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ソファに腰を下ろすと、まずスマートフォンを確かめた。けれどナマエからの連絡はなく、リヴァイが送ったメッセージも未読のままだ。
画面をスクロールする。軽く遡ってみれば、今どこにいるのか、誰といるのか、何をしてるのか、リヴァイはそれらばかりをナマエに訊いていた。私そんなに信用ない? と落ち込まれたこともあるが、こんなもんだろうと思う。普通だ。心配性な男なら、これぐらい。
動きのないトーク履歴を閉じる。電子タバコに手を伸ばすも充電切れに気がつき、足もとに転がる仕事用の鞄を漁ると、充電ケーブルより先に見つかったのは紙タバコだった。ボックスのふたを開ける。中身は数本。安っぽい蛍光ピンクのライターもちゃんとある。リヴァイは迷わずローテーブルの上の灰皿を、端ギリギリまで引き寄せた。
有害な味が肺までを通っていけば、あからさまな充足感に満たされる。喉にも身体にも悪いから辞めろと言われ続けているし、自分でも思ってはいるものの、完全には断ち切れない。
ソファにだらりと背を凭れ、広い天井へ紫煙を吐く。余るほどのスペースがあるこの自宅マンションは、NO NAMEのヴォーカル、Lとしての活動が功を奏したから手に入ったものだ。
羨ましい。たびたび浴びる言葉が脳裏をよぎる。過去に一度、NO NAMEのL、とエゴサーチしたときもそのワードは散見された。なんでも持ってるんだろうな。Lになりたい。どんな暮らししてんだろ。歌ってるだけで女が寄ってくるとか最強じゃん。Lって凡人みたいな悩みなさそう。人生イージーモードすぎる。いいなあ。いいなあ。羨ましい。
体内に溜まった澱を出す気持ちで、リヴァイはまた煙を吐いた。遠くで空気清浄機が音をたてている。静まりかえった部屋に響くのは、それだけ。
隣にナマエがいなくては、広い家などただの空白だ。リヴァイひとりの人生に於いてはまったくもって意味を成さない。轟く名声も、羨望の的となる生活も、数多の高級品も巨額の富も、天が授けた歌声でさえも。
――貴方は依存体質をどうにかすべきだよ。
ふと、メンバーの忠告を思い出す。
――タバコもそうだけど。私が言いたいのは、ナマエのこと。恋人が可愛いのは理解できるよ。でもさ、リヴァイ。ナマエのこととなると周りが見えなくなる癖は治したほうがいい。貴方自身のためにも……ナマエのためにも。
「あいつの、ため……」
リヴァイの独り言は、けむに巻かれて消えた。
手持ち無沙汰な時間が流れていく。スマホを確かめて、ブラックのワンカラーに染まった爪を見て、吸殻を捨てて、再びスマホを確かめて、ナマエに発信しようとして、やめて、メモを立ち上げて、仕事のアタマに切り替える努力をした。けれど結局歌詞のひとつも浮かばず、ライターを無闇にいじる。
そうしてぼんやり、二本目に火をつけるかどうか思案していると。廊下からかすかな音が聞こえたので、リヴァイはすかさず立ち上がった。
「遅かったな」
ダウンライトで照る、細く長い廊下。帰宅直後の恋人を出迎える。
「リヴァイ……帰ってきてたんだ」
「連絡入れといたろ」
今日帰国することも、家に着いたことも。早く会いたい、ということも。
「あ、あれ、うそ、気づかなかった……。MV撮影、だったんだよね。どうだった?」
言いながら、横を通り抜けていくナマエの肌はうっすら赤い。
「飲んできたのか」
「……ちょっとだけ」
「どこで」
「職場の近く」
「誰と。男もいたのか?」
バッグを置いたり、上着を脱いだりと、慌ただしい後ろ姿を追いかけて訊ねる。洗面室へ入ったナマエがバスタオルを取り出そうとしたところで腕を掴み、振り向かせた。
「オイ。風呂の前に話だろうが」
「……先に入りたい。メイクも落としたいし……」
「ダメだ。あとにしろ」
ためらいがちにではありつつ、ナマエはうなずき、出ていった。廊下へ続くドアが閉まる。洗面室も広い。その中でナマエを感じられるものは、とても少ない。
リヴァイがリビングに戻れば、ナマエはキッチンシンクの前でグラスを傾けていた。酔い醒ましの水、だろうか。リヴァイもカウンターを挟むようにして立つ。
「なあ、どっか行くときは連絡するって約束だったよな。なんで守らない」
「……うっかり、してて」
「誰と飲んでた」
「部下と」
「何人で?」
「……二、三人、くらい」
曖昧な返答に眉間が寄った。
本当はこのまま、仕事なんか明日にでも辞めちまえと詰め寄りたい。けれどやり甲斐を見出し、金のために働いているのではないと常々主張するナマエへ切り出しても、うやむやになって終わるだけだ。いつもみたいに。
空いたグラスを、ナマエがシンクへ置く。と同時、カウンターにあったスマホが断続的に振動した。ナマエのものだ。画面は暗いので、着信ではないらしい。
「鳴ってるぞ」
「……うん」
恋人が浮かべた一瞬の戸惑いを、リヴァイは見逃さなかった。スマホを取り、差し出す。
「見ろ。今すぐ」
「あとで見る……」
「俺の前じゃ見られないか?」
「そういうわけじゃ、」
「男だろ」
「……ちがう」
「てめぇはわかりやすすぎんだよ、よくそんなんで浮気しようなんざ思えるな」
「浮気なんかしてない!」
「だったら見せろ」
「……え?」
「見せてみろ、届いてるモン」
「……や、やだ。……人とのやりとり、見せたくない」
ナマエはスマホを受け取りもしない。短く息をつき、リヴァイは飛んでくる制止も無視して画面をタップした。01225。ロックは解除されない。再度、打ち込んでみても。
全身が重たく沈んでいくようだった。だってナマエは昔、言ったのに。
パス、リヴァイの誕生日にしてるんだ。ゼロイチニーニーゴ
笑って、そのあとで、恥ずかしそうにして。
ふたり分の沈黙が耳に痛い。犯した罪が露呈した罪人のような表情で、ナマエはリヴァイを見つめていた。
タバコが吸いたい。飢餓感に襲われ、スマホを持ったままソファへと戻るとリヴァイは緩慢な動作で二本目を咥え、火をつけた。ライターを乱雑に放る。ガシャン。弾かれたガラステーブルが鋭く耳障りな音を出す。胸のあたりに亀裂が入る音と、そっくりだ。
飢えはおさまらない。煙で渇きは満たされない。足りない。
青灰の眼がきろりと動き、立ち尽くす女を捉える。
「来い。……早く」
命令のような口調になったせいだろう、恐る恐る寄ってきたナマエを抱きかかえるように、自分の前に座らせた。後ろから抱き締めてやり、やわらかな首筋に口づける。そしてリヴァイはナマエの肩越しに、ナマエのスマホを、ナマエとともに、見下ろした。
「パスは?」
耳もとへささやけば、腕の中の身体が硬直する。返事はない。
「どうした? 聞こえなかったか……?」
なおも無反応なナマエの耳に、ひたりと唇を張りつけ、
「パス教えろ、っつったんだよ」
「っ、」
「ほら、言え。言わねえと怒るぞ……」
鼓膜に直接吹き込んだ。
ハチ、ヨン、ゴ、とようやく挙げられた数字でロックを解き、通知を開く。
先輩、さっきはありがとうございました、からはじまるメッセージは、俺の話ばっかですみません、でも相談乗ってもらえて助かりました、よければ今度また飯行きませんか、今日の礼もしたいし、と続いていた。
「リヴァイ……!」
もがくナマエも意に介さず、リヴァイはメッセージ相手に発信する。しかし待てども応答は一向になく、スマホをソファに投げると、焦ったように言い訳を並べるナマエのうなじにひたいを伏せた。
脳内が凪いでいる。苛立ちもない。今思考を占めるのは、知らない男の名前だったな、ということのみ。力が抜けた片手の先、いつの間にか火の尽きたタバコから、灰がこぼれるのを見る。
「や……っ」
次の瞬間、リヴァイはナマエを押し倒していた。馬乗りになり、両手で首を鷲掴めばタバコが指の間で折れ曲がる。ナマエのスマホが、また鳴り出す。
気道を絞めるほど真下の唇ははくはくと酸素を求めた。この口でナマエは今日、一緒に飲んだ男に、どんな言葉をかけてやったのだろう。塞ぐようにキスをする。
少しのあと。抵抗が失せたタイミングで、力を緩めた。激しくむせる姿を見つめていれば視線が絡む。胡乱な瞳の中心には、リヴァイの影が在る。
「……もう、だ」
「あ?」
「もうやだ、……リヴァイとはこれ以上、やってけない、こんなの、……も、むり」
きんと張り詰めた静寂と、ナマエのか細い声に、眩暈をおぼえた。ヤニクラよりも最低な不快感。
「今、なんて言った」
「……もう、むり」
「その前だよ」
「……こ、れ以上、やってけなッ」
リヴァイは右手を振り上げた。追って鈍い衝撃が響く。ナマエをぶった手が、びりびりとしびれる。
「どういう意味だ、別れたい、ってか?」
「ぁ……リ、」
「嫌いになっちまったのか」
名前を呼ぶと、怯んだまなざしに見上げられた。およそ恋人に向ける目ではない。リヴァイはそれにひどく傷ついて、もう一度、ナマエの頬を。怯えられるとどうしようもなくなる。心が離れていくようで、怖くてたまらなくなる。だから、二度と向けないで欲しかった。
「……きらいになんか、なってない。だいすきだよ、ずっと、……でも」
ひく、としゃくりあげたナマエのまなじりから涙が伝い、耳のほうへ垂れていく。リヴァイはハッと我に返り、慌ててナマエを抱き締めた。凶悪な不安に苛まれ、視界がぼやける。
「ごめんな」
殴った手や、胸の奥がズキズキ痛む。殴られたナマエはもっと痛いだろうと思うと、途方もなく悲しかった。
「……無理だ、俺も。お前と別れて、……別れたら、そのあとどうすればいいか、わからない」
リヴァイには一人しかいないのだ。ナマエしか。最初から。なのになぜ、こうなってしまうのだろう。ナマエと出逢うまで、この世の全部が他人事だった。自分自身のことすらどうでもよかった。そんなリヴァイが、大切にしたいと、初めて心から感じた相手だったのに。
貴方は依存体質をどうにかすべきだよ。記憶の中の、沈鬱な声が耳をつんざく。依存体質をどうにかすべき。依存体質をどうにかすべき。依存体質を――。
「なあ……俺は、おかしいか、」
ゆるゆると頭を持ち上げた。腫れはじめたナマエの頬に、リヴァイの涙が落ちていく。
どうにかと言ったって。治すと言ったって、方法は? そもそもナマエへの愛を、依存などという言葉でくくられたくはなかった。まるで愛ではないみたいな扱いをされるのは嫌だった。愛しているのに。こんなに、ほかに何も要らないくらいに。
もしもこれが愛ではないというのなら。いったい何を、愛と呼べばいいのだろう?
「……おかしくない」
ナマエが身じろぐ。伸ばされた手、震える指先に、下まぶたをさすられた。
「リヴァイは、おかしくないよ……」
私も、ごめん。隠し事して。変なこと言って、もうしないし、言わないから。ごめん。ごめんね。ナマエは泣き声のさなかでつぶやいた。
「……俺には、お前しかいねえんだ」
こくこくと首を振ったナマエの腕が、リヴァイの背にまわる。抱き寄せられると、冗談みたいに安心した。
ナマエの濡れた目尻を、涙の跡を唇でなぞる。反射的に閉じられたまぶたも。鼻先同士がぶつかれば、薄く目を開けたナマエと口づけ合い、舌を絡めた。
だけどやっぱり足りない。きっともう、今までと同じ量ではダメなのだろう。同じだけを与えられても満足できない。増やさなくては。ナマエの傍にいる時間をもっと、もっともっともっと、増やさなくては。リヴァイの飢餓感や不安感をおさめ、完璧に満たすことができるのは、ナマエだけなのだから。
どうしたらこの女を確実に手に入れられるのか、と、リヴァイは考えた。やがてひとつの結論へ辿りつき、あとでタバコを捨てようと決意する。
そうして柔肌の上に唇をすべらせ、こわばった心までもほぐすようにナマエのすべてに触れながら、遠くはないはずの未来を想像した。ふたりの間に小さな命が宿る、将来を。
想像の中でのナマエは、頬を腫らしてなんかない。もちろん泣いてもいない。ただただ幸せそうに、昔と同じあたたかさで笑っていた。