナマエ、と。自身でも聞きとりづらいほどの声量で呼びかける。もちろん返事はないけれど、リヴァイは満足していた。
このまま、ずっと。ナマエを手もとに置いておけたらいい。どうして花しか食べないのか、なぜそれでも生きていられるのか、なんて、取るに足らない問題だ。ナマエはちゃんと毎日目をさますようになり、こうして鼓動を打っているのだから。
なんだって構わない。ナマエが生き続けるのなら、どんなことでも受け容れる。
食事を用意してやらなければ。思い、リヴァイは立ち上がった。離れぎわに優しく頬に触れる。んん、と小さくうなったナマエはでも、起きることなく、リヴァイの指先に頬擦りをした。
嬉しそうに口角を緩める彼女は、いま、なんの夢を見ているのだろう。いったいだれの夢を。
「……」
安らいだ寝息がたっている。ナマエのまぶたの裏側にいるのは自分ではないと、リヴァイはとっくのとうに、理解している。
「リヴァイ、いる?! いるな!」
執務室。ソファに掛けて小ぶりなナイフを動かしていると、勢いよく扉が開かれた。
リヴァイは目線だけを上げ、兵団ジャケットとクリームイエローのシャツを見たあとは、返事をせずにまた花を刻みはじめた。ちょうど、人が食べやすい大きさに。とはいっても全部をみじん切りみたくしてしまうのではなく、花びらは花びらのまま、メインデッシュのように綺麗にかたちを残しておく。刻むのは茎や葉っぱだけ。それらを丁寧に皿へ盛りつける。
ナマエが花しか食べなくなってから、彼女の面倒はリヴァイが見ていた。食事内容以外におかしな点がないとなれば、ずっと医務室に置くわけにもいかない。一度は一般棟に戻して様子を見たが、なにも知らない兵士がパンを与え、ナマエがひどい発熱に見舞われて以降、リヴァイの私室をあてがうという措置をはかっている。ほとんど使用していなかったし、だけど清潔に保たれていた一室は、療養にも適している。
最初のころはナマエも、さすがに戸惑っていた。けれどリヴァイが私室に踏み入れるのは日に数回。食事を運び入れるときだとか、彼女の状態を確認するときだとか。一緒に生活をするというほどの頻度でもなかったためか、いまではすっかり兵士長室での寝起きにも慣れたようだった。
「ねえリヴァイ」
リヴァイは答えない。ノックもなしに部屋に入り、声をかけてきた人間、ハンジは、しかし気に留めない様子で続ける。
「そのまま食べさせるんじゃだめなの? 棘とかは、店のほうで処理してくれてるんだろう」
「……だめに決まってんだろ」
「どうしてさ」
「てめえは畑から採ってきたばっかのイモをそのまんま食うのか」
やれやれ、と首を振っているのが気配でわかった。
リヴァイがいまいじる花たちには泥はついていないし、毒になる芽もない。買ってきた状態のままナマエの口に放り込んだってよかった。そもそも花束にしてもらう必要も、買ってくる必要さえも本当はないのだけど。野花や野草は兵舎内にだって自生している。
しゃり、しゃり、と硬くて鋭利な音が響く。その音にまぎれて深い溜息が聞こえた。同時にローテーブルへ、数冊の分厚い本がだんっ、と置かれた。リヴァイの目に映るのは本のてっぺんなので、タイトルまでは判然としない。
両手の空いたハンジがぐるりとテーブルを回り込み、リヴァイの隣に腰を下ろした。あまりに勢いがよかったのでリヴァイの身体がわずかに揺れる。ナイフをすべらせるのを止め、危ねえな、と舌打ちする。
「悪かったよ。君に怪我をさせちゃうとこだった」
「ああ、気をつけろ。血がついちまうだろうが」
あいつのメシに、と。面と向かって文句を垂れれば、ハンジが一瞬、なんともいえない顔をした。紙で指先を切ってしまった瞬間みたいな表情だった。
「オイ……さわんじゃねえ」
完成に近づく皿のそばにある、銀のカトラリー。大きなフォークとナイフには、繊細な模様が彫られている。ハンジがそれに興味を示し、手に取ろうとしたため制止した。ちぇ。聞こえよがしにそうつぶやかれる。リヴァイはナマエ専用の銀器を自分のほうに寄せた。
「ナマエ、お皿とフォークで花を食べるんだ」
「……そうさせてる」
「君が?」
「ああ」
「あはは。おっかし。まるでどこぞの貴族じゃないか」
「うるせえ」
「……まあ、でも。いままでとなにも変えさせずに、通常どおりの生活を心掛けてもらうのはいいことかもね」
ハンジの言わんとしているところが解り、口を噤む。
このところ、リヴァイはナマエをずっと手もとに置いている。部屋からも出していない。執務室に来させることはあっても、廊下には行かせない。絶対に、出してやらなかった。
幽閉しているも同然だが、べつにおかしな判断ではないはずだ。花しか食べない女を、何事もなかったかのようにふらふら過ごさせるのは得策ではないし。ナマエにだって許諾を得ている。
しかしハンジはそのことに、疑問を感じているふうだった。もうやめてあげなよ。いつもどおりの生活に戻してあげなよ。いまも本当はそう言いたいのだろう。聞き入れてやるつもりはさらさらないので、リヴァイは知らないふりを続けるだけだ。
「クソメガネ」
「なに?」
「用がねえならとっとと出ていけ」
「あ、ああ……そうだった。用ならあるよ。これ」
すべての花を盛りつけ、微調整をほどこすリヴァイの目の前に本が差し出された。古い書物で、何度も修繕された跡がある。
「そいつがなんだ」
受け取りはせず、話を促した。自らで持ち、読んでみる気にはならない。ハンジは汲み取ったのだろう、嘆息し、半分よりやや手前の位置で本を開いた。
「ここに、花を食べる奇病がある……って書いてあるんだ。各地で見られる病の一種らしい」
自然と手が止まる。ナマエの奇行が真っ先に思い浮かんだ。精神的な不具合によるものだとリヴァイは考えていたけれど、意外とよくある症例なのだろうか。
「ほら、これ」
ハンジが文章の羅列をなぞり、一箇所で指をストップさせてつぶやく。
「[[rb:花食症>かしょくしょう]]?」
「絶対に報われない恋をしている人が、罹る病」
「……聞いたこともねえが」
「うーん。そうだね、実は私もない。この文献、かなり古いし……もしかしたら、ずいぶん昔に流行した病気なのかもしれない」
「どうせガキに聞かせる寝物語の類いだろ」
「いいや。病気自体は実在すると思う」
「は、……報われない恋をしてる奴が罹る病気が、か?」
訊けば裏付けを取っていたらしく、積み立てた本のなかから別の一冊を引き抜いてみせた。先程のよりも分厚い本は、貴族院裁判の判例集のようだった。過去にどういった経緯でどういった裁判がおこなわれてきたか、最後にどんな裁きが下されたのかが詳細に記してある代物。
ハンジは開き、うちのひとつの例を指し示したあとで何回か違うページに移動する。そのたびリヴァイへと内容を見せた。
「ね? 複数の記録に、花食症の文字が残ってる。さすがに裁判資料に適当なことは載せられないはずだよ」
「……どうだか。金持ち連中なら簡単にでっちあげられる」
「資料を?」
「資料もだが……病気自体もだ。身内の罪を軽くするためだったらなんだってやるだろ、ああいう小汚ぇ豚どもは」
「その可能性は低い。花食症に罹患しているからといって、刑罰が酌量軽減されたという記録は残ってないんだ。ただの情報として、記載してあるだけ」
リヴァイも本を取った。付箋が貼ってあるところどころを読んでみると、たしかに全部に花食症の文字がある。
「こんなもん、よく見つけたな」
「モブリットがね。思い出してくれたんだよ。彼、昔憲兵になろうとしてた時期があるんだって。それで、法を学んでいたらしい。……で。本題はここからなんだけど」
ぎし、とソファが軋む。横に座るハンジが背筋を正したのだ。リヴァイもナイフを置き、視線を投げかけた。持ち上げた眼鏡を頭に乗せるさまを眺める。落ち着いて聞いてね、と言った横顔は、ひどくこわばっている。
「花食症に罹った人たちは、もれなく全員……死んでるんだ」
ほんの数秒間、世界が断裂したような心地がした。現実味は希薄になり、幼いころに味わう永遠の悪夢みたいだった。もしくは水中にいるような。音も景色もぼやけている。
「──? リヴァイってば!」
ハンジのがなり声に、はっとした。「大丈夫?」と声をかけられて、けれどハンジは「なんて聞き方はよくないね。大丈夫って答える以外、なくなっちゃう」と苦笑した。いつの間にか眼鏡がかけ直されている。
「……それがなんだ」
「え?」
「もれなく全員死んでるからって、なんだってんだ」
「なんだってんだ、って……だから」
「ナマエが死ぬとでも?」
「そういう可能性もあるって話だよ」
「あいつがその、クソみてえな病気かもわからねえだろうが」
「……ナマエは言ってた、こないだの遠征で、自分を間一髪のところで助けてくれた人を愛していたって。ずっと片想いだったけどって。ナマエは自分のせいでその彼を死なせてしまったと思い込んでる」
「要するに、報われない恋をしている、と?」
「ああ」
「それで花食症とやらになった」
「そう」
「くだらねえ」
リヴァイはばっさりと吐き捨てた。話題にのぼる張本人はすぐ隣の部屋にいるというのに、死を連想させるような話を持ち出すハンジに腹が立った。万が一彼女に聞こえてしまったら、きっと不安がるに違いない。
まだなにか話したそうにしているハンジを、執務室から追い出す。半ば強引に押しやったため、本はテーブルに置きっぱなしになった。
一冊を手に取り、開いてみる。花にまつわる病はいくつかあるようで、ナマエが罹患している可能性のある花食症以外にも、花を吐いてしまう病も存在するという。くだらないとは思うが、リヴァイは読むのをやめなかった。
数ページ。飛んでまた数ページ。目を通して別の本を開き、再び数ページと進めていく。
やがてわかった点は、花食症が致死率百パーセントの病であること、死因は諸説入り乱れていて不明瞭であること、治療薬や治療法が見つかっていないこと、伝染病ではないこと、花以外を摂れば発熱・嘔吐が生じること、そしてハンジの言うとおり、けっして報われない恋をしている者のみが発病する病である、ということだった。
リヴァイは本を閉じると同時にすぐさま私室へ向かった。カーテンが開け放たれた窓の奥では、いまだ雪が横殴りに吹雪いている。
夕暮れにも幕が下り、外はすっかり闇に暗い。暖炉の火だけがあたたかな明かりを放つ寝室で、ナマエは起き出し、窓辺に立っていた。
真後ろから手を伸ばしてカーテンを引く。たった一枚の布っきれなのに、閉めただけでも窓辺はいくらか温度を上げたように思う。
「身体が冷えちまうだろ」
リヴァイは寝間着姿で振り返ったナマエに、ブランケットを羽織らせた。これも最近、買いそろえたもの。
「ありがとうございます」
彼女は伏し目がちに礼を言い、リヴァイの横を通り抜けていく。ナマエからは花の香りがした。とても生者の香りとは思えないけれど、でも、ナマエはちゃんと生きている。
生死を急いで確認しに来た自分を、リヴァイはどこか嘲りたくなった。それとともに、ナマエはいつから起きていたのだろうと、気になった。
「リヴァイ兵長」
彼女はベッドに戻らず、部屋の真ん中あたりで立ったまま。
「私、いつになったら外に出られますか?」
「……」
「雪解けのころですか?」
「そんなにヒマか、ここは。ならついて来い、執務室で……」
「執務室の、もっと外に出たいんです。春先の遠征に出られるように、鍛錬もしておきたいですし」
後ろの言葉は、言い訳じみて聞こえた。外へ出るための。リヴァイの手もとから離れるための、言い訳。
「それを決めるのは、お前の容態が安定してからだ」
あんてい、と、ナマエがつぶやく。しばしの沈黙が漂ったものの、やがて納得したようにうなずいた。
彼女をベッドへ戻らせる。膝下丈のスカートから覗く両足が寝台に乗り、シーツのなかに消えていく。いまにも折れそうな茎さながらの、二本足。
最後は、ベッドに座りながらも食事ができる造りのテーブルをナマエの前まですべらせた。
「メシを持ってくる」
部屋に、窓があるのがいけないのかもしれない。外の景色なんか見るから出たくなる。花を盛り合わせた皿を取りに行くさなか、リヴァイはそんなことを考えた。
*
部屋を明け渡してから数週間。ナマエが花食症に罹ってからは幾度目の昼下がり、リヴァイは再び馬車に揺られて街へ出た。名残の雪は積もっているけれど、今日は晴れている。鬱蒼と生い茂る針葉樹の森を駆けていく際、木から下がったつららが何度も太陽を映して輝いた。
ガタガタと不安定だった路面が平らになり、横揺れしなくなる。舗装された道に入ると目指す生花店はすぐだ。
リヴァイ行きつけの花屋は、兵団本部から一番近い街にある。定休日というものがなく、さらには雨でも雪でもやっているので、兵士行きつけの生花店、ともいえるだろうか。壁外調査のあとなんかは、とくに混雑する店だ。
日常に変化があったのはナマエだけではない。たとえばこうして、花屋を覗くのがリヴァイにとっての日課になった。彼女が喜ぶ顔を思い浮かべながら過ごす時間は、有意義なもの。
車窓から空を仰ぐ。今回はなにを買っていってやろう。ノースポール、シネラリア、シクラメン、カンツバキ、シンビジウム。直近で皿に盛った花の名前を思い出していく。ひとつひとつの、色や形も。いままで花になど興味を惹かれなかったのに、こうもたやすく名前を覚えられるのが不思議でしょうがなかった。
リヴァイは今回も、適当にアレコレ選んで花束を誂えてもらった。アザレアやクロッカス、パンジーなどなど。部屋に飾るのであればうるさいブーケになりそうだが、食べてしまうのだから気にすることはない。どうせなら、豪華なほうがいい。受け取った花束は、ずっしりと重かった。
兵舎に帰ると、不自然な騒がしさに満ちていた。溌溂としたしゃべり声が聞こえてくるというよりは、じとっと湿ったざわめきがそこかしこにはびこっている。
花束を抱えたまま歩くリヴァイに、人目が集まる。それをものともせず人だかりへ突き進むと、生垣のようになっていた兵士らは上官のために脇へよけた。廊下が、通り道が、空けられる。中央にはしゃがみ込む女がひとりいた。見覚えのある寝間着。髪の色や、肌の色。リヴァイは眉をひそめ、女の──ナマエの真横で膝を折った。
「オイ、どうした。大丈……」
大丈夫? なんて聞かれたら、そう答える以外なくなっちゃう。仲間の声が脳裏に反響し口を閉じる。
周囲の人間に状況を問えば、ふらふらと歩いてきたナマエを見つけた同期が、彼女のあまりにもやつれた姿を心配し、食堂に連れて行ったという。そこでナマエも普通に食事をしていたが、やがて蒼褪め、立ち上がってしまったのだと。そうして、座って休んでいたほうがいいと気遣う同期に首を振り、この廊下まではなんとか来たものの。
「うずくまっちまって。医務室に運ぼうと思ったんですけど、嫌がるし……なんか、戻らないと、って」
説明していた青年が、不安げに瞳を揺らせる。リヴァイは「そうか」とひとこと返し、ナマエを横抱きにした。花束を抱えていては少々抱きにくいが、だれかに預けるという発想には至らなかった。花束も、ナマエのことも。
廊下を進む。医務室ではなく、自分の、部屋があるほうへ。
予想どおり、ナマエは熱を出していた。もはや花食症という奇病が本当に存在し、ナマエは間違いなく罹患していると言える気がする。アホらしいとはいまも思うけれど。
リヴァイは彼女のひたいに触れた。体温はそこまで上がっていないので、今夜には熱も治まるだろう。
首筋に寝汗が伝っている。それを拭い、耳付近で張りついた髪をそっと梳いてやると、小さな吐息がこぼされた。熱に浮かされているナマエの、まぶたが持ち上がる。
「兵長……」
声を聞くのは今朝方ぶりだ。なのに数日間、話していなかったような気持ちになる。街へ出たためか、彼女がリヴァイの知らぬところでこっそり動いていたと知ったためか。
「許可を得ずに抜け出して、ごめんなさい」
ナマエは悪戯がバレたときの子供みたいに、目を伏せた。リヴァイはなにも言わずに腕を組む。部屋に夕陽が入り込んでいる。ベッド脇に座るリヴァイの影が伸び、膨らみ、ナマエを覆い尽くそうとしていた。
「裏庭の共同墓地に、行きたくなったんです。今日は、とても晴れていたし」
報われない恋をしている人が、罹る病
「ある人に、無性に会いたくなって」
ナマエは言ってた、こないだの遠征で、自分を間一髪のところで助けてくれた人を愛していたって。ずっと片想いだったけどって
ナマエがいつか頬擦りをしてきた日。彼女はたぶん、夢のなかで、その人物と一緒にいたのだろう。だって嬉しそうにしていた。幸福に満ちた表情だった。リヴァイには一度も見せたことのない顔だ。だからわかった。夢のなかにいるのは自分ではないと、わかっていたのに。
「……近いうち、連れてってやる」
ぱ、と彼女が目を瞠った。驚きを隠さずにリヴァイを見上げてくる。どんな花を買ってきてやるよりも、ずっと喜色を湛えてみせた。
ある人に、無性に会いたくなって。ナマエを見つめながら言葉を反芻する。先程、あれだけ重いと感じた花束の重量を、でももうリヴァイは思い出せなかった。
その日の夜、ハンジが再訪してきた。前回とは打って変わり、きちんとノックをして。リヴァイは入室を促しても止めてもない。デスクで淡々と、書類をしたためていく。冬季に壁外調査はないけれど、やることはそれなりに多い。
勝手知ったるたというふうに、ハンジがソファに座った。よれた白衣を着ているので、実験室にでもこもっていたのだろうと察せられる。
「ナマエの調子はどう?」
「普通だ」
「フツウって? ねえそれってどんな状態なの?」
「……いつもと変わんねえよ」
「元気にしてるってこと? みんなと同じように?」
リヴァイはペンを置いた。ソファを見やればハンジは指を組み、背を丸めて俯いている。常にあるハイテンションが、いまは欠片ほどもない。
「なにを言いに来た」
「……ナマエを、出してあげようよってこと。そろそろさ」
「出す理由がない」
「閉じ込めておく理由はあるの?」
「……」
「リヴァイ。ナマエはもともと、私の部下だ」
「知ってる」
「なのに私は、あの子の具合を君ほど把握していない。あの子の同期の子たちも、ナマエの様子を君ほどは知らないんだ」
「聞きに来りゃあいい」
「……自分だけがつらいと思うなよ」
小さな声だった。うつむいたままのハンジの、表情までは見えない。
「私だって、心配なんだ。ナマエが死んだらどうしよう? 死なない方法は? いろいろ考えて、探してる。いまだって」
ぐっとなにかをこらえるように、言葉が止まる。ナマエのためになる実験をしていたのだろうと、ふいに思い至る。
ごめん、と続けたハンジが長い息を吐いた。
「あのさ、私、考えたんだけど。花食症って、報われない恋をしている人が罹る病気でしょ」
「……らしいな」
「だったら、新しい恋をはじめさせるのはどうかな。この作戦、結構アリだと思わない? そのためにも、ナマエを外に出してあげるんだよ。それでいろんな人と交流させてさ」
ね、どう? と顎を持ち上げたハンジの顔が、リヴァイを見るなり引き攣る。リヴァイは一貫して無表情のつもりだったが、目つきの鋭さを和らげるのは難しい。本心が、おそらく露呈してしまっている。ハンジの意見には賛成できないという、本音が。
「……こんなのおかしいよ、リヴァイ。異常だ。いつまで閉じ込めておくつもり? こんなの……ナマエが可哀想だよ」
「おかしいのなんて、いまにはじまったことじゃねえだろ」
花しか食べないという、そもそもの状況が狂っているのだから。
*
二月に入り、外は連日猛吹雪に見舞われている。そんななかでリヴァイとナマエとの関係だけは前進も後退もせずに、ゆるやかだった。
ちら、と壁掛けの時計を見る。時刻はもうすぐ正午。この悪天候では花屋へ向かえないが、ある程度買い溜めてあるので問題ない。
デスクを立ち、執務室の端へと行くとリヴァイはプランタースタンドの前で止まった。倉庫でほこりをかぶっていたものを持ち出し、磨いて部屋に置いたのだ。鉢はそろってないけれど、近々探しに行こうと画策している。花屋に行けば、花の種も買える。毎回花束を持って帰ってくるのもいい。でも花を、手ずから育ててみるのも悪くはない。それがナマエのためになるのなら。
プランタースタンドとともにあった、ひとつの小ぶりな植木鉢にさわる。なかにはまだ種どころか土もない。
春になれば。寒明けし、蝶が舞うような季節になれば。
執務室はきっと、いまより充分な花の香りで充ちるのだろう。
「起きてるな」
私室へと。ナマエのもとへと行く。彼女はリヴァイを見やり、瞳に期待を宿した。リヴァイが花の載った皿を持っているから、ではなく。裏庭に連れていってもらえるのを楽しみにしているのだ。リヴァイがそうと言い出すのを。
「食べろ」
そんなまなざしには気がつかないふりで食事を勧める。ナマエもこくりとうなずいた。横顔がちょっとだけしゅんとしたのにも気づいてしまえば、さすがに胸が詰まる。
裏庭に連れていくのはたやすい。早く叶えてやろうという思うもある。その反面、暴力的なまでの雪がまだしばらく続けばいいとも思っていた。ナマエを外に出さないでいい理由になる。
ナマエが可哀想だよ
たしかにそうかもしれない。ナマエの療養のためと謳いながら、一室へ閉じ込めておくのは不健全であるし、突き詰めれば自分のためだ。わかっては、いるけれど。
「ナマエ」
「はい」
リヴァイは手を伸ばした。彼女の口もとに、小さくなった花びらがついていたので拭ってやり、そのまま、唇をなぞる。フォークを動かしていたナマエがぴたりと固まった。兵長……とつぶやかれると苦しくなって、リヴァイはかすかに顔をしかめた。
「リヴァイ兵長は、どうして私にここまでしてくれるんですか」
訊ねたナマエの瞳が揺れている。核心に迫りたいがための質問だと、わかった。
お前が好きだからだと。お前を愛しているからだと、ふいに言ってしまいたくなった。
ナマエがリヴァイを好きになれば、愛せば、ナマエはもしかしたら死なずに済む。でもだれかを特別に想うということは、そう易いことではない。これはリヴァイの、自身の経験則に基づく考えだ。
「……明日」
ナマエの口もとから指を離す。
「裏庭に、行ってみるか」
「いいんですか……?」
「まあ、天候次第ではあるが」
どこか照れくさそうに、嬉しそうに微笑んだナマエが、窓の外に目を向けた。
なぜ自分は花食症に罹らないのだろうと、リヴァイは息苦しさに苛まれながらぼんやり思った。
翌日は、憎らしいほどの快晴。
リヴァイはナマエを連れ、裏庭の共同墓地へと向かった。前を跳ねるように歩くナマエは青空の下で、リヴァイのロングコートを着ている。
その後ろを行きながらも、地面を眺めて進んだ。去年の冬には見つけることさえできなかったであろう野花たちを、次々視界に入れる。なかには名前がわかるものもあった。覚えたのだ。ナマエに花を与えるようになって。
墓地に着き、墓石代わりの大岩の前でしゃがみ込むナマエの背を見守った。彼女はときおり岩に触れ、なにかを話しかけてもいる。リヴァイは腕組みをし、遠巻きに戻りを待った。
「お待たせしました」
何時間でもその場にとどまりたがる可能性を危惧していたのだが。ナマエは案外あっさりと逢瀬を済ませたようで、時間にするとおよそ十数分足らずで戻ってきた。
「もういいのか」
「はい」
「……もっといても構わねえが」
「いえ、満足しました。伝えたいことを、伝えられたので」
「……なら、いい」
ふたりで踵を返す。今度は横並びで、一緒に歩いた。リヴァイも歩調を合わせる。
一ヶ月前に比べれば、ナマエとの距離は少しずつ縮まっていっている気がした。ほとんど閉じ込めている状態ではあるものの、リヴァイの選択や判断は、間違っていなかったのかもしれない。
やっぱりこのまま、ナマエをずっと。春が来ても、夏になっても。秋が来ても。冬が再び、訪れても。
「あ……。兵長、見てください。今日、空に雲がひとつもない」
自分の手で世話をする。自分ひとりだけの手で。異常だと言われても、ナマエが可哀想だと言われても、リヴァイにはどうしようもない。仕方がないのだ。
ナマエを、愛しているから。
*
リヴァイはたびたび、ナマエを外へ連れ出すようになった。ひとりで歩かせてもいいとすら、最近では考えはじめている。リヴァイが私室で、つまりナマエの傍で過ごすことも増えた。ともに寝たりはしないけれど、ふたりでおやすみを言い合うのも日課に加わった。距離は確実に近づいている、はずだ。
「手伝います」
夜。暖炉の薪を足していると、横にナマエがしゃがんだ。手伝いを要するほどのことではないが、リヴァイも一歩、脇にずれる。
「私、あとどのくらいでしょうか」
薪をくべていたリヴァイの手が、その言葉を機にゆるゆると降りていく。横を向けば、ささやかに爆ぜる火がナマエの鼻先やまつ毛の先を、照らしていた。
「前に……ハンジさんと話しているのを聞いてしまって。私がなにかの病気だっていうお話でした。私、あとどのくらい生きるのでしょう」
「……お前が病気だっつう話をしたのは確かだが、まだ、そうと決まったわけじゃない。あくまでも可能性の話をしただけだ」
「でも。私がおかしな病気だから、ここに隔離されているんですよね?」
違うともそうとも答えられず、リヴァイは再び薪を掴んだ。新鮮な酸素に触れた炎がいっそう大きく燃え上がる。
「あと、どれくらいが過ぎれば私は……」
部屋は暖かく、花の香りに充ちていた。不足はないと感じる。いま、この部屋に足りないものはない。というより、ナマエがいれば、それだけで充分なのかもしれなかった。それだけでリヴァイの世界は完結する。
「ナマエ」
「はい、……っ、」
リヴァイは彼女の腕を引いた。バランスを崩したナマエが、胸に飛び込んでくる。
「お前は死なない。くだらん病気なんざ、すぐに治る」
「……はい」
病気を治してやれる方法。不確かではあるけれど、リヴァイが試せる唯一の。もう、賭けるほかない。
リヴァイはナマエの唇に触れた。赤くて柔い。小さな花の花びらみたいに、つぶれてしまいそうなほど。
「ん……っ」
そこへ自身の唇を重ねた。後ろに片手をつくと、敷いてあるラグに手のひらが沈んでいく。リヴァイ兵長。ナマエが口の端でつぶやいた。たまらなくなり、さらに深いくちづけを落とす。舌を絡め、ナマエの唇を舐める。合間に服へ手をかけたが、床に押し倒すわけにもいかない。彼女を抱き起こしてベッドへと移動した。
「んん、や、待ってくださ……ん、」
言葉を奪うように口をふさぐ。捕らえたナマエの手首は細い。いつからこんなに、痩せっぽちになってしまったのだろう。花食症の死因は、もしかすると、衰弱によるものだろうか。
「やぁ……ッ」
リヴァイは彼女の首筋に吸いつき、跡をつけた。舌でなぞればとろりとした声が漏れる。
ワンピースの寝間着をたくし上げ、素肌に触れた。へそや肋骨を辿り、胸にも。ナマエがひときわ大きく震え、身体を熱くさせる。胸の先端は、さわるほどに硬くなっていった。
舌を這わせながらも自身の服を脱ぐ。焦っているのか、緊張しているのか、どちらともであるのか、リヴァイはめずらしく脱衣に手こずった。いまこのタイミングを逃せば二度とナマエに触れられないような、予感めいたものがある。目の前からいなくなってしまう気がする。火に炙られて、あっけなく溶けてしまった雪の結晶みたいに。
「は……ぬるぬるだな」
「あぁ……ッ!」
ナマエを囲い、覆いかぶさったまま耳を食み、キスを落とし、下着に手を入れ小さな突起をこすった。ふにふにとやわかったそれも、いまではリヴァイの指先の下で勃起している。
「掴まってろ」
快感に喘ぐナマエに腕をまわさせ、抱き合う形で行為を続けた。ぐちゃぐちゃでいやらしい音がする。ナマエは必死にリヴァイにしがみつき、もたらされる快楽に耐えている。が、ついにこらえきれなくなったのだろう、背をしならせ、長い絶頂に追いやられた。リヴァイはその間もナマエを可愛がり、身体をほぐしてやる。
「あ……」
膣内もどろどろで、いますぐにでも男を受け入れられそうなほど。繰り返しキスをして、リヴァイもペニスをしごいた。とはいえ、準備など不要なくらいに反り返っているので、ナマエが再び果てたところであてがい、擦り合わせた。
「ナマエ……」
「ッあ、……!」
ずぶずぶと、なかを埋めた。なぜか泣きたくなるような、苦しみを伴った。ゆっくりと律動をはじめる。血管の走る屹立には、うっすらと血がついていた。ナマエの。ナマエだけの赤。
「ん、ん……んんぅ、」
深く深く、くちづけを交わす。ナマエの口内も甘い。花の香りと同じ。
好きだ、と思う。
リヴァイはナマエを好きだと想う。
何度も何度も。そしてそのたびに、苦しくなった。
ナマエに同じ言葉を、強引に言わせたくもなった。それでも満たされるだろうと思えた。好きだと、愛していると、嘘でも言ってくれたら。
「ナマエ……俺を見てろ」
絶頂にとどまっている彼女は、曖昧にうなずいてみせるだけ。ナマエの耳もとに口を寄せると、リヴァイの唇がわずかに濡れた。ナマエの目尻から伝った涙だった。涙はとろけた蜜のような味がする。
あと、どれくらいが過ぎれば私は
あの人のもとに逝けるのか。ナマエはそう、言いたかったのかもしれない。
縮まったと感じていた距離は、本当は、少しも埋まっていなかったのだと気がついた。
リヴァイは花畑にいた。視界一面、色とりどりの花で覆われている。眩暈をもよおすほどに、香りが強い。壁すらも見当たらない世界で、花々に囲まれて独りで立っていた。
春が来たのだろうか。でも蝶は飛んでいない。それに、咲いている花の種類もまばらだった。春のチューリップもあるし、夏のヒマワリもある。冬のパンジーも。リヴァイは花をかき分け、おもむろに歩きだした。近くにナマエがいるとわかったのだ。
すっかり呼び慣れた名前を、一度、二度、と呼んでみる。するとやっぱり彼女はいて、やわらかい声で言うのだった。
「リヴァイ兵長。見てください、空に雲がひとつもない」
リヴァイはナマエの隣に並び、天を仰いだ。たしかにどこまでも高く、底抜けにまぶしい青が広がっている。ナマエがリヴァイの手をとった。手を繋ぐのも、そういえば初めてだ。幸せを絵に描いたら、こういう景色になるのだろう。ふたりは歩き続ける。一緒に、同じ歩調で花畑を歩く。
「兵長」
ナマエが足を速めた。手は自然とほどけてしまい、数歩分前に出た彼女が振り返る。
「私。……私、兵長のことが」
好きですよ。
ナマエの唇がそう動くのを見た瞬間、リヴァイは夢から醒めた。じっとりと汗をかいている。とても幸福な夢だったのに、まるで悪夢に襲われたあとみたいだ。
外は薄く明るい。ゆうべ、ナマエを抱いてから、いままで深い眠りについていたらしい。
気怠いまばたきをしたとき、ふと、リヴァイは彼女の不在に気がついた。
「オイ……ナマエ、いるなら返事をしろ」
辺りを見回す。私室。ベッドの上。明け方の空とかろうじて燃えている暖炉の火。床には脱いだままの服や靴が転がっている。リヴァイのものと、ナマエのもの。ただそこに、ナマエだけがいない。
そしてその代わり。
夢で見たのと同じに、さまざまな種類の花の花びらが、あちこちに落ちていた。
噎せかえるほどの香りに包まれ、リヴァイは口もとを覆う。自分の腕にも花びらがついていたので、軽く払った。花にまみれていたのは、ナマエの頭を乗せていた片腕。
急激な不安感に襲われ、リヴァイは急いで服を着た。花びらが積もっているのは主に、ベッドの上だった。ナマエが眠っていたところのみに、リヴァイが食べさせてきた花たちがあふれている。
部屋を飛び出た。兵舎中を確かめ、ナマエを探した。しかし彼女はいない。見つからない。その日太陽が昇っても、沈んでも。エルヴィンやミケ、ハンジやモブリットに探させても、見つけ出すことはできなかった。
*
三月に突入しようというころ。
春目前にもかかわらず、天候は最後の悪足掻きみたいに荒れていた。今朝から雨が降り続き、いつになく気温が低い。
リヴァイは馬車を降りた。抱えた大きな花束は、ナマエのために買ってきたものだ。花の種類は日々変わる。季節の移り変わりとともに、色を変化させていく。たとえ彼女が、世界のどこにもいなくても。
「ナマエ」
あの日以来姿を消した女の名前を呼ぶ。息苦しくなり、うつむけば、花びらが散っていく。あるいはそれは、涙のようだった。
ナマエはおそらく死んだのだ。花食症により、花となって死んだ。これはただの仮説だが、異議を唱える者はいなかった。最後の日、部屋に散らばっていた花びらが、すべて、リヴァイの与えた花のものと一致していたためだ。
リヴァイはナマエの跡形のような花びらを、いくつか乾燥させて保管している。綺麗なドライフラワーにはできなかったので、瓶のなかでほろほろ崩れてしまうけれど、それでも捨てられないでいた。形を崩した花びらたちは、一見遺灰のようでもある。
ナマエは最後まで、だれかのことを想って逝った。リヴァイではないだれかの存在を一心に考えて。
手から力が抜ける。当然みたいに花束が落ちる。拾わなければいけないと思ったものの、見下ろすだけで動けなかった。しばらくのあいだ、リヴァイは雨に湿っていく花びらを見つめた。鼓動を打たない、花を。
明日には、春が来る気がした。なんとなく、この雨が上がれば春になるような気がした。ナマエといるようになり、覚えたたくさんの花の名前が、リヴァイの脳裏によぎっては消えていった。