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森を丸ごと飲みこむような土砂降りだった。雨にさらされながらも木に凭れて座っていると、自分まで草木の一部になったような気がしてくる。
地面はぬかるみ、あちこちに水溜まりができている。だけど地べたに座る私のお尻が濡れないのは、兵長のマントが敷いてあるおかげだ。
目の前でつむじが動く。片膝を着き、私の脚を手当してくれている兵長の黒髪。
「兵長」
「なんだ」
返ってくるのは応答だけ。顔は、上がらない。
「リヴァイ兵長……こっち向いてください」
言えば、ようやく目が合った。びしょびしょになってしまった髪の毛から雨滴が伝い落ちている。私のせいでごめんなさいと謝りたくなるけれど、そうすると、優しさを踏みにじるみたいだからやめた。兵長は、見返りや謝罪を求めて自分が濡れることを選んだわけではない。
「……オイ」
峻厳な目つきに睨まれる。なんですか、と答える前に「息をしろ」と言われ、私はいつの間にか息を止めていたのだと気がついた。全身、とくに裂けたおなかが痛むから、どうしても呼吸を抑えたくなってしまうのだ。
「ゆっくりでいい。……できるな? ナマエ」
こく、とうなずいて従う。
「もう一回だ」
兵長の視線が、私の唇のあたりに向く。
「やれ」
命令するような口調だった。瞳からも厳しさはなくならない。雨音よりずっと不規則なテンポの呼吸を、リヴァイ兵長に正されていく。
「上手にできてるな……そのまま、続けてろ」
再びうなずき、瞼を伏せた。丁寧な処置が施された脚を眺めつつ、まるで唸り声みたいな雨音だとぼんやり考える。
辺りが白み、落雷した。それは足音と似ている。視界を奪う濃霧はうなじを削いだあとにあがる蒸気みたいだし、雷雨はどこか、天敵を彷彿とさせる。
フ、と頬に手が触れた。張りついた髪の毛をよけられて、正面を見る。いつも以上に無表情な兵長は、いま、どんなことを考えているのだろう。
「リヴァイ兵長」
返事はない。ただ、すり、と頬をさすられた。その奥で、雷がまた落ちた。
つい先程、奇行種の出現により調査兵団は大打撃を受け、隊列が完全に崩れてしまった。兵士らも散り散りになり、私もおよそ取り返しのつかない怪我を負った。それでも森へ逃げ延びることができたのは、今回、配置がたまたま兵長の近くだったからにほかならない。兵長に見つけてもらえなければいまごろきっと、私は巨人の胃袋をハンモック代わりにしていた。
とはいえ、絶望的状況に変わりはない。けれど救いも残されている。私には、途中で戦えなくなったために替えの刃がまだまだあるということ。これを兵長に渡せば、なんとかなるはず。
「……!」
どし、と音がした。二重にぶれていたピントを合わせると、リヴァイ兵長も気配を鋭くさせている。やっぱりいまのは幻聴などではなかった。足音だ。本物の、巨人の。
「行ってください」
装備に手をかける。周囲を窺っていた兵長が、こちらを見やった。
「ブレードの替えがあります。これを全部持って、行ってください」
「全部だと? 無茶言うな、そいつはお前のぶんだ」
「私はここに残ります」
「……あ?」
いつでも機嫌の悪そうな声が、常にはない低さになる。怒るときの声だ。何度も怒られてきたから、わかる。
「時間を稼ぎます、あんまり……持たないかもしれないけど」
「てめぇ、とうとう頭がイカレちまったらしいな……ブレードもなくちゃ、稼ぐもんも稼げねえだろうが」
「音響弾があるので」
「ソレはクソでけえ音を出すことしかできない」
「敵を、引きつけられます」
「ほう? お前、奴らのくせえ口のなかに入りてえのか。丸腰で」
「……はい」
「馬鹿野郎、んなの許可すると思うか。ダメだ。お前も連れていく」
「私は行けません、もう、歩くのも難しいし……拠点に辿りつくまでに、何体の巨人と遭遇するか読めないのに」
「俺がいればどうにかなる」
リヴァイ兵長がいる。兵長がいれば、どうにかなる。私も、そう思うけれど。だからこそ。
「行きません。私は、残ります」
きっぱりと断言した。対立する視線、剣呑な雰囲気に、すくみそうになる。でも先に目を逸らしてはいけない。震えてはいけない。恐怖を悟られてはいけない。ここで兵長に躊躇させては、いけなかった。
兵長は、あのエルヴィン団長が見つけてきた人だ。兵団が進むためには不可欠な力を持っている人。さらに近々、新たな班が組まれるとも聞いた。兵長がリーダーを務め、指揮を執るという。
だから、帰還させなくては。私のブレードをすべて渡して。ここへ置いていく心臓は、ひとつでいい。
沈黙が長引くにつれ、雨に紛れる足音ばかりが大きくなる。
やがて、兵長がふらりと立ち上がった。だけど立ち去るでもなく、昏い眼で見下ろしてきたかと思えば、ブレードを抜く。一連の動作はゆるやかに、おそろしく優雅に映った。
「嫌」
ブレードの刃が。切っ先が、胸もとに当たる。心臓の、ちょうど真上。
「リヴァイ兵長に殺されるのだけは、嫌です」
「……もういい、黙ってろ」
鋭利な痛みが走った。皮膚が切れて、命の行方を握られる。もしいま悪戯に力を込められたら、私の心臓はあっけなく鼓動を止めてしまう。
「絶対に嫌、人に殺されるくらいなら、私は巨人に喰われたい、だって私、……私は、兵士だから。……それに」
ぐ、と兵長が一歩踏み込む。
「リヴァイ兵長に、人を、殺めて欲しくない」
無でしかなかった表情が、かすかに歪んだ。
鈍色の刃先を下げた兵長は、滲むガラスの向こうに立っているみたいだった。
「行って、ください」
ポケットから音響弾を取り出す。全身が痛くても。不安がふくれ上がっても。待ち受ける結末が、どれほど怖くても。役目を果たすため、最後まで生き抜くために精一杯呼吸した。だってまだだ。私はまだ、終われない。
「一分後に、引き金を引きます」
巨人が近づいている。足音からして、二体はいる。
「……クソが」
替えの刃、すべてを抜かれた。なにかを言いかけた兵長へ敬礼を掲げると、口はすぐさま閉じられる。二度と会えないようなお別れはしたくないから、それでよかった。
アンカーを放つ背中。揺らぐ双翼を見つめながら、マントを返しそびれてしまった、と思う。
そうして、瞼を閉じた。
寝つけない夜があった。
兵士になってから、目を閉じたって眠れない夜がいくつもあった。そういう日にはベッドを抜け出し、鍛錬に励んだ。昨日の自分より、一秒前の自分よりも強く在らねばと、守れなかった命のぶん重くなる身体をひたすらに鍛えた。
そんな夜を兵長と過ごすようになったのは、いつごろだっただろう。約束は交わさない。けれど眠れない日、長く途方もない時間を、ふたりで過ごすことが増えていた。だれもが寝静まった兵舎でしょっちゅう顔を合わせれば、自然の成り行きかもしれない。
食堂で紅茶を飲んだり、焼き菓子をこっそりいただいたり。屋上で星を観察してみたり、静かに夜明けを迎えたり。闇みたいな夜を、私たちはそうやって過ごした。
悲しい。
私はどこにもいきません、ずっと兵長にお仕えいたします、なんて笑ったゆうべを真っ赤な嘘にしてしまうことが、いまさらどうしようもなく悲しかった。
──五十六、五十七、五十八。
正確にカウントしていく。そして、五十九。時を迎えようとした刹那。
傍で、ざざ、と土がこすれ、おもわず目を開けた。視界に入ってきたのは。
「……兵長?」
血にまみれた上官だった。一瞬焦りを感じたものの、蒸発するところを見る限り、付着しているのは巨人の血だ。
カランカランと刃が落ちる。収納されたままの新しい二枚に、兵長はグリップをつけ直した。そういえば、巨人の足音が消えている。
「あ……!」
手のひらから、音響弾を抜き取られた。そのまま、ぬくもりに覆われる。雨と土と、草と血の匂いに交じって感じる、ふたりで越えてきた夜の匂い。
「……生きてるな」
声は耳もとで聴こえた。激しい雨音から、守ってくれるみたいに。
「奴らはもういない。これで文句ねえだろ。……アホみてえに喚きやがって」
鼻の奥がつんとする。本当は、生きた状態で食べられるなんて、考えたくもなかったから。
それでも決心がついたのは。兵士としての矜持も、もちろんあるけれど。
「兵長」
「……」
「リヴァイ兵長……」
「ああ」
好きです、
口に出して伝えれば、唇がふさがった。初めての、キスだった。
「……お前とは、しょっちゅうふたりで夜を過ごしたが」
離れた兵長に両頬を包まれる。
「お前が、眠いのを我慢してることがあると、知っていた。すまなく思ってもいたが……毎度気がつかねえふりをした。……お前を部屋に帰したくなかったんだ」
「……しらなかった」
「だろうな」
「へいちょう……へいちょうも、わたしのこと、すきなんですか」
「決まってるだろ」
もう二回、唇が重なった。
「こんなこと、惚れてもねえ女にするかよ」
ごくごく至近距離で見つめ合う。りょうおもい。つぶやくと、そうだ、と返される。
それから強く、だけど傷を労るように抱きしめられて、痛みや不安が、悲しみが溶けて消えていく。私はたぶん、今日こそ深い眠りにつけるのだろう。大事な思い出だけを持っていける。
だんだん、なにもかもがぼやけはじめた。まどろむ明け方のように心地好く。
「……また、あとでな」
兵長がささやくから、私も振り絞り、口角を上げてみせた。長い夜の終わり、お互いの部屋へ戻る別れ際みたいに、そっと、いつものように。