20240119
なにしろひどく寒かった。余所行きのワンピースはうすく、手どころか足の指先までもスリッパのなかで冷えている。
台所にかけられた、年号の変わったカレンダーを睨む。今日の日付にはきれいな丸がついていて、下のほうには姉の名前が書き記してあった。母の字で、小さく。そのうえちゃん付けで。
ひさしぶりに姉が帰ってくると聞いたとき、正直憂鬱で、どこかへ旅行にでも行こうかと思った。
それでも私がこうして実家にとどまり、姉のためにお茶を作っておき、姉が挨拶に連れてくるらしい男のためにきちんとしたワンピースをまとったのは、旅行するには外が寒すぎたせいでもあるし、姉の名前を書きこむ瞬間の母を想像するとどうにもいたたまれなくなるからでもあった。
「そんな顔しないの」
カレンダーの前でじっとしていると、いつもよりめかしこんだ母がこちらを覗いて言った。唇はブラウンレッドのルージュ。母ははりきるとき、必ずこの色を選ぶ。死んだ父が好んでいた色だ。
「だって……お姉ちゃん、何年も連絡なかったのに。いきなり彼氏連れてくるって言われても」
「そうねえ」
困ったふうに首をかしげる母は、でも嬉しそうに見える。十代のころにグレて家出を繰り返し、やがて帰ってこなくなった姉の、久々の帰りを喜んでいるんだろう。実は長く付き合っていた人がいる、結婚も視野に入れている、という、聞きたての近況報告についても。
私が姉と最後にちゃんと話したのは、いつだっただろう。記憶を辿ってもすぐには浮かばない。いまはお互いに連絡先を知らないくらいの仲だ。それこそ昔は、仲良し姉妹だなんて言われていたけど。
姉の恋人はどんな人なのか、なんという名前なのか、あれこれ想像しながら話す母を横目に、クッキーをかじった。うちに置けばちょっと浮いてしまうくらい、豪華なデコレイトがされた缶に入っている、バタークッキー。今日のために寄ったパティスリーで、自分たち用にとめずらしく母が買ってきたもの。つまむならせめて座りなさいと怒られ、イスを引く。
「お母さんね、てっきりあなたのほうが先に結婚すると思ってたのよ」
缶に手が伸びた。目の前に腰をおろした母の、ピンクがかった白い肌、骨の浮いた甲が。老いた左手薬指にはいまも指輪がはまっている。指輪はぴかぴかで、そこだけ時が止まっているようだった。
クッキー入りの袋がひとつ、ぴりと裂かれる。母の手もとの、透明の包装を、見るともなく見る。
「あなたも、一時期帰ってこなくなったことがあったでしょう。当時お付き合いしていた人だかと、一緒に住むって連絡をよこしたっきり」
急に、口のなかが乾いた。お酒を呷るみたいに水のコップを傾ける。砂糖の甘さが流されて消えていく。
私の話をする母の傍ら、脳内で当時のことを考えた。実家に帰らなくなっていた時期のこと。初めてだれかを心底愛し、愛されたと感じ、他にはなにもいらないと盲目になる恋愛をしていたころ。
あのころの毎日は、真夏の夜みたいだった。辺りがいつまでも明るいから、夜の訪れに気がつかないような。闇が深くなってようやく立ち止まったときには、すでに、どこもかしこも真っ暗で、帰り道がわからなくなっているような。迷子だと自覚したときには手遅れで、じっとりとまとわりつく熱に体力も気力も奪われていくような。私は昔、そんな恋愛をしていた。
俺にはナマエだけだ
元彼の声が海馬に反響する。記憶は洪水になってあふれ、背筋をヒンヤリと撫でていく。
ずっと寂しくてな
彼はベッドのなかで、ときどき昔話をした。父親の顔を知らないだとか、母親も、彼が幼いときに病に倒れたとか。そこからは児童養護施設を行ったり来たりして、しばらくのあと伯父に引き取られたものの、その伯父さんも亡くなってしまった。そうして、長らく独りだったんだとか。
寂しくて……どうにかなりそうだった
彼はそう言った。私を腕のなかに閉じこめて、何度も、何度も、そう言った。私もだから、傍にいてあげたいと感じたし、離れたくなかったし、もう独りにはさせたくなかった。運命の人に出逢ったと、信じていた。
「それにしてもねえ。お姉ちゃんが、結婚を前提にだれかとお付き合いするだなんて」母は再び、姉の話に戻る。「いつまでも子供だと思っていたのに……お父さんが聞いたら、泣いちゃうわね」
ルージュをのせた唇が弧をえがいた。私も、小さく微笑んでみせる。
そういえば、姉が門限をやぶるようになったのは。不真面目な年上の人たちとつるむようになったのは、父が死んでからだったかもしれない。
チャイムが鳴った。そわそわと落ち着かない母は、音を聞くなり駆けていった。タップダンスでもするように、スリッパが元気に床をたたく。
私は客室へ様変わりした茶の間で彼らを待った。慣れない正座のせいか、うすっぺらでつぶれた座布団のせいだろうか、足はもう、しびれている。
「さあ、どうぞ」
障子がひらく。顔をあげれば、母に促されて入ってきたのはTシャツにデニムという、どこか場違いにラフな恰好の姉。そしてその後ろには、糊のきいたスーツを着込んだ男性が──。
その男と、視線が絡んだ。
とたんに、息が、詰まっていく。
陽に透かしたビー玉みたいな、青灰の瞳から、目を逸らせなくなる。いきなりひどい耳鳴りに襲われる。周りの音がぼやける。母がなにか言っている。姉もなにかを、だけど全部、耳鳴りにかき消されて、内容まで聞き取れない。
彼も私から目を逸らさなかった。かすかに湾曲する下まぶた。私はこの笑顔を知っている。口角を片方だけ上げて、見下すようにせせら笑う冷たい顔を、意識や身体の深くで憶えていた。
彼が。
「改めまして……娘さんとお付き合いさせていただいている、リヴァイ・アッカーマンと申します」
昔、付き合っていた男が──リヴァイが、怒っているときにのみ見せた笑顔だ。
「なんで、」
「初めまして」
なんでここにいるの。母へ挨拶を重ねたリヴァイに尋ねかけたものの、彼はにこやかに言葉をかぶせた。
さっきまで見せていた表情はすでにない。好青年、良い人、ウラオモテがない、とか、そんなふうに形容するのがしっくりくるような面差しをいまはしている。
「リヴァイさん、こっち」
姉がリヴァイの腕に絡みついた。すかさずたしなめる母と、気ままな姉に穏やかなまなざしを向けるリヴァイと。私だけがまばたきもできないまま。
「お茶をお願い」
手土産を受け取る母が、横で囁いた。かすれた喉で返事をして席を立つ。
と、畳がぐにゃりと沈んだ。おもわず転びそうになり、慌てる。水面に浮かべたシーツの上を歩くみたいだったから、びっくりして足もとを確かめてみるけれど、畳はなんともない。
いまのは、ただの気のせいだった? 加えてだれも私を注意しない。転びそうになったのさえも、錯覚だったのだろうか。……耳鳴りがうるさい。夏の蝉時雨みたいに、とにかく煩くて、逃げるように台所へと向かった。
お茶もお茶菓子も用意できないまましゃがみこむ。胃がキリキリと痛み、身体じゅう冷えていた。汗をびっしりかいた手を、胸の前で重ねて握りしめる。
「なんで……リヴァイが」
なんでお姉ちゃんと。なんでうちに挨拶に。なんで。
頭のなかで延々と考えてみても、偶然だという以外に説明のしようがなかった。だけどそんなの、いくらなんでも出来過ぎている。それにリヴァイは、数年ぶりの再会にすこしも驚いたふうではなかった。まさか、という猜疑心とともに悪寒が走っていく。
でも──。
リヴァイさん
彼を見つめる姉は、私の知らないだれかみたいだった。いまの生活にどれだけ満たされているのかが、一目瞭然のオーラをまとっていた。人はこうも雰囲気を変えられるものなのかと感心してしまうほど。
姉に応えるリヴァイも、昔とはなにもかもが違って見えた。目の下のくまは相変わらず濃いけれど、眼光の鋭さはなかったし。憑きものが落ちたようにやわらかく、毒気も翳りも皆無だった。
もしかしたら、姉も、リヴァイも。お互いがお互いに出逢ったことで、変わったんだろうか。ふたりでいることで、でこぼこした道でも上手く歩いていけるようになったんだろうか。彼らは絶対的な幸せを手に入れたんだろうか。
そう考えると、リヴァイが初対面を装ったのにも納得がいく。きっと、姉との日々を壊したくないのだ。この先の未来を。
……本当に?
好きだった仕事を辞めさせられたり、電話帳からリヴァイ以外の連絡先を消されたり、位置情報アプリを無理やり入れられたり、居場所を監視されるようになったり、浮気を疑われて責められたり、外に出してもらえなくなったりした過去が、思い返される。
それらすべてに耐えられていたのも、愛してるのひとことで許せていたのも、当時の私がリヴァイに溺れていたからだ。
あれは恋ではなく依存だったのだろうと、いまは思う。そしてリヴァイから向けられていたのも、愛なんかじゃなく。
きっとただの、執着だった。
「ちょっと。大丈夫?」
声をかけられてはっとした。振り仰ぐと、姉が。遅いよ、みんな待ってるのに、そう言われて腕時計を確認する。でもどのくらいしゃがんでいたか、はっきりとはしない。
「手伝う。どいて」
「うん……」
「お母さんがさぁ」茶器をとり出す姉の指にも、指輪がはまっている。「彼に泊まっていったら? って。会ってまだ間もないのに。外、雪になりそうだからとか言ってね。いくらなんでも、急すぎ……」
「だめ!」
「へ?」
「泊まりなんて、絶対だめ」
「もちろん止めたって。急に怒らないでよ」
姉は呆れたようにつぶやいて、運び盆にカップなどをのせていく。私は真隣を向き、静かに問いかける。
「お姉ちゃん」
「なに」
「あの人、に……束縛されてない? へ、部屋に、とじこめられたりしてない? 脅されて挨拶に来たんじゃないの?」
「はぁ?」
「避妊は? してくれてる? ピ、ピル飲んだら叱られたり、してない……?!」
「やめてよ」
ぴしゃりと放たれ、口を閉じる。
「ナマエに紹介もまだなのに、なんなのよ。彼がそんなことする人に見えた? そもそもあたしが、そんなことされてキレないわけないでしょう」
たしかに姉は、男の言いなりになるような人じゃない。けどそれを言えば私だってそうだった。尽くすタイプですらなく。なのに気づいたときにはリヴァイから離れられなくなっていた。
「だいたいね。リヴァイさん、EDなのよ。だからアンタが心配するようなことはなにひとつされてない」
「……ED?」
「そ。勃たないの。もちろん、いろいろ試したよ? AV観たり、オモチャ使ったり。でも全然」
「……お姉ちゃんは、それでもいいの?」
「当然よ。セックスがすべてじゃないじゃない。まあ、あたし愛されてないのかなぁ、って疑ったこともあるけど。喧嘩したこともあるし」
「……」
「あたしは身体で男を繋ぎ止めるような恋愛しかしたことなかったから。勃たないのは愛してないのと同じだ、ってモヤモヤしてたけど、裏を返せばセックスがなくても構わないってことでしょ。それって本物の愛っていうか。って……あたしなに話してるんだろうね」
本物の愛。
そこだけがやけにくっきりとした輪郭を持ち、鼓膜にはりつく。
「とにかくいまは、すごく幸せなのよ。彼氏が勃たないのなんて、たいした問題じゃないの」
姉の、マスカラで伸びたまつげが、伏せられた。長い間見ていなかった安らかな顔だった。そうだ。父が生きていたころは、こんなふうに穏やかに微笑む女だった。
「ごめんね」
なにも言えないでいると、ふいに抱きしめられる。
「アンタにも、つらい思いさせてきたよね。あたし、お姉ちゃん失格だった。でも、あたし、またやり直したいの。アンタとお母さんと、三人で。そこに彼が入ってくれたら最強だよ」
リヴァイさん、言ってくれてるの。ここに住んでもいいって。女だけで暮らしてるのはなにかと不用心だからって。彼、本当に優しいのよ。あのね、リヴァイさんのご両親も、リヴァイさんがちっちゃいころに離婚してるんだって。だからあったかい家庭を築きたいねって。ふたりでよく話しててさぁ──。
大好きだったころのお姉ちゃん、の声が、とても近くで響いている。
何度も焦がれた、あたたかい家庭を取り戻す寸前まできているのがわかった。自分が一歩踏み出せば、優しい世界への敷居を跨げる。それがわかっている。
にもかかわらず身体は動かなかった。姉を抱き返すことができない。なんだかひどく暑い。汗が、止まらない、景色が歪む。まるで真夏の熱帯夜に見る、悪夢のなかにいるみたい。
彼氏さんにはお詫びしておいて、もうすこししたら行くから、と伝え置き、洗面所へ閉じこもった。大きな鏡にうつる女は蒼白だ。こんな表情で戻るわけにはいかないけど、うまく取り繕うことができない。洗面台に両手をつき、うつむくと、真っ黒い排水溝が目にとまる。
「リヴァイ……」
彼とは、傍にいるといつでも苦しかった。なのに離れているともっと苦しくて仕方なかった。だから別れるのにも、半年以上を要した。どこまでも追ってくるような男から、逃げるようにしてどうにか別れたというのに、こんなところで再会してしまうなんて。
そのとき。
ゆっくり、背後の扉がひらいた。母か姉が呼びにきたのだと思い、顔をあげれば。
「おっと。手洗いを借りたつもりだったが……ここは風呂場か。間違えちまった」
三面鏡にうつりこむのはぴしっとしたスーツ。
リヴァイだった。
「ひさしぶりだな、ナマエ。四年……いや、五年ぶりか?」
「こ、こないで」
とっさに振り向き威嚇する。けれど逃げ場はない。後ずさりしてみたって、腿が洗面台に押し当たるだけ。
「やっと会えた」
目の前で。至近距離までやって来たリヴァイが、片方の口角を歪め、嗤った。身体の両脇を挟むように手をつかれてしまえば、私は一ミリたりとも動けない。
「っ、」
おへその下から、みぞおちのほうを撫で上げられて肩に変な力が入る。お腹をさわられるとぞくぞくして、悔しくて唇をかんだ。
「何人とやった」
「え……?」
「俺から逃げたあと……お前、ここに何人のをはめた」
「っやめて!」
反射的に胸ぐらを突き返し、大声を出せば、口もとに当てられる手のひら。腰を抱かれ、しい……と耳へ囁かれる。
「……静かにしてろ。ぴいぴい喚いたらお前の家族が来ちまうだろうが。こうやってんのを見せつけてえなら、構わねえが……」
かなり近いところにあるリヴァイの顔つきは窺えない。黒目を動かしても、見えるのなんて彼の襟首や肩くらいだ。
スラックスの片足が、私の膝下を割るみたいに差しこまれる。同時に耳たぶを軽く噛まれてぎゅっと目をつぶった。リヴァイとの行為を憶えている身体。甘いしびれを感じることに、どうしようもなく自己嫌悪する。
「……会いたかった」
「……」
「会いたかった、ずっと……俺はナマエのことばかり……毎日、毎日毎日毎日……考えてたんだ、気が狂いそうだった、」
「ふ、ぅ……」
ぴちゃ、と濡れた音が耳孔を埋め、それはすぐさま熱をはらんだ吐息になっていく。腰を這い上がってきたリヴァイの手に、うなじを掴まれる。冷たい指が、ネックレスと肌の間を、なぞる。
「そのうち……ナマエのことを考えてるうちに、お前とちゃんとした家族になる方法を、見つけ出してな……。お前に姉貴がいてよかった、」
きつく閉じたままの目の、きわに涙が滲んだ。
──私は。
私は、自分の人生を完璧にしたかった。私にも救えるなにかがあると思いたかった。父が死んで、切れた電球が長らく放置されるようになった家や、笑い声の数だけおかずが減った食卓を見ていたから。唇に同じ色しか乗せなくなった母や、自分を傷つけるみたいにいろんな男と寝るようになった姉を、傍で見続けていたから。私にもだれかを幸せにする力があるはずだと思っていた。思わなければやっていられなかった。そんなときに出逢ったのが、リヴァイだった。
「これでようやく……ずっと一緒にいられる」
私は幸せになりたかった。
完璧な人生を送りたかった。
姉が連れてくるという男のために選んだ、余所行きの、長袖のワンピースは堅苦しくて、息がしづらい。不快な熱度に眩暈をおぼえる。
そんな私の耳もとで、彼は言うのだ。
「なあ、もう二度と、逃がしてやらねえからな……ナマエ」
ひどく幸せそうに、言うのだった。