小さな箱庭に沈む夜






 ナマエはダイニングテーブルに腰掛け、マグカップを包んだ。淹れたばかりの紅茶は熱い。両手のひらがじんわりとあたたまっていく。

 漂う湯気を見たあと、次いでソファを見た。そこではリヴァイが読書に耽っていて、かれこれ一時間体勢を変えていない。

 指で半分隠れた背表紙。タイトルは吸血鬼伯爵の名前である。レンタルショップ隣の書店でたまたま発見し、リヴァイが購入した洋書ペーパーバック

 タイトルから察せられるとおり、物語はヴァンパイアを題材にしている。自分たちの話を読んで楽しめるのかどうかナマエには分からないけれど、ラストへ近づくリヴァイのペースは早い。不快になったりしないか、少し心配だった。

 ダイニンクテーブルにも寝ている文庫本が一冊。途中で閉じてしまったのは表紙買いしたその本が悲恋を描いていたせいだ。休憩を挟んでも再び読む気にはなれず、ナマエの視線が窓に流れる。

 夜更けの窓はまるで大きなスクリーンみたいに黒い。映し出されるのはこの室内と一人の人間と──吸血鬼は鏡に映らない、と聞いたことがあるけれど。
 認識の相違なのだろう。ニンニクやロザリオでは退治などできないという真実同様。

 高層階の、地上にある寂しさをすべて掻き集めたような景色を眺めていると、世の中から隔離された気分になった。それでもナマエがしょっちゅう外を眺めるのは、大空に浮かぶ空想をするためだ。エルヴィンは漆黒の翼を持っている。

 空想上ではもちろん自分もヴァンパイアで、永久を生きていけた。一人でもなかった。笑っていたし、横にいる彼も笑っていた。考えればいつだって楽しくなれる。それが見果てぬ夢だと、知っていても。

 この恋は悲恋ではない。悲しみに繋がるわけがない。景色を眺めながら、そんなことを繰り返し繰り返し胸のなかで唱えた。

 時刻は二十五時。暗夜の沈黙は続く。

 エルヴィンはナマエの生活を昼夜逆転させてはならないといたく気をつけていた。彼はときどき厳しい父親の面容をするので、この現状を知れば説教を始めるだろう。

 でも困ったことに、夜更かしは楽しい。もともと夜へは怖いとか危ないとかマイナスのイメージばかり抱いていたが、慣れてみると実はとても優しかった。すべてを赦してくれそうなほどに穏やかで、突き刺す太陽が昇る昼よりずっと安らかで。

 エルヴィンも夜を愛しているし、ナマエは朝を失くしてもいいとさえ思っている。この生活が昼夜逆転でなくなればいいと。

 もどかしい。自分が人間で、苦しい。恋は盲目だというけれど、ナマエも今まさに周りが見えなくなっていた。それは箱庭にナマエを閉じ込めるエルヴィンのせいでもあるのだが。

 ふいに、枯葉が落ちるような音がした。リヴァイがまた一ページ結末へと進んだ音。

 ほかにあるのはナマエの呼吸音のみ。リヴァイの呼吸は遠いせいか聞こえない。振り返ってもしもそこに彼がいなくても、おかしいことではない気がする。窓ガラスに映るのはただの虚像だ。

“他者に認知してもらえないと、自分自身が消えていく”

 今リヴァイが消えたら、気がつくのはナマエだけ。リヴァイがここにいると気がつくのも。
 そしてナマエが消えても、消えなくても。それらの判断を下せるのは、今は、リヴァイだけ。

 とても歪な空間だ。エルヴィンが築き上げた蒼白い箱庭。そこに綺麗におさまるには、ナマエも歪まねばならない。

 左右の反転したとんちんかんな世界に沈み入る。暗い夜空が映す男は、ヒトを喰い殺すヴァンパイアだという。どこからどう見ても人間でしかないのに。

「……コウモリに擬態? なんだそりゃ」

 ぽつりと耳に届いた独り言。

 振り返ってみれば喋った本人は無自覚なのか、眉間を寄せたまま本から目を逸らさない。その姿にナマエはひっそりと安堵した。リヴァイはちゃんと存在している。

「まあ……映画では猫が喋ったりも……するしな」

 二度目の独り言は自身を言い含めるかのようだった。なるほど、と思う。ヴァンパイアに擬態は不可能なのだろう。コウモリにはなれない。現実で猫が喋らないみたいに。
 ナマエが知っている空想上の吸血鬼と本物の吸血鬼は、案外離れた存在なのかもしれない。

 テーブルに向き直るとダージリンの香りが揺れた。ひとくち啜ればすっかり冷めている。けれど美味しい、さすがはリヴァイ直伝の淹れ方といったところ。

 ふと空腹を覚え、ナマエはキッチンへと向かった。腹をさすりつつ冷蔵庫を物色するも、ここ最近宅配に頼りきりなせいで大きな長方形は可哀想なくらい空っぽだ。

 かろうじてパスタ麺があったので、ツナ缶とニンニクの欠片、フリーズドライの小ネギを用意する。調味料で味を整えれば立派なお夜食の出来上がり。
 夜食にしてはガッツリしすぎているし、具も少々足りないけれど。気にしないでパッパと材料を調理台に並べていく。

 その間、ナマエはスーパーへ行った夜を思い返していた。もう一度行きたい。今度こそリヴァイの好物を聞きたい。
 食事中の表情で好き嫌いを見抜こうとも考えた。しかしリヴァイはエルヴィンと違って、人前での食事を嫌う。落ち着いて食べられないと言う。よって、知る方法は直接聞く以外ないのだ。

 そういえば。映画鑑賞中も、リヴァイはポップコーンに手をつけない。

「オイ」
「っ!」

 急に降ってきた声に驚き、ナマエは尻もちをついた。手頃な鍋を取り出そうとしゃがんでいたため大きな衝撃はなかったものの、なかなかに恥ずかしい。

「あはは……びっくりしちゃいました」

 照れ隠しの笑みで背後を振り仰げば、そこには。

「リ、リヴァイさん?」
「なにしてる」

 殺気が仁王立ちしていた。

「なにって……」
「料理するつもりじゃねえだろうな」
「そのつもりです」
「腹が減ってるなら適当に頼めばいい」
「……二十四時過ぎたら、頼めるところほとんどありません」
「ほとんど? 多少はあるんだな? そのなかから選べ」
「でも、材料が揃っ」
「駄目だ。なにも作るな」

 またこれだ。このごろ毎日だ。

 ナマエは溜息をついた。料理禁止令が出されて今日で数日目。宅配頼りになっている唯一の原因である。

「嫌です」

 かすかな苛立ちが芽生え、相変わらず怖い顔のリヴァイにひとこと返して立ち上がると水道のレバーハンドルを上げた。そのまま鍋に水を溜めようとして。

「聞いてただろ」
「なにするんですか!」

 後ろから伸びてきた手にハンドルを下げられ、水道が閉まる。落ちる水滴。タタ、タタ、と叩かれるシンク。膨れ上がる、ナマエの不満。

「……私の作ったものがそんなに食べたくないですか?」
「あ?」
「今回は自分のぶんしか作りません、ほっといてください」
「お前の飯に文句があるわけじゃねえ」
「っ嘘! だって全然食べない!」
「チッ。面倒臭ぇな……来い」
「ッ、嫌! 離して!」

 無意識だったのだろう。
 掴まれた二の腕の痛みに叫べば、ハッとしたリヴァイは一瞬、自身が信じられないとでも言うように目を泳がせた。

「……悪い」

 手がぎこちなく離れていく。袖越しに感じていた、人工の冷気より冷たい体温も。そのさまを見つめる。

 リヴァイの爪は黒くないし、尖ってないし、長くない。物語に登場するヴァンパイアとはやはり違う。リヴァイはナマエを決して傷つけない。傷つけようと、していない。

 今だって。

「……痛かったよな」

 自分のほうがよっぽど痛そうな顔をする。

「いえ」ナマエは小さく首を振った。「あの、……お腹空いて。ご飯、作りたいんです。もうリヴァイさんに押しつけたりは、しませんから……」

 いつかのモンブランや、お菓子や、朝食や昼食、夕食や夜食みたいには。

「……そうじゃねえ。さっきも言ったが、お前の飯に文句はない。ただ」

 言いかけ、リヴァイが瞼を伏せた。不眠の隈に睫毛がかかる。初めて会った日から変わらない彼の色、絶対的な黒。吸血鬼リヴァイはいつまでも夜に馴染めぬまま。安眠を知らぬまま。

「腕、」

 ナマエの手首がそうっと持ち上げられた。真っ白な包帯はリヴァイの手にくるまれて冷えていく。悲しみが温度を持っていたら、きっとこんなふうだろうと思う。

「……痛むだろ。まだ」

 心を深くまで沈めたようなその声に、つい眉尻を下げてしまった。

 エルヴィンによればヴァンパイアの自己治癒力は極めて高いという。切り傷の回復に何日も要するナマエを見て、リヴァイが不憫に感じるのも仕方のないことだった。

 どうやって平気だと伝えたらいいか分からない。痛みを数値化して表示させるなんてことは不可能だ。

「ごめんなさい」
「……なんでお前が謝る」

 リヴァイが誰も殺さず済むように。罪悪感を抱かず済むように。あの夜、ナマエは自発的に行動した。しかし結果としてリヴァイは罪悪感を感じ、傷ついている。

 その傷は。自分のせいで、と思う彼の痛みは、あと何日したら治るのだろう。治らない可能性もある。リヴァイの夜が明けない限り。

「手は、平気です。そろそろ動かしたくてうずうずしてるくらい」
「抜糸もまだだ」
「本当にもう、痛みも全然なくて。大丈夫ですよ!」

 努めて明るく発言すれば、青灰色が訝しむように歪められた。

「……嘘じゃねえだろうな」
「はい」
「……なら、いい」

 リヴァイの手は、また、そっと剥がれていく。触れられ続けていたにも関わらず、包帯も腕も、冷たいままだ。

「麺が出ているが」

 彼はリビングへ戻ることなく、ナマエ越しに調理台を覗き込んで並ぶ材料をしげしげと見つめた。

「なにを作ろうとしていた」
「ツナのパスタを」
「ツナ……簡単なのか、それは」
「はい。だから怪我にも響かな」
「調理法を教えろ」
「いいですよ! じゃあ説明するので見ててくだ」
「俺が作る」
「……えっ?」
「邪魔だ。どけ」

 並んでいる最中に割り込まれるみたいに、強引に端へ追いやられる。鍋を持った彼に「で?」という眼差しを向けられ、どうもできずに戸惑った。

「…………お前が黙ってちゃ進まねえ」
「でも……」
「飯を諦めるか説明するか、今すぐ決めろ」

 選択肢を提示され、今すぐどころかウンウン悩んだ結果。

「お願いします」

 ナマエはぺこりと頭を下げた。やめろ、うざってえ、とクレームが入ったので急いで上げれば、リヴァイはほんの少しだけ普段より柔らかい気配をまとっている。それは優しい夜と似ていた。

 だから。リヴァイが優しいから、夜に対してもそう感じるのだろうか。彼と過ごしているから。

 ナマエには、なにができるだろう。リヴァイが困ったときや苦しいとき、つらいとき。
 なにもできないかもしれないけれど、せめて手を差し伸べられたらいいと思った。たとえその手を、掴んではもらえないとしても。







  

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