赤色の月が満ちた夜
リヴァイに宛てがわれている部屋を出たすぐ右には、リビングへ続く扉がある。薄いグレーで、ホワイトの壁に際立つ。リヴァイは左へ行った。廊下の大理石もやはりシルバーグレーだった。ぺた、ぺた、と裸足の足裏が徐々に冷えゆく。
ふらふらして、一歩が重い。リヴァイには白と灰の空間はひどくぼやけて見えた。──本当に視界がぼけている。
数日前、スーパーから帰宅して以降。ナマエとは顔を合わせていない。最後に見た笑顔は食材を両手にウンウン悩み、しかし心躍る様子で「食べたいものはありますか?」と聞いてきたときのもの。
そのときリヴァイは「ない」とひとこと返した。作ってもらったって食べないから。味見すらしないから。
だけどナマエはスーパーで揃えた食材でなにかを作る際、いつも二人前用意する。料理は当然余る。ナマエはせっせと自己消費するのみ。今回大食いの恋人と生活しているかのように買い込んだ食材は、冷蔵庫のなかで静かに死ぬだろう。
「……ックソ、」
玄関に行くこともままならず、リヴァイは廊下の壁をずり落ちた。背を預けて足を伸ばし、バカみたいに震える手を押さえてみるが、手はどちらも震えているので意味がない。
「しくじったな……」
朔望周期を確かめることをすっかり忘れていた。月は、約二十九日に一度満ちる。今宵は赤色が不気味な満月だ。
前回はたしか、ここへ来る前だった。ということはナマエと過ごすようになってもう一ヶ月が過ぎたということだ。時の速さがにわかに信じがたい。まるでまばたきの間ほどに一瞬だった。
満月が近かったから。だからあの夜、タクシーのなかで美味そうな匂いが強く香ったのだ。飢餓感に全身を撫でられるような、深い血の。
ヴァンパイアは月の引力に導かれ、衝動に襲われる。鋭くなった五感は獲物を逃さない。ナマエの傍にいるのは危険だ。だから外へ出ようと思ったのに。
だけど、外へ行ったら。
また、怯える人間の顔を見て。喉元に喰らいついて。欲が満たされて。遺体をどこかに隠して。これが最後だと自身に言い聞かせて。次はないと思えて。
しかし結局、欲は何度だってリヴァイを誘う。今だって血が欲しい、すぐに。
「──リヴァイさん?」
その声を聴いた瞬間、リヴァイの視界が大きく歪んだ。ゆっくりと右を向く。消えていたセンサーライトが、ナマエを感知してまた点いた。
「リヴァイさんっ! 大丈夫ですか?!」
欲しい。
「……来るな」
欲しい、
「でも調子が悪」
「うるせえな! 近寄んじゃねえ!」
リヴァイが怒鳴れば、慌てて来ようとしていたナマエは怖がるように立ち止まった。イライラする。
ナマエの反応からして、エルヴィンにとっては月の満ち欠けなどたいした問題ではないのだろう。リヴァイがどうして震えているかを知っていたら、ナマエは迂闊に近寄ってこないはずだ。
同じ吸血鬼といえども、エルヴィンは特殊だった。何年か吸血せずとも普通に生きられる。そのため無駄な狩りもしない。
リヴァイはそれが、心底羨ましかった。他人にできるなら自分にもできると信じ、人間で言うところの断食を長らくしている。でも満月の夜だけは途方もない飢えに襲われた。
それも、あと数時間の辛抱。今夜を越えれば。乗り越えられれば。月がまた、欠けていけば。そしてそのうち、餓死できたらいい。
「リ、リヴァイさ、ん、」
「寄るなと……言ってる」
また一歩ぶん濃くなった血の匂い。腹の底から抉られるような芳醇な香り。
リヴァイは上を向いた。天井には四角い穴が等間隔で空いていて、柔い暖色がぼやっと降り注いでいる。スイッチを入れればしっかり点灯するものの、ナマエはセンサーライトが消えたあともオンにはしなかった。
廊下の、ナマエの奥にあるリビングルーム。閉まりきっていない扉から細い灯りが漏れてくる。灯りはだんだん太くなり、末広がりの光としてリヴァイを通過していた。
ヴァンパイアだから、リヴァイには闇のなかもよく見えた。ナマエは人間だから、たとえ慣れても闇のなかじゃ、遠くまでは認識できないだろう。それらは一生かけても埋まらぬ差。
ぱ、と辺りがわずかに明るむ。ナマエが一歩、また一歩と近づいてくる。
「それ以上近寄ったら……殺すぞ」
気配がぎくりとした。なのに歩みは止まらず、リヴァイが腕を伸ばせば届きそうな距離にナマエは来た。
「聞こえなかったか」
「き、聞こえました」
「だったら」
「血、が、欲しいんですか……?」
視線が口元に向けられている。リヴァイの犬歯がありのままの形状になっているからだ。エルヴィンで見慣れているはずだが多少の恐ろしさはあるのか、ナマエの声は震えた。
イライラする。どうしてこんなに苛立つのか、不思議でならない。
「な、なんで吸血、しないんですか……?」
ナマエはパジャマ姿だ。ワンピースの裾から白い足首が覗く。羽織りに袖を通しているけれど、手首も隠れていない。無論、首筋も。
リヴァイはナマエとの距離を測った。自動的に脳内シュミレーションが行われる。──二十分。それだけあれば、息絶えた骸を見下ろせてしまう。
「リヴァイさんは、ヴァンパイア、でしょう」
限界だった。
二人ぶんの重みが床に叩きつけられる。リヴァイは馬乗りになり、両手首をがっしり掴んで大理石に縫いつけた。ナマエの顔が青ざめていく。その、今にも泣きそうな顔を見下ろす。
苛立ちが体のなかで破裂して、二度と元の形に戻れない気がした。でも戻れなくてもいい。
ここを出て行ったら帰らずに、太陽を浴びよう。そうして楽になる。何百年と耐えないで、さっさと自ら死んでしまうべきだった。
「……っ痛、」
「はっ、震えてやがる……ざまあねえな。警告、してやったのに……」
違う。
警告ではなく、ただの脅しだったはず。
エルヴィンの翳った表情。殺した人間たちの涙。欲が満たされれば襲い来る自己嫌悪。映画を真剣に観る横顔。なにか食べたいものはあるかと聞いてきた笑顔。次々に蘇る。
「リ、リヴァイ、さんは。……私を、殺さない」
泣きそうな瞳でなにを言っているのだろう。
人間は大きく分けると二種類で、死に直面した途端従順になり殺さないでくれと懇願してくるタイプ、事切れる瞬間まで反抗的なタイプといた。ナマエは後者らしい。
「てめぇは知っているだろうが……」リヴァイは白く細い首筋に鼻を掠めたあと、ビクッと反応したナマエに見せつけるように己の犬歯を舌先でなぞった。「俺らの牙には毒腺がある」
「あ、や……やだ、」
「痛みだけ感じて死ぬよりはいいだろ」
「お、お願い、それは、嫌……」
殺すぞ、と言ったときよりもナマエが怯え始めたのは、吸血時に分泌される媚薬のような毒に自我を保つ自信がないせいだろうか。乱れ狂ってリヴァイを求める未来が怖いのだろうか。エルヴィンを裏切るのが。
「……俺はエルヴィンが用意した男だから、お前を殺さねえし犯さない、とでも思ったか」
「ちが……」
ナマエからぼろぼろと涙があふれる。リヴァイの苛立ちも弾けたようだった。──ああ。こんなにイライラする原因は。
「……安心しろ。……最高に善くしてから、殺してやる」
ぷつ、と。
肌が裂けた。
真っ白な首筋、柔肌に切っ先が沈む。
ナマエを怯えさせてしまうことが。ナマエを泣かせてしまうことが。ナマエに嫌われてしまうかもしれない、ということがこんなにも自分を苛立たせるのだと気がついたリヴァイは、悲しかった。← →
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