/
坂の下になんて住むものじゃない。きつい傾斜の下で、頂上を睨みつけながらナマエはいつも沈む。坂道は途方もない。たとえどれほど短くとも、永遠に続くような気がするのだ。
いつの間にか冬が去り、春が来た。気づけば夏が迫っている。ずいぶんぬるくなった夜の匂いを吸い込むと、ナマエはようやく進み出した。
崖沿いに敷かれた道なので、見晴らしはいい。左手側の一面が海となっている。とはいえとっくに飽きた景色のなか、最寄りの商店を目指す。
珈琲豆が切れていると思い出したのは、つい先程。ストックも昨日訪ねてきた友人にあげてしまっていた。明日の仕事終わりに買って帰ってもいいのだけど、しかしナマエはこうして出掛けることを選んだ。朝、寝惚け眼で飲むコーヒーの美味しさをよく知っている。
潮風がくすぐる港町。ナマエは空だとか立ち並ぶ街灯だとかを視界に捉えて坂をのぼった。夜は人出が少ない。おかげでぽかんと力を抜き、上を向いて歩いたってだれとぶつかることもない。
「……アホヅラだな」
前からやってきた人影とのすれ違いざま。聞こえよがしに囁かれた言葉に虚を衝かれ、ぱっと横を見る。夜明けみたいに色素の薄い瞳、スーツ姿の男と、視線が絡んだ。
「いきなりなんですか」
立ち止まってまで言い返したのは、坂道だからだった。上に向かう者と下に向かう者の人生は、そのあと、二度と交わらないように感じる。遠くかけ離れたところへ行く者同士に感じるから。
「こんなツラだったぞ」
黒髪の男も立ち止まったまま、ぱかっと口を丸く開けた。それがあんまりにもマヌケで腹立たしい。
「そんな顔してない」
ナマエが憮然とした態度をみせれば、男はほんの少し頭を傾けて目を細めた。
笑ったのだろうか。きっとそうだ、とてもわかりづらいけれど。だとしたら彼の笑顔はひどく寂しげに映る。
途端、ふいにくっきりとふたつの人生が交わった。この人をもっと知りたい、ナマエはそう思ってしまった。単純すぎるという自覚もあった。でも人生なんて、ほとんど単純を積み重ねたものだったりする。
「じゃあな」
「待って!」
ジャケットの裾を掴んで引きとめれば、しかめ面が振り向く。
「オイ……引っぱんじゃねえよ」
「ねえ、名前を教えて!」
「あ?」
「あなたの名前!」
「……教えるわけねえだろうが」
「どうして」
「どうして? そりゃこっちのセリフだ。なんで教えなきゃならねえ、今さっき会ったばっかの奴に」
そうだった。大人は、名前を聞くのにも理由がいるのだった。
どうしよう、と誠実に考えたあとで、ナマエは。
「あなたにひと目惚れしたみたいなの!」
次は男がぽかんとマヌケな顔をする番だった。ふたりを包む藍色の潮騒。一台の車が排気ガスを吐きながら、ゆったり横を通り過ぎていく。
男は数秒後、は、と短く吹き出して俯いた。しみじみ呆れたふうでもある。
「……俺も、気になっていた」
「え?」
「お前の名前が。最初から」
再び顔を上げた彼の表情はやわらかい。
「……それであんなふうに声をかける?」
「悪かった。慣れてねえんだ」
「……ふうん。じゃあ、許してあげる」
隈のある下まぶたが優しく揺れた。この人は口もとより目もとに気持ちが現れる人なのかもしれない、と、ナマエはぼんやり考えた。
坂の中途半端な地点でふたりきり、止まったまま。男がおもむろに左側へ目線をやったので、ナマエもつられて右を見た。広大なマーレの海を。水面には月の柱が、一本道みたく伸びている。
面白味のない風景だ。たいしてめずらしいものもない、ナマエの生まれ育ったありきたりな街。男だけがしばらくの間、一心に海を見つめていた。
「今夜はお散歩?」
「いや……」正面に向き直り、彼は一拍置いて答える。「人を探してる。こんくらいの背丈で、茶髪で、緑の目のクソガキを見つけたい」と、自身の頭より高い位置で手をひらひらさせて。
「探しているのは女の子? 男の子?」
「男だ」
「そう。見かけたら、知らせるね」
「助かる」
焦燥や疲労、みたいなものが、とつぜん声に滲んだ気がした。大丈夫、探している人は絶対に見つかる、などと無責任に励ますことはできなかった。
「――明日」
男が口を開く。
「また、この時間。俺はここを通る」
「明日また、会えるの?」
「さあな。お前次第だろ」
「……自己紹介はそれまでお預け?」
「そうだ」
「どこまでもあなたのペースね」
「お預けなのはお互いさまだが」
「……わかった」
諦めの笑みをこぼし、今度こそ別れて坂をのぼりきる。頂上で見返れば、ちょうどくだりきったらしい男も振り返ったのでなにげなく手を振った。
男は、うなずいたものの。その場を動かない。
急に心がうるさくなる。立ち去らない彼への感情がせり上がってくる。名残惜しさが多分にある。ナマエは困惑した。だって駆け寄りたい、今すぐ。
初めてだ。坂道をやり直してもいいと感じるのも、侮辱からスタートする恋も、転げ落ちるような速度でだれかに惹かれたのも、初めてだった。
だけど、結局。
ナマエは坂を戻らない。正しく明日を信じた結果の選択だ。もう一度だけ手を振って、やっぱりうなずいた彼へと背を向ける。そうしてまっすぐに歩きはじめた。