20
夕食を終えて浴場に向かっていた。食事中、今年は冷夏だと先輩が喜んでたけど、暑いもんは暑い。早く汗を流したくて、タオルと着替えが詰め込まれた桶を抱えて急ぐ。
兵舎には浴場がひとつしかない。私室に風呂が備えつけてある幹部陣を除き、兵士は全員同じ大浴場を使う。性別関係なく。冬は男女日替わり、夏は時間によって交代。女が先、三十分空けて次が男。今日はまだ男湯に切り替わったばっかりだから、俺が一番だろうな、なんて思いながら戸を引いた。
瞬間、聞こえたのは小さな悲鳴。同時に勢いよくしゃがんだ誰かの背中は、肌色のかたまりだった。
そこにいるのが同期の女だとわかり、咄嗟に謝りかける。でもナマエの背中がはっきり見えたせいで、言葉がつっかえた。
顔をしかめて半裸の女に近づく。ナマエは出ていかない俺にびっくりしたのか、慌ててタオルを羽織った。
「……なんだよ、それ」
しゃがみこんでいる同期に訊ねる。いくら全身を隠そうったって、顎からつま先までが隠れるわけじゃない。俺はナマエの太ももや、ふくらはぎを見ていた。
「も、もう交代の時間? 長風呂しすぎた、ごめん、すぐ服着るから、一回出てて」
「や、あのさ……それなに?」
白い脚、素肌を指差す。無数のアザと、歯型を。
「お前、いじめにでも遭ってんの?」
問えば、ナマエは一瞬口を開いた。すぐさま閉じて首を横に振る。その仕草が肯定を表すものに映り、頭蓋を殴られたような衝撃が走った。俺も片膝をついてしゃがむ。ナマエはあからさまに拒絶の色を漂わせている。
「……とりあえず、医務室行こうぜ」
「どこも怪我してない」
「してるじゃん。誰にやられたんだよ、こ……」
このアザ。言おうとして、至るところに散らばる跡に気がついた。黄アザも青アザも実際にある、だけどずば抜けて多いのは、キスマークだ。
「……これ、自分で望んでやってもらってんの?」
うなずいてくれ――そんな願いも虚しく、ナマエは頬を染めるどころか青褪めて、押し黙った。脚を真っ先に隠さずに身体を隠したのは、下着姿だからでもあるだろう。けど腕すら頑なに見せないでいるということは、全身に跡がある可能性も高い。背中にだってアザが残ってたんだから。
「やべーだろ、こんなん。こんなさ、アザとか……普通できねえよ」
「そん、なこと。ない。これくらい、すぐできる」
「軽くぶつけるぐらいじゃ無理だ」
「できるってば、大袈裟だよ」
「なあ、誰にやられてるんだ? 女? 男?」
場がしんと静まり返る。反対に、ドアを隔てた廊下は騒がしさを増した。人が来る前に出なければと考え、ナマエに服を着るよう言って脱衣所をあとにする。湯を浴びに来た奴らに「もうちょいかかる」と詫びを入れ、ナマエを待った。
「離して」
「離せねえよ、さすがに」
真夏だというのに、出てきた女は長袖を身に着けていた。その二の腕を掴んだまま医務室まで歩く。本当にいい、やめて、大丈夫だから、と繰り返されても床を踏み鳴らして進んだ。
脳裏によみがえる、傷痕とも呼べそうなほどのアザ。あんなのが何個もできる生活はどう考えたっておかしい。それに歯型。噛み跡が残るぐらい酷く噛むなんてこと、普通しないだろ。
おそらく、ナマエは。
誰かに暴行を受けている。
「お願い、本当に、医務室には行けない……」
精一杯、振り絞るように訴えられて足が止まった。後ろを確かめれば、充分に拭ききれていない髪の毛から雫がぽたぽたと落ちていく。涙みたいに。廊下は静かだった。壁掛けのロウソクが、せっせと二人分の影を落とす。
「こ、困らせたくない人がいるの」
「誰?」
「……付き合ってる、人」
「まさか身体のヤツ、付き合ってる相手にやられてんの? なおさらありえねえ、最低だな」
俺が最低と発した途端、ナマエはキッと目を剥いた。
「そんな言い方しないで、なにも知らないのに」
「そりゃ知らないよ、なんも聞いてないし俺。じゃーなに? 納得できる理由あるなら聞かせてよ」
沈黙が積み重なる。真っ向の瞳は何往復も泳いでいる。しばらくして震える溜息を吐くと、ナマエは話しはじめた。
「……最初は。壁外調査の前、とか。帰還後に噛まれる、ようになって」
壁外へ出て、戦って。守りたくても守りきれない命があって。大事なものを失う明日に怯えて。そういうとき。どうしようもなく、遣る瀬無いとき。ナマエの恋人は、ナマエに縋っていたという。行為は徐々にエスカレートし、頻度も増えて、いまではほぼ毎晩。
「うーん……それ、お前が受け止める必要なくねえ? 全然納得できない。つーか付き合ってたら自分の女の身体傷つけたくないって思わない?」
睫毛を伏せ、何度もまばたきするナマエは反論の余地を探している。もしくは、悩んでいる。自身も事の異常性に気がついていた、と、認めてしまいたいように感じた。
「その人とは別れるべきだ」
「……っそ、れは……できない」
「なんで?」
「だって、わたしがいないとだめって。だめになるって、……独りにさせられない。わたしも好きだし、」
「逆にさあ。お前がいるからだめになるんじゃないの? 依存先があるから」
「そんなこと」
「ない? 本気で言える?」
先に目を逸らしたのは、ナマエだった。こわばっていた身体がずるずると脱力していく。俺も腕を離す。
「……別れたほうがお互いのためかもって、本当はときどき、思う。けど、」
「じゃあ話さねえと。なんならこのまま」
「――ここでなにしてる」
突然鼓膜を撫でた低音に、背筋が粟立った。肌を切りつけるような、鋭い声に。
「リヴァイ兵長!」
上官に向かい合い、ほとんど条件反射で敬礼する。
「……楽にしていい」
「は!」
拳をほどいて隣を見やれば、ナマエは固まっていた。水滴だけがひっきりなしに落下する。敬礼さえしなかったんだろう、身体も俺に向きっぱなしだ。その様子が気になり、ナマエへ手を伸ばすと。
「……」
兵長が、俺の手首を捕らえた。おそろしく無表情なまま。黒目のみがゆらりと動き、視線が纏わりつく。開いた瞳孔は落とし穴のように深い。手首は即座に解放されたものの、そのあともずっと、冷たかった。
「……オイ。お前ら二人とも、なぜ黙ってる。ここでなにをしている、と聞いたはずだが」
「ええと」
ナマエを医務室に連れて行く途中でした、と伝えていいのかを迷う。これは俺の問題ではなくナマエの問題――いや、待てよ。
ひとつのひらめきに、バッと顔を上げた。兵長が訝しげにこっちを注視する。
そうだ。リヴァイ兵長だ。神経質で、粗暴で、言葉遣いも荒いと怖がられている上官。しかし俺は、この人が実は仲間思いで優しいと知っている。尊敬してるし、憧れている。俺の手に負えない問題でも。兵長なら。
意を決して、口を開く。
「ナマエを助けてくれませんか? いま、悩みを聞いてたんです」
辺りの空気が揺らいだ。やめて、と、隣から乞われる。兵長はなにも言わない。
「ナマエ、クソ野郎と付き合ってて」
「ね、ねえ、やめてってば」
「その恋人に暴力振るわれて」
「ちがっ、違います!」
遮るようにナマエが声を張り上げた。振るわれてません、そう小さく続ける。でも俺もあとには引けない。
「違わないだろ、別れたほうがいいって自分でも思ってるんじゃなかったのかよ!」
「思ってな……」
「兵長、俺見たんです、ナマエの肌。アザも噛み痕もありました」
状況を窺っていた兵長の視線が、すう、とナマエへ流れる。
「……お前は恋人に暴力を振るわれている、だから別れたい、と……こいつに相談したのか。肌も見せて」
「……」
「お前に質問してんだ、答えろ。こいつの話はすべて事実か? それとも嘘をついているのか、……上官に」
「か、彼の言っていることは、事実です、」
「ほう……」
俺は二人のやりとりを眺め、安心していた。女に手を上げる奴に対し、兵長が怒りを感じないわけがない。悩んでる部下を放っておくような人でもないんだ。
「……ついて来い。聞いてやるよ、その……クソ野郎、だかなんだかについて、詳しくな」
潤んだ目で兵長を見上げ、ナマエは弱々しくかぶりを振った。きっと遠慮してるんだろう。上官相手じゃ話しづらいよな、だけどリヴァイ兵長なら、必ず。対策を講じてくれるに違いない。
「ほら」
「ッ、」
「……来い」
兵長は囁くように言った。ナマエの耳元に口を寄せ、ふわりと気遣う口調で。ビクッと肩を揺らしたナマエは、不思議と鍛錬中よりも呼吸を乱している。
執務室へ到着すると、兵長が扉を押し開けた。そしてナマエの背中へ手を添えて先の入室を促す。壊れかけたカラクリ人形みたいにギシギシと従う後ろ姿が、中へ吸い込まれて消えた。
兵長が振り向く。
「お前は戻って構わない」
「了解しました」
「……ありがとうな」
ほんのわずかに細められた眼。語調は信じられないほど穏やかだけど、ブルーグレイはまるで真冬だ。あたたかみがちっともない。急に寒空の下に放られた心地がして、鳥肌がたつ。なんで叱られてる気分になるんだ。俺はいま、礼をされたのに。
「ナマエを頼みます」
もう一度拳を胸に当てる。返事はなかった。
扉が閉じきってようやく緊張感が和らぎ、背を丸める。深呼吸を二回して、執務室を去ろうとしたとき。
カチ、と。施錠音が響いた。
おもわず立ち止まり、振り返る。どうして鍵を、わざわざ。
「ああ、そっか」
疑問は一秒で解消した。兵長のことだ、話の腰を折られないよう二人きりの空間を作ってあげたんだろう。ナマエのために。
「やっぱ頼りになるな、リヴァイ兵長」
よかった。兵長に任せられて、本当によかった。
再び安心し、浴場へと踏み出す。足取りは、ずいぶん軽くなっていた。