いつか三人で笑う夜
リヴァイは主寝室で壁に背を預け、遠くのベッドを眺めていた。ここへ入るのは二回目だ。
ベッドにはナマエが寝ている。初めて見下ろした夜と同じく、ぴくりともしない。切り傷を縫合する痛みに耐えられるようにと睡眠薬入りの局所麻酔を打たれ、深い意識の底にいるのだ。
落ち着かない。リヴァイは腕を組み換えた。
部屋中にエルヴィンの気配が満ちている。そこに彼がいなくても、今はただリビングに行っているだけ、このあとすぐ廊下から顔を覗かせる、そんな気にさせられた。
毎日寂しいだろうか。ふいにそんなことを思う。恋人の影が濃く在る部屋、大人四人が寝ても窮屈しなそうなベッド。それらはナマエだけでは、広すぎる。
「終わったよ」
ベッド脇のイスに腰掛けていた医者、ジーク・イェーガーが息をついた。同時に眼鏡の端を持ち上げ、ふさわしい位置に戻す。
「……うまくいったんだろうな」
「うまくいくもなにも、ただ縫い合わせただけだ。手術の内に入らないさ」
その物言いに、リヴァイの顔が歪んだ。腕利きの医者だと自負していることの表れ。そう理解はできるが、不愉快さは拭えない。もし手を抜いていたら。裁縫でもするくらいの気軽さで処置を施していたら。
思うものの、強く出られはしなかった。ナマエが怪我をしたのは、元はと言えばリヴァイのせいである。
「抜糸は十日後、今日と同じ時間に来るよ」
「……了解だ」
ジークが荷物をまとめ始めた。赤ん坊が余裕で入れるほど大きいバッグは、医療器具をどんどん飲みこみ、丸々と肥えていく。
なかには脈拍を測定するための機器、手袋や薬剤、シリンジや剪刀、縫合糸などといった訪問診療に必要不可欠な道具が揃っている。往診バッグ、ジークの大事な相棒。といっても彼はモグリの闇医者なのだけれど。
今朝方ジークを呼んだのは、もちろんナマエだった。リヴァイは彼との面識などなかったし、名前さえ知らなかった。
「病気したとき、いつもお世話になってる先生なんです」と。病院へ行かせようとするリヴァイに首を振って拒否を示し、ナマエはひとつの連絡先が書かれたメモを差し出したのだ。
半分人間、半分ヴァンパイア。訪れた医者は、いわゆる混血者、だという。そのためナマエの事情も把握している。
リヴァイもベッドの傍まで行き、呼吸を細めた。そうして寝息に集中する。生の証。傷を触られても無反応だったナマエがちゃんと目覚めるのか、急に不安になった。
ゆっくり上下する腹部。その上に置かれた両腕。片方に巻いてある包帯は白く、規則正しい。万が一傷が開いても、やはりすぐに気づくだろう。エルヴィンを戒め、リヴァイを咎める色。
目線を移し、向かいの男をじっと観察する。
エルヴィンよりトーンを落とした金髪、特徴的な跳ね上げ式の眼鏡、生成り色のスリーピース・スーツは誠実な印象を与えるブリティッシュスタイルだが、それがむしろ胡散臭い。
顎を覆う、もっさりとした髭のせいかもしれなかった。そこだけ浮浪者みたいでちぐはぐなのだ。あとは、スーツの生成りという色もよくない。ジークが漂わせるタバコの匂いも相まって、ヤニで変色した壁紙を想像させる。
そんなふうにしばらく観察したけれど、外見は人間そのものだ。リヴァイやエルヴィンが身にまとう化けの皮、そのもの。
犬歯は伸びるか。毒腺はあるか。翼は生えるか。主食はなにか。歳は取るか。満月の夜はどうなるか。両親は健在か。人間と恋に落ち、愛し合ったヴァンパイアの結末は。
気になることは多い。でもリヴァイはどれも訊かなかった。唯一はっきりしているのは、陽射しの下を歩いてここへ来たジークは太陽を浴びられる、ということのみ。
「そんなに見るなよ。照れちゃうだろ?」
あからさまな視線に気がつき、ジークが肩を竦めてみせる。猿芝居だ。それに反応する観客はここにはいない。正面から、溜息が聞こえた。
「──ナマエちゃんの応急処置は一応できてたけどさ」
ジップが引かれる音。大きなバッグの口を閉じ、彼は「よっと」と大仰に背負った。身体がわずかに斜めっている。それほどまでに重量があるのだろう。
「止血する前に、傷口シッカリ洗わないと。手当ては最初が肝心なんだ」
「……覚えておく」
「“覚えておく”か」
どこか人を小馬鹿にするような態。扉へ向かうジークを、リヴァイは黒目だけで追った。
「……まあ、お前はヴァンパイアだもんな、リヴァイ」
吐き捨てるように言い、後ろ姿は玄関にまっすぐ突き進む。「どういう意味だ」と訊ねても答えはない。今度はちゃんと追いかけて、ジークが客人用のスリッパをスリッパラックに戻した瞬間、腕を掴んだ。
「ちょっと待て髭ヅラ」
「おいおい、いきなりやめろよ怖いなあ!」
「せっかく知り合えたんだ。男同士、腹を割って話そうじゃねえか」
「なんだ? 女の子とずっといて同性が恋しくなったか?」
そのひょうきんな口調に苛立つ。お互い様なのだろうけれど、ジークとはどうにも反りが合わない。すべての仕草がいちいち癇に障る。
「そんなところだ」
「ナマエちゃんといたら暇しなそうだけどなあ。あの子押しに弱そうだし、泣きつけばすぐ」
「くだらねえ」
リヴァイは被せるように言った。本当に、くだらない。
「そんなことするわけねえだろ」
「隠すなよぉリヴァイ! 俺も男だ、分かるよ。心配しなくたってエルヴィンには黙っ……」
──掃除が必要だ。ホワイトが基調の一面に点々と赤い飛沫が飛び散り、リヴァイは思った。
掴んでいた腕を引き寄せつつの重い打撃。ジークは眼鏡までも飛ばし、玄関ドアに背中を打ちつけた。バッグが落ちる。
「あいつがそんなこと、するわけねえだろうが」
ナマエが。心から一人を愛するナマエが、そんなこと。
「……なんだよ、お前……。なにカッコつけちゃってんだよ……」
手のひらで鼻血を拭い、彼はゆらりと眼鏡を拾った。装着はせずにいろいろな角度から破損がないかを確かめている。あーあ、汚れちゃったよ、ひどいなあ、と。こんなときですら語勢は軽い。
「あ、そうか。今さら後ろめたくなって、ナマエちゃんに詫びたくなったんだろ」
「ごちゃごちゃとうるせえなクソ髭……。なにもかも的外れだ」
「うーん。的外れ、か。うん。そのとおりかもな。俺はお前を勘違いしてた」
「はっ。てめぇが俺のなにを知ってる」
「……ヴァンパイアであるお前がまともな手当てなんかできるはずがなかったんだ」
クリーニングクロスを取り出すのが億劫なのか、ジークはレンズに汚れを残したままで眼鏡を掛けた。反射によって、表情を丸く切り抜いたように見える。
「お前はやるばっかりで、やられることはないもんな。怖がらせてばっかりで、怖がることはない」
「あ……?」
「なあリヴァイ、応急処置の仕方、ちゃんと覚えてくれよ? そしたら次回の仕事が楽になるからさあ!」
青灰の眼光が尾を引いた。ジークは再びドアに打ちつけられる。リヴァイは彼の胸ぐらを両手で掴み、持ち上げた。
「ぐ……。なんだよもぉぉ……痛ぇよぉぉ……。ホントのこと言われたからって怒るなよぉ」
「本当のこと? 悪いが俺はどっかの医者ほど賢くないんでな。はっきり言われねえと分からない」
なぜ突っかかってくる。と湧いた疑問は、口のなかで殺した。ジークだって半分はヴァンパイアで──。
そうだ。彼は半分だけがリヴァイと同じ。そしてあとの半分は、ナマエと同じ。きっとどちらの種族の側にもつきにくく、身動きは取りづらい。半端な生活。それはいったい、どんな日々か。
「……お前、他人の失敗作に『上手ですね』って声かけるタイプだろ……」
「嫌いな奴にはそうする」
「はは……。嫌になるなあ、エルヴィンといいお前といい……言葉を額面どおりに受け取ったら痛い目に遭う」
二人の身長差はおよそ二十センチほど。ジークのほうが、高い。それでも今、ジークのほうが物理的には窮している。気持ちの面ではおあいこだ。
「リヴァイ。ヴァンパイアと人間がやっていけると、本気で思ってるんじゃないよな?」
「……まさか」
「そうだよな。ありえない。エルヴィンもお前も、人間を喰って生きてる。人間は……ナマエちゃんは、お前らにとって食材みたいなものだろ? ただの食材を愛してるなんて言った日にはさ」
リヴァイはゆるゆると力を抜いた。
ジークが軽く咳き込む。ネクタイのない胸元を数回撫で、ジャケットの裾をぴんと伸ばした。往診バッグを持ち直し、やっと革靴に足を入れる。右、続いて左を靴べらできちっと納める。靴は、生成りのスーツによく合うブラウンの革だった。
「頭が狂っちゃったんだ、って、笑われるよ。餌を愛するヴァンパイアも、……その逆もな」
玄関ドアが押し開かれると、エレベーターホールまでの内廊下が延々と伸びている。窓はなく、昼間にしては不自然な明るさを放つ。リヴァイでも浴びられる、造りものの光。
「もし、愛し合ったら。……最期は太陽の下に送られて終わりだ。それか……そうだなあ、妻と子が、喉を裂いて自死でもするか」
振り返ったジークの目はとても昏い。すべてを飲み込んで、跡形もなく消してしまう夜の海みたいに。
「可哀想だ。それなのに愛なんて知っちゃったら、可哀想だ。そう思わないか? リヴァイ」
「……」
「子供だって作らないほうがいい。新たな苦しみを生むだけだ。……ホント、最初から生まれてこないほうがよかったんだよな。不完全な俺たちは、きっとさ」
ドアが閉まった。残り香が漂っている。コーヒーと、タバコ。それから、血。この血はヴァンパイアか人間か、どちらのものだろう。
空間がひどく汚れたと感じ、リヴァイは急いで壁を、床を、タタキを磨いた。そのとき、白いスニーカーが目にとまった。揺れないちょうちょが染まっている。
シミを抜くことは考えなかった。血が付着した靴など履かせられない。
リヴァイはそうして自分の物かのようにスニーカーをゴミ袋に詰めたけれど、上を縛ったあとも捨てられらずにいる。別に紐靴なんてほかにもあるし、ちょうちょ結びなんて何度でもできるのに。
袋はとりあえず置いておき、仕上げの消臭スプレーを玄関に噴射した。霧状の雫が舞う。廊下の灯りを巻き込んで、都会の夜みたいにきらきらと。
ブラインドが閉めきられた寝室へ戻り、リヴァイはベッドに腰掛けた。寝顔に振り向く。そこで眠るのはエルヴィンの恋人、ただの人間、リヴァイの、友人。
目じりをなぞってみればあたたかい。ナマエは、どうしてこうも柔らかいのだろう。女だからか。女はみんな、そうだっただろうか。リヴァイの指に当たった睫毛がくるりと丸くなった。涙の跡はもうない。
それを何度か繰り返したあと、静かにナマエの頬を撫でた。四本指の背で。親指の腹で。いつかエルヴィンがしていたように、起こさぬように。
“お前はやるばっかりで、やられることはないもんな”
「“怖がらせてばっかりで、怖がることはない”」
“リヴァイさんも、怖がってるから”
「……“朝陽を浴びて、食事したい”」
リヴァイの小さなつぶやきは霧と似ている、すぐに形を失くして消えてしまった。
今日はよく晴れているらしい。窓を隠すブラインドの隙から、陽光が強く射してくる。こんな日は本当なら、ナマエは外に出るべきだった。
「お前を簡単に投げ出せなくなっちまったじゃねえか、なあ」
まだ腹に置かれたままの腕、上下する真っ白なガーゼ、ナマエの呼吸、命。
ナマエは、朝陽を浴びられる。モンブランを美味しいと感じられる。歳を重ねて、いつか死ぬ。そしてナマエは。
「……エルヴィンを」
“ずっと死にたくない。エルヴィンさんと、生きていきたいの”
“頭が狂っちゃったんだ、って、笑われるよ”
「……」
もし、愛し合ったら。
リヴァイはナマエの腕の白色を、それからもう一度だけ頬を撫で、そっと立ち上がった。ジークが座っていたイスを引いて壁際にやり、腰を下ろす。
また腕を組み、足も組み、目を閉じた。
エルヴィンが帰ってくるまであと一ヶ月ほど。その間くらいはナマエをちゃんと守ろうと思う。生かそうと。エルヴィンのために、ナマエのために、自分自身のためにも。
一ヶ月後、彼らが再会した夜か、翌日の夜でもいい。リヴァイたちはレイトショーを観に行くのだ。三人で。──そう言ったらエルヴィンがどういう顔をするか、ちょっと想像がつきにくかった。瞼の後ろはただの闇。
けれどなんとなく、エルヴィンは笑う気がしている。「私がいない間にいったいなにがあったんだ?」と興味津々で聞いてくるはずだ。ナマエと手でも繋ぎ、優しげな瞳をして。
残りたったの三十日。きっとまた、時はあっという間に過ぎるのだろう。← →
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