20231122







 木の棚、木の箱に樽やイス。倉庫には常に、新鮮な木材のにおいが充満している。それがうねるように揺らいだのは、真後ろから腕が伸びてきたせいだった。わたしが手を伸ばすのとほぼ同時に、顔の横を茶色い兵団ジャケットの袖が通っていく。そうしてたったいまわたしが取ろうとしていたネジ入りの小箱を押さえつけた。手のひらが隔たりとなってしまい、箱はもう、抜き取れそうにない。

「……ナマエ。ここにいやがったのか」

 どこにもいねえと思ったら。耳もとで囁く声はやわらかい。午後の陽射しだけがゆるやかに射し込むほこりっぽい倉庫とは、不釣り合いなほど清潔だった。
 振り向けば、視界が翳る。こっちを覗きこんでくるようにした兵長の、唇が重なったのだった。だから名前を呼べなかったし、箱を取れないことへの文句も吐き出せなかった。小脇にはさんでいた資料たちを落とさないことには、成功したものの。

「こんなところでしないでください」

 くちづけの終わりを待たずに顔を背ける。唇は、当然離れる。あっけなく。

「こんなところ、じゃなけりゃいいのか。覚えておく」
「そういう意味じゃなくて」

 今度こそちゃんと振り返り、棚を背にして上官を睨めつけた。でもリヴァイ兵長は表情を変えない。ただ腰に片手を当て、だるそうに重心を傾けて立つ。

「だれかに見られたらどうするんですか」

 いまは周囲にほかの人影がないから、盗み見られる心配もないけれど。とはいえリヴァイ兵長は兵士長で、わたしは部下で。規律を重んじる兵団組織のなか、厳格さは重要なものとして位置づけられるはずだ。幹部であるなら尚のこと。ふたりでこんなふうにいるのを見られたら、兵長の威厳に障る。

「見せときゃいいだろ。減るもんでもない」
「だめですよ!!」
「……相変わらずそこらの石っころといい勝負だな、てめえのそのクソ硬ぇアタマは……」
「あたりまえのことを言っているだけです」

 なんて不満げな顔を作ってみせても、なにも知らないふりで眉を上げるだけの彼は悪質だ。

「俺が、柔軟さってのを教えてやってもいい」
「あっ」

 持っていた資料を奪われ、ついでに腰を抱きとめられ。股下には足が割りこんだ。リヴァイ兵長はそのまま片腕を棚につく。わたしの頭の真横に、ひじから指先、すべてを張りつけるみたいにして。息苦しいくらいの閉塞感に囚われれば、自分の落ち着きのない心音が辺りににじむようだった。

「やめてくださいって言ってるのに。わたしをからかうのが、そんなに楽しいですか」

 精一杯の、だけどどこか情けなくて貧相な憎まれ口に、兵長がはたと静止する。

「からかう? 俺がいつお前を虐めた」
「いまだって」
「からかってるつもりなんざねえ。むしろ、いいようにあしらわれてるのは俺のほうだろう」
「そんなこと」
「ない、ってか。自分の男をほっぽって、四六時中仕事してる奴が言えたセリフじゃねえと思うが」
「放ってなんかいません」
「……よく言う。お前が俺に会いにくるのなんて、せいぜい書類にサインが欲しいときくらいだろ。夜も、こっちが呼ばねえと来やしねえしな……そんなんで俺が満足すると思うか?」
「それは……」

 所在なく視線をさまよわせる。放っているつもりは本当にないけれど、起きてる時間のほぼすべてを執務に費やしているのは事実だから。

「オマケにてめぇは、こうやって朝昼に構うのをやめろと喚きやがる。俺の立場がどうのこうの、クソみてえに長い説教までかましてな」
「う……」

 だいたい、と言葉が続いた。いつも以上におしゃべりな口から繰り出される苦情は、減速しない。

「自分の女を構うことのなにが悪い」
「悪くはない、ですね……」
「そうだろうが」
「はい……じゃなくて!」

 頭を傾け、まぶたを半分おろしていた兵長と鼻先同士がぶつかったタイミングで、胸ぐらを押し返した。危ない。流されてしまうところだった。
 リヴァイ兵長は薄くひらいていた唇をそのままにして、青灰の瞳だけを動かしてみせた。あんまりにも距離が近い。頬の線が、陽射しにぼやけている。

「チッ……」

 のろのろと離れていったかと思えば。斜め下あたりを見下ろしながらも兵長は、舌打ちした。さっき奪われた資料はいつの間にか消えていて、きっとわたしの後ろの棚に置いたんだろう、と、よそごとみたいに思った。

「むやみやたらな接触は避けるべきです」

 そう突き返すと、リヴァイ兵長は沈黙のあとでささやかなため息をひとつ。そして顔を伏せ、両目の目頭に指を当てた。
 途端、大きな不安が芽生える。こんなに生真面目な女、つまらないと見限られてしまうだろうか。もっとほかにいい人がいると。

「兵長、あの」
「わかった」
「違うんです」
「いやいい」
「聞いてください、わたしも、兵長としたくないわけじゃなくて」

 愛想をつかされたらどうしよう。呆れられたら。
 いまさらになって恐ろしくなり、いっぱいいっぱいに訴えれば、うつむき加減でいる兵長がゆっくりと視線を上げた。無言のなかで見つめ合うと、どうしようもなく追い詰められてしまう。

「嫌いにならないで」

 両手で顔を覆い、そんな、子供じみたことしか言えないほどに。
 男にうつつを抜かさない、恋愛感情に振り回されない、兵士としての本分に努める。そう誓って生きてきた自分の、いうなればアイデンティティみたいなものが揺らぐ。

「嫌いになるな、だと?」

 手首を取られて、目の前がひらけた。

「そんなん、俺が言いたい」

 次の瞬間には困惑した。常々支配的な、もしくは動物的ともいえる強さを湛える兵長のまなざしが、いまは少し、弱々しく映ったからだ。

「わたしが兵長を嫌いになるはずないじゃないですか」
「どうだかな」

 首もとに腕がまわり、ぐい、と抱き寄せられる。されるがままになってしまうのは、抱きしめるというより、寄りかかるような体勢であるためだった。リヴァイ兵長にすべてを預けられているのがわかる。この人はひとりでも立てるのに。強くまっすぐ、立てるのに。小さな呼吸のリズムが聴こえる。鼓膜のすぐ傍で。

「……心配にもなるだろうが。俺ばっかりが毎度毎度、お前を欲しがってたら」

 声色に、いつもの余裕などはない。
 ここで初めて、わたしは自身の言動を省みた。付き合いだしてからずっと、かたくなに拒んできた態度を。
 わたしは。いままで兵長に触れられるたび、ああ嫌だな、と感じていた。お互いが持ちうる隙間を盗み、人の目をも盗んで交わすキスを覚えてしまうのは嫌だ。寂しくない夜に慣れてしまうのは嫌だった。ひとくち食べればさらに食べたくなるのとおんなじで、我慢が効かなくなるのが怖い。
 もっともっとと欲しても、兵長との時間はいつだってティースプーンひとさじぶんにも満たないし、明日も明後日もともにいられるかどうかなんてわからないんだから。
 でもそれは、独り善がりな悩みだったのかもしれない。恋愛は、ひとりではけっしてできないということを忘れていた。

「欲しがってるのは、わたしも一緒です」

 兵長の、背に腕をまわしてみる。さらにきつく抱き寄せられると、ちょっと苦しい。
 また鼻先をぶつける距離に戻った。下唇をなぞられて、粘膜からかすかな水音がしたのがはっきりと耳に届く。
 目をとじた。
 くちづけも、ひとりではできない。角度が変わるごと、深くなるごとに、甘くからまった。じわ、と視界までもがにじむ感覚をおぼえる。陽光に当てられて暗い赤色に見える、まぶたの裏側が。

「……前言撤回だ」
「え?」

 唐突に、短く、低い声が響いて瞳を開ける。訝りながらも兵長を見つめると。

「見せてやる気がなくなった。こんなツラしたお前のことは……ほかのだれにもな」

 唇が、もう一度重なった。
 この瞬間。わたしのなかに、なんでもない日常に、リヴァイ兵長の存在がたしかに加わってしまったと思った。もう二度とは元の自分に戻れなくなってしまったと。冬目前の、秋がふんだんに溶けだす昼間のことだった。





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