20240113
冬真っ只中だということを忘れるくらい、談話室はあたかかった。自室の暖炉は使用可能な時間が定められているけれど、ここのは違う。だれかひとりでも兵がいれば、一日中燃やしていたっていい。冬の談話室は、だからいつでも賑やかしい。
私は窓辺で、本を読んでいた。かすかな冷気が送り込まれるから、唯一といっていいほど常に空いてる場所。読書するのには適している席だ。
その、はずなのに。内容が全然入ってこない。私の両目は、知らない男女の恋愛物語の上をあっけなくすべっていってしまう。壮絶なくらいの、大恋愛の上を。
兵士たちのあいだでも、街でも流行っているらしい恋愛小説を閉じる。一枚では軽い紙も、束になれば急に重さを変える。なかのふたりが、積み重ねた想いのように。
これが学術書であればよかった。そうであれば集中できたし、そしてきっと理解もできた。
勉強や訓練なんかは楽でいい。あらかじめ決まっている答えがあるから、変に悩む必要がない。でも、ひとたび色恋沙汰が関わってくると、私はてんでだめになってしまう。だってなにもわからない。食堂や浴場での女子トーク中も、へえ、とかふうん、とかそうなんだ、とかを発するだけのかたまりになる。ナマエは? なんて話を振られてしまえばいつでも困り果てた。
そもそも、私はだれかに恋をしたことすらない。
傍らの窓を眺める。真っ白な外を。空からは、同じ色をさせた雪が降っている。それはなんだか、空が欠けていくみたいだった。もしも雪景色に感動し、綺麗だと心を震わせるような感受性を持ち合わせていたなら、私ももっと早くに恋を知っただろうか。
もう一度、試しに本を開く。
どうしてそこでハイと言わないのか、イイエと言ってしまうのか。男女のやりとりに悶々としながら読み進めていくと、やっぱり予想どおり、ふたりはすれ違った。心ではうなずきたいのにうなずけない、そんな不条理が単なる強がりから次々と生まれるさまに耐えきれなくなり、再び表紙を閉じかけたとき。
「リヴァイ兵長」
ひょい、と真横から本を取られ、つられるように顔を上げれば上官が立っていた。分厚くて重いそれを、兵長はつまみあげるみたくして持っている。どこらへんを読んでいるのだろう、と、なかなか返してくれない横顔を見上げながら思った。
「なにを読んでるのかと思えば。お前もこれか」
つぶやきながらも隣へ腰を下ろした兵長からは、冬の外のにおいがした。兵舎に戻ってきたばっかりなのかもしれない。
返ってきた本の、皮表紙をひと撫でする。
「今、流行していますよね」
「らしいな。こないだも俺、の、……俺の班の奴らも。全員揃って読み終わったと抜かしやがる」
合間に途切れた言葉は、ぎこちなく文脈を変えた。本当に言いたかったことは、わからないまま。
「リヴァイ兵長は、お読みになりました?」
「お前も冗談を覚えたか」
「え?」
「読むわけねえだろ、俺が」
返事の代わりに肩をすくめた。
リヴァイ兵長とはこんなふうに、よくお喋りする。自身の補佐官である女性と私の背格好がとても似ているという理由で、以前しょっちゅう間違われていたことをきっかけに、言葉を交わすようになった。たしかに補佐官と私はそっくりだ。周囲にも双子みたいだと驚かれるくらいに。
でもリヴァイ兵長はいつからか、間違えて声をかけるということをしなくなった。補佐官と私のあいだにある明確な差を、見つけだしたのだろう。
テーブルに寝そべる本を見下ろす。
「どうして人は、だれかを好きになるのでしょうか」
「……あ?」
「人を恋愛感情から愛して、なにか得があるのでしょうか」
ぱちぱちと、遠くの暖炉で火が爆ぜている。そんな些細な音も拾えるほどに人が減ったのだと、思い至る。
「得なんざ、ひとつもありゃしねえ」
火種に負けないくらい小さな声。隣を見やれば、兵長も、本の表紙を見下ろしている。だから目は、合わない。
「あんなもん、不要な感情だ」
言って、表紙をさわった兵長の手と、私の手が、一瞬触れ合った。けれどおそらくリヴァイ兵長は、そのことに気がつかなかった。兵長は今、本ではなく、もっと別のなにかを見つめている。なんとなくそんな気がした。
「それでもいいと、思ってしまうのが愛ですか?」
「……どうだろうな」
「リヴァイ兵長。私、恋をしてみたいです」
ブルーグレイの瞳がやっと私を映した。
「だれかと恋愛してみたい。擬似でもいいから……なんて言ったら叱られるかもしれませんが。私、人に恋愛感情を抱いたことが一回もないんです」
すべてを穿つような、鋭い目つきに見澄まされる。試されているのがわかる。けれど私は、なにも、答えなかった。
「したいっつってできるもんじゃねえだろ」
兵長は嘆息ともとれる息を吐き、立ち上がる。やっぱり、こうなるのも初めから読めていた。じゃあ俺としてみるか、などと提案してくるような人ではない。
「だが……」
手もとの本を、また抜き取られる。
「まあ、俺が教えてやれることなら、教えてやってもいい」
「っ」
す、と頬を撫でられて、初めてのことに息を詰めた。男の人の指先は、とても乾いている。兵長が、来い、と踵を返した。直前、わずかに苦しそうな顔をしたように見えた。
追いかけるように立ち上がる。と、北風が窓を激しく吹きつけて、反射的に振り返った。偶然にも、外を行くエルヴィン団長を視界に捉える。団長は、ロングコートを羽織っている。リヴァイ兵長が冬のにおいをまとっていたわけがはっきりした。弔問帰りだったのだろう。エルヴィン団長が、そうなように。
うっかり呆けていれば、兵長の姿はすでになく。見回すと、入口で待っていた。急いで向かい、暖かい談話室をあとにする。途端に肌を刺すような寒さに襲われて、丸めた手のひらへ息を吹きかけた。
話に乗ってくれるなんてと、ぼんやり考えつつも背中を追う。そのうちにふと、兵長の隣が空っぽだと気づいた。横にいつもあった、ひと回り小さな背中がない。そういえば、前回の。冬目前の壁外調査以降、補佐官を見ていない。
雪空の下、冷えた石造りの廊下を歩く。目の前では、ひとり分の双翼だけが不安定に揺れていた。