明るくて一番暗い夜






 抜糸後、数日が過ぎた。風呂上がりに脱衣所で救急箱を開け、軟膏やガーゼを取り出す。ジークに処方されたもので、ほかには褐色の医療用テープなども大量にあった。

 包帯の外れた腕を見て、縫い合わせた跡をなぞる。ぼんやりと魚の骨を連想した。アニメに出てくるような綺麗な形の骨だ。手のひらをぐうぱあぐうぱあと動かせば、縫い跡もつられて線を変える。痛みはなかった。

 ナマエはふやけた気持ちを引き締め、慣れた手つきでケアをおこなう。のぼせたみたいに赤みを孕んでいる縫い跡が、軟膏に鎮められていく。
 ジークによると術後の経過は良好らしいけれど、まだまだ気は抜けない。完治したといえるようになるまでには二、三ヶ月ほどかかるというのだ。

『傷痕は残っちゃうよ。どうしても』

 可哀想に――と。ジークは数日前、糸の切れたナマエの腕を見下ろして言った。
 可哀想なんかじゃない。そう思った気持ちを、ナマエはしかし口にはしなかった。惻隠の情を向けてくる相手にいくら否定を重ねようと、望む結果は得られない。余計に哀れまれるだけだ。

『分からないな、なんでここまでするんだ。リヴァイとは知り合ったばっかりだろ?』

 ジークは心底理解不能と言いたげな顔をする。そして野球ボールを弄んだ。ベッドに寝そべるナマエはわずかに彼を見上げるようになり、しばらくの間、ゆるやかなまばたきを眺めていた。正当性のある返事を探していたのだ。

 患者を救う指先に視線を移す。節くれだった三本指は、自身の体の一部のようにボールを扱っていた。

 ジークの足元には医療器具の詰まったバッグがひとつ置かれていて、モグリといえど医者であるジークはもちろん、そのバッグも中身のものたちも丁重に扱う。

 だけどボロボロの野球ボールに触れている間だけは、仕事道具や、医者という立場や、自身が生きている事実でさえもそっちのけでいるふうに見えた。途方もない、終わりのない旅に疲れている。そんなふうにナマエには見えていた。いつでも。

『なんでなのかは……私にも分からなくて』

 正解を見つけ出せない。ナマエの本音がジークを納得させる解答だとは思えないし、そうはいっても嘘を並べる気にもなれなかった。だから結局、「分からない」ともやのかかるような答えを口にする。

『エルヴィンにいいとこ見せたかった? きみの仲間のために体を張ったんだ、ってさ』
『そんなつもりじゃ……!』
『どうだろうなあ。ナマエちゃんはイカレてるから』
『イカレてる……?』

 繰り返せばジークは顔を上げた。鈍色の眼鏡フレームが、ナマエを傷つけた果物ナイフより鋭く光る。先程まで見せていた無垢な眼差しは、もう、どこにもない。

『例えばだ。ナマエちゃんが馬を育てるとしよう』
『馬……ですか』
『馬じゃなくてもいいんだけど。ホラ、奴らって頭が良いだろ? 人間と分かり合えるっていうしな。うん。やっぱり馬でいこうか』
『……』
『育てるのは競走馬じゃない、食用馬だ。毎日毎日大事に世話をする。あたりまえだよな、不味くなられちゃマイナスだ。そのうち愛着が芽生えるかもしれない。意思の疎通が図れるんだし……万が一懐かれでもしてたら屠殺する瞬間、悲しいかもな。……そこまではよくある話だ、理解できるよ。俺にはないけどね』

 言わんとしていることが把握でき、ナマエは起き上がった。制止されるでもなく、少し長めの髪や髭、眼鏡でほとんどが隠れた表情を窺う。

 寝室のカーテンは全開だ。そのために、ジークは左半身のみ太陽光を受けていた。同一人物だが、陰りのなかの右半身とはとても別人に感じられる。

『だけどもし、愛情が芽生えたら?』
『……やめてください』
『この馬を愛してる、自分は人間だ、でも家族になりたい、子供が欲しい、一生傍にいたい、』
『やめて!』
『生きられる長さは違う、それでも死ぬまで一緒に』
『イェーガー先生!!』
『イカレてるだろ?! 食べるはずだった生き物を愛するのも自分を食べようとしてた奴を愛するのも、なあ、そうは思わないか? それともナマエちゃんは違うって? 自分たちだけは特別? ならどう違うのか説明してくれよ!』

 泣いてはいけないと思った。馬鹿なことを言っていると笑い飛ばさなくてはいけない。そうしなければ、エルヴィンを裏切ったことになりそうだ。

 ジークが“可哀想”だと哀れむのは、吸血鬼のせいで怪我を負ったことにではなくて、吸血鬼のために自傷するという選択をしたことに対してなのだろう。ナマエに向けられる、狂人を厭うような眼差しがそう物語っていた。

『……生まれてこなければよかった、ってさ。感じる夜、ナマエちゃんにはあるか?』

 古いボールを両手で包み、ジークが上に額を伏せる。まるでかみさまに祈る信徒みたいに。重い声は重力に従い、沈んでいくようだった。

『俺にはある。そういう夜って、明け方が怖いんだよ。また朝が来る、一日が始まる。そう思って震えて過ごす。……想像できないだろ? 半分半分でいつまで経っても中途半端な奴の気持ちなんて。……想像されてたまるか。人間でもないのにヴァンプにもなりきれない。俺たちは、生まれたときから負け犬だ。異常な親を持ったせいで――』

「――誰かを愛すこともできない」

 彼の言葉をつぶやき、ナマエは開けっ放しだった救急箱の蓋を閉めた。手のひらサイズの紙も一緒にしまう。その紙には事細かにケアの仕方が書かれていて、ときおり上手いとは言えない絵までも添えられている。注意すべきことだったり、緊急時の対処法、「大丈夫だ」といったメッセージまで。

 誰も愛せないような男が、こんなことをするだろうか。ジークも優しい。
 優しいのに、笑顔の裏に潜む暗さがいつでも恐ろしかった。エルヴィンやリヴァイの優しさといったいなにが違うのかと、ナマエはずっと考えていた。それがようやくはっきりした気がする。

 愛を教えてくれる人がいたならよかったと思う。傍に転がっているはずのそれらに、ちゃんと気がつけるように。愛に飢えたジークが、ひとつも取りこぼさず見つけられるように。

「イェーガー先生……」

 なんとなく、彼とはもう会えないだろうと感じた。抜糸をしたあの日、初めて野球ボールが床に落ちたから。







  

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