20240123







 病室の引き戸をそっとすべらせると、なかにナマエはいなかった。リヴァイは息をひそめ、部屋を見渡す。
 茶色だらけの兵舎や兵団内の医務室と違って、真っ白にも近い部屋。床にも壁にも、ホワイトのペンキにくぐらせた板がはりついている。そのうえ家具や寝具も同系色で、まるで存在感を主張しない。ナマエがいないことで初めて統一感の生まれる空間だ。

「オイ。いねえのか」

 ぼんやりしていた意識を叩き、目当ての人物を探しはじめる。けっして広くはない個室。隠れられるスペースなどない。何回か名前を呼んだものの、あとに残るのはリヴァイの声のみだった。抑え込んでいた不安が急に鎌首をもたげる。遠くで蝉が鳴いていることに、いまさら気がついた。
 部屋をもう一度見回すと、ベッドの上にはきちんとたたまれた上掛けがあった。その付近に歩行杖がたてかけてある。横には、開いたままの大きな窓。レースのカーテンが青すぎる夏空を透かし、音もなく揺れた。外の眩しさにリヴァイは目を眇める。
 一歩踏み出せば、カツ、と戦闘靴のソールが床を鳴らした。もう一歩。それから、もう一歩。窓へ近づくたび、景色がぐにゃりぐにゃりと歪んだ。バランスの取り方を忘れて水槽にぶつかる魚みたいに、不安定に、リヴァイはふらふらと窓辺へ寄る。
 酸素が薄れていく気がした。動悸は激しくなる一方で、真夏の蝉時雨よりもずっとうるさい。そして窓枠に手をかけ、下を覗き込もうとしたとき。

「兵長?」

 ナマエの声だった。二階の窓から地面を確かめるのをやめ、振り返れば、ナマエは病室の入口に立っていた。

「来てくださったんですね」

 片脚を引きずるように壁伝いに歩くナマエの元へ行き、手をとる。

「ありがとうございます」
「……お前、どこに行ってた」
「えっと、……トイレに」
「杖を置いてか。ひとりで?」
「……そんなに怖い顔、しないでください」
「てめえが原因だろうが」

 そうですけど。兵長は心配性なんですよ。とぶつぶつ言いながら窓辺へとやって来たナマエが、景色を眺める。その横顔は先月に比べ、わずかに丸みを取り戻していた。また食べられるようになり、体重を増やせているのだろう。

「兵長は? なに見てたんですか?」
「……べつに」
「ふうん」

 どこか納得のいかない様子で二、三度うなずいたナマエのとなりから、改めて地面を確かめる。落ち着いて見てみれば、もし本気で死にたかったら二階ここからは飛び降りないだろうと感じた。とても命を手放せる高さではない。

「くすぐったい」

 風に遊ばれた髪の毛を耳にかけてやると、こそばゆさで持ち上がった肩が笑い声とともに上下する。
 いま、この病室は。病室内だけは、穏やかだ。

「それより……立体機動装置なんて付けて、どうしたんですか?」

 リヴァイに向き直ったナマエが、心底不思議そうに小首をかしげる。

「……身体をなまらせたくなくてな」
「まさか、鍛錬を?」
「ああ」
「ブレードも持って?」
「そうだ」
「どっちも、もういらないのに……」
「……俺にはこのやり方が合ってんだよ」
「そうですか……。でも、危ないことはしないでくださいね。せっかく生き延びたんですから」

 病室に負けない白さの腕が伸ばされ、リヴァイの心臓あたりに手のひらが重なる。

「……お前じゃねえか、心配性は」

 どうにか取り繕わなければと絞りだした返事は、掠れていた。
 
 
 今年、夏の気配もまだなかった頃。ナマエは遠征で負傷した。いまでも歩行訓練をしているほどの大怪我だ。
 だからそのとき、ナマエはだれも助けられなかった。喰われていく仲間たちを見つめているしかなかった。助けてと泣き喚く声を聞きながら、どうすることもできなかったのだ。そうしてナマエは健全な心まで、壁外に落っことしてきてしまった。
 帰還後、ナマエから消えたものは笑顔以外にもたくさんある。寝たきり、会話をせず、まばたきもたいしてしない状態で一日をやり過ごすようになったナマエは、スプーンを無理やり押し込まなければ食事も摂らなかった。水も飲まないし、食べても飲んでも半分以上を吐いてしまう。
 みるみるうちにやせ細り、リヴァイの手を握り返すことも、恋人らしく愛を囁くこともない。微笑みかけることも、名前を呼ぶことすらも。季節ばかりが急ぎ足で、ナマエを、リヴァイを置き去りにして進んだ。
 そして。

「死にたい」

 久々に口を開いたナマエが発したのは、リヴァイを深く傷つける言葉だった。
 身体がうまく動かせない、自分はもう、たぶん、兵士に戻れない、仲間を見殺しにして生き残ったくせに、もう、戦えない、だから、死にたい。
 愛する人に言われるのがどれほどつらいことなのか、リヴァイはこのときまで知らなかったし、なんと言ってやればよかったのかは未だにわかっていない。
 ふざけたことを抜かすな、と。悲しみに身を任せて怒鳴りつければ、ナマエは泣いた。あの日、リヴァイも泣きたかった。お前にまで死なれたら俺はどうすりゃいい。そう大声で言ってやりたかった。泣き疲れて目を閉じたナマエの横で眺めた、無気力に沈む夕陽の色を覚えている。
 翌日、ナマエは目を開けなかった。
 翌々日も。そのまた翌日も眠り続け、本能で生を拒否しているかのようだった。
 リヴァイは兵士長であるために、日がな一日病室にいることは許されなかったが、身体が空けばナマエの元へ通った。寝食の時間も惜しみ、かさかさになっている不健康な唇に何度も触れた。もう二度と話せないような気さえして、罵声を浴びせた自分を責めもした。

「リヴァイ兵長」

 と。数日ぶりに名前を呼ばれた瞬間を、だからリヴァイは、この先一生忘れないだろう。
 そして、目覚めて以降、ナマエの世界は一変した。
 ナマエは信じ込んでいる。人類は天敵に打ち勝ち、平和を取り戻したと。調査兵団はもう戦うことをせず、任務といえば壁の外側を文字どおり調査して、地図の端っこを広げていくことだと。現在兵団にいない仲間たちのほとんどは退団し、帰郷したのだと。
 強いショックを受け、現実を受け止めきれなかったナマエがそれでも生きていくには、記憶を作り替えるほかなかった。
 投薬治療も、行動療法を受けさせることも、カウンセラーをつけることも可能です。ナマエの主治医はナマエと話す前にリヴァイを呼び、そう提案した。しかしリヴァイが下した決断は。
 ナマエには、どのような治療も施さない。
 ナマエが笑うのなら。生きるのなら。ナマエが死を望まないでいられる日々が続くのならば、真実を伝える必要性は、少しもない。
 
 
「兵長」

 リヴァイがはっと顔を上げると、ナマエはいつの間にかベッドへ腰掛けていた。強引に前を向かせるような、強烈なほどの陽射しが室内を明るく照らしている。

「今日、わたし、杖なしで廊下の突き当たりまで行けたんです。って言っても、壁と手すりは使ったけど……」
「……」
「兵長が危険だって怒るのも、わかります。でも早く……もっとしっかり歩けるようになりたくて。それで……壁の外になにがあるのか、自分の目で見たいんです」
「……まあ、そう焦るな。ちゃんと連れてってやる。お前のことなら、どこにでも」
「どこにでも?」
「ああ」

 リヴァイもベッドに腰を下ろし、嬉しそうに微笑むナマエの頬を撫でた。親指で下唇をなぞる。唇は、あんなにかさついていたのが嘘みたいにふっくらとしている。リヴァイが頭を軽く傾けると、ナマエもぎこちなく瞼を瞑った。柔らかなキスを何度も、何度も、繰り返す。
 全部が崩れる日は、きっといつか必ず訪れるのだろう。たとえばリヴァイが死んだ日に。巨人が壁を越えた日に。ナマエが思い出した日に。あるいは防ぎようもないくらいの、些細なきっかけで。

「……好きだ」

 両頬を包むようにしてナマエを見つめる。たったひとりの、愛しい女。

「わたしもです、リヴァイ兵長」

 リヴァイはまだ、ここにいたいと思った。清潔な白と夏の青で染め抜いた、とても優しい病室に。いつまでも、ずっと。ふたりでいられたらいいと思った。





優しい病室





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