Act.2

涙に濡れた救いの夜






 観るものがなくなった。

 ナマエがしょっちゅうエルヴィンと映画鑑賞すると言っても、毎日ではない。それにエルヴィンといればなにかしらのサブスクリプションで観たりするから家にあるディスクは意外に少なく、ついに底を尽きたのだった。

「レンタルショップに行きませんか?」

 そんなある夜。ナマエはダメ元で提案した。ズルいと分かっていながらも、定額料金を払えば映画が見放題になるサービスがあることは内緒のまま。

「いつもエルヴィンとはどうしてる」

 二人分くぼんだソファ。ナマエの隣で、ゆるりと肘置きに頬杖をつくリヴァイが視線を寄越した。

 このあと口から出る嘘が嘘だとバレないか心配になり、ナマエの視線はテーブルへ落ちていく。そこには洋画や邦画のパッケージが数枚。鑑賞済みのいんを押されたものたち。

「いつも……借りに行きます」
「……」
「ほ、本当ですよ」

 疑われる前に「信じて」と言うのは逆効果だ。でもそんなこと、考える余裕はなく。

 レンタルショップ行ったことありますか? 映画以外にもたくさん置いてあって、お笑いのライブとかドラマとか、あ、あと広いところだと本屋も併設されてたりして──。ナマエは饒舌をふるう。

 と、リヴァイがおもむろに立ち上がった。

「……リヴァイさん?」

 見上げれば、見下ろされ。

「着替えろ」
「っ、はい!」

 浮かれた足で自室へ駆けた。
 以前スーパーに行きたいと駄々をこねたときは頑なにノーを繰り返したが、今回のリヴァイは柔軟だ。ナマエは夜の街に繰り出せるのが嬉しくて、デート前みたいな気分で服を選んだ。





「イェーガー先生の血」

 一歩踏み出した足、ところどころ朱に染まったスニーカー、を地に着ける。二十一時のアスファルト。

「言うな。気色悪ぃ」
「気色悪いって……そんなに嫌いなんですか?」
「嫌いっつうか気に食わない」
「それ、同じじゃないの?」
「同じじゃねえ」

 ふうん、と答えながらもう一歩。舗装工事された綺麗な歩道は途切れ、たくさん踏みしだかれたのであろう古い歩道に切り替わる。ナマエはそのまま下を向いて歩いた。

『悪い、お前の靴を汚しちまった』

 リヴァイにそう謝罪されたのは一昨日のこと。言い合いという言い合いをしたわけではないけれど、ジークを殴ったのだという。

 詳細は知らない。語られないし、尋ねない。しかしナマエはジークを苦手としているので、いくら自分の担当医だといえども心からの同情は難しかった。

 ジークは優しい。優しいけれど、笑顔の裏になにかが潜んでいる。敵意か、悪意か。なんにせよプラスの感情ではない。眼鏡のレンズより濃く曇る瞳の傍にいると、いつでも緊張した。

 混血者ハーフである彼ならナマエの存在を受け容れてくれる、と。期待してはいるのだけど。

「にしても、エルヴィンはあのクソ髭と仲良しこよししてんのか? 考えるほど恐ろしいな」
「……仲はあんまり」
「ほう」
「イェーガー先生の弟さんを、エルヴィンさんが研究所に行かせたから」
「WALLか」
「知ってるんですか?」
「聞いたことがある」

 WALL分子生物学研究所。医学や生物学に関しての基礎研究をおこなっている、海外の国立研究機関である。

 そこにハンジ・ゾエという者がおり、ハンジは人間だが、吸血鬼の存在も認識していた。異種族が共存していける未来を実現させたいという異色な研究者だ。

「俺みてえな奴らの研究してんだったか」
「はい。それで今、ハンジさんに協力してるのがエレンく……イェーガー先生の弟さんなんです」
「クソ髭の……。汚らしいんだろうな、そいつも」
「全然! モデルみたいにかっこいいんですよ。髪の毛がここらへんまであって」

 ナマエが鎖骨下胸上で手のひらをスイスイ動かすと、「綺麗ではなさそうだ」とリヴァイはぼやいた。うんざりしたように顔を顰めている。

「……エルヴィンさんが弟さんとハンジさんを繋げたから研究に協力してくれることになったらしいんですけど」
「イェーガー先生は大反対」
「はい」
「一歩間違えば死ぬからな」
「……はい」

 ジークは弟想いだ。そして優しい。なのになぜ、裏があると感じてしまうのだろう。

『大好きな人がいたんだ。俺にもね』

 ふいに過去がよみがえった。たしかナマエが風邪をこじらせてしまい、真っ青になったエルヴィンが医者ジークを呼びつけた夜の会話。

 吸血鬼エルヴィンのあまりの過保護っぷりに、あの日ジークは呆れていた。『愛されてるなあ』と肩を竦めて。そして、エルヴィンが出ていったわずかな隙に語りかけてきたのだった。

『──その人は、クサヴァーさんは応えてくれた。俺が投げたものを受け取って、返してくれたんだ。やりとりだよ。意思の疎通。自分と他者の繋がりってものを、俺はそのとき、初めてここで理解した』

 ここ、とジークが叩いたのは自分の胸。不思議と幼子のような声色だった。

『他者に認知してもらえないと、自分自身が消えていく。そんな経験、ナマエちゃんにはないかなあ』

 認知してもらえないと、分からなくなるんだよ。俺は本当にここに居るのか? どこから来たんだった? どこを向いて歩いていけばいいんだ? なにもかも、分からなくなる。

 でも、と。彼はバッグのなかから、野球ボールを取り出した。

『簡単な話だったんだよな……。目を見てもらえるだけでいい。名前を呼んでもらえるだけで。こいつを投げたらキャッチして、それでまあ、投げ返してくれたら一番いい。それだけで充分、進むべき道を見出せる』

 ナマエは高熱に魘され、うつらうつらとしていた。半分以上入眠していたかもしれない、汚れたボールを弄ぶジークが穏やかに微笑んでいた気がするのだ。泣きだしてしまいそうにも見えた。

『そんなクサヴァーさんもさ、エルヴィンと同じだったよ。……ヴァンパイアで、人間の女に惚れて。子供を作った』

 そういえば。大好きな人の名を呼ぶ瞬間、その二秒にも満たない瞬間だけだった。彼がひとりぼっちの幼子みたいな声をしたのは。

『だけど完全な異種族間の愛なんて長くはもたないものなんだ。そもそも最初からなかったんじゃないかと俺は思ってる。……じゃなければ、正体を知っても妻と子が喉を』

「っ、」

 クラクションがけたたましく鳴り響く。ナマエは耳を押さえてハッとした。

 雑踏、人混み、点滅する電光掲示板、夜色を背景に選んで描かれたカラフルな街、所狭しと並ぶビル。隙間を縫うように人が歩き、笑い声とすれ違った。

 ──喉を、どうしたと言っていた? 立ち止まって思い返そうとするも、一向に出てこない。

 近くのコンビニが自動ドアを開けた。少しも知らない曲が聴こえ、最新のヒットチャートだろうかと思った。こんなところにコンビニはあっただろうか、とも。

 街は。
 外は、三年の間に随分と姿を変えたようだ。ナマエもその分歳を取り、きっと変わった。

 でもエルヴィンは? 愛しいあの人は。

「あ……、」

『ナマエちゃんがいることで、“生まれてこなければよかった”って嘆く日が……いつかエルヴィンにも来るかもしれないだろ?』

 どうして忘れていたのだろう。

 クサヴァーの妻は、喉を裂いて自害したのだ。子の喉も裂いて道連れにした。そしてクサヴァーは、己の生を否定した。

 ジークがナマエに向けるのは敵意でも悪意でもない。相容れない、とても信じられない、ヴァンパイアを愛し、ヴァンパイアに愛されようとする心が哀れで仕方ない、そんな念、隔意だ。

「……なに突っ立ってる」

 気がつけばうつむいていた。顔を上げると不機嫌そうな面差しが。リヴァイは「邪魔になる」とナマエの二の腕を引き、道端へ移動させた。

 後ろで黒髪を見つめる。東京の夜よりずっとずっと綺麗な色をしている。正しい黒。
 この人は都会にいては苦しそうだ、とふと感じた。エルヴィンには感じないというのに。

「オイ」

 再びアスファルトと睨めっこして黙りこくると、そんなナマエと視線を合わせたいのか、リヴァイが体を傾けた。覗き込まれてしまってはどうしようもなく、隠せもせずに。

「……寂しい」

 ボロボロと本音が、涙があふれた。

「エ、エルヴィンさん、に、会いたい……」

 寂しい、寂しい、──怖い。

 エルヴィンのいないところで、エルヴィンの知らない朝をいくつも迎えて。時だけが確かに過ぎていく。今日もナマエは。ナマエだけはひとつ、死に近づいてしまう。

「リヴァイさん……」
「……なんだ」
「わた、私がいたら、エルヴィンさん、後悔する……?」

“だがあいつはお前とは違う、同じ時を生きられない”

「生まれてこなければよかった、って……思うかもしれない……?」
「……んなわけねえだろ。ジークになにか言われたか」
「“お前の存在はエルヴィンを苦しめる”って……リヴァイさんも、言った……」

 責めたいつもりじゃない。八つ当たりでもなかった。

 この寂しさは失せるだろう。エルヴィンが戻り、またナマエを抱きしめてくれれば。きちんと消えてくれるだろう。

 じゃあナマエが死んだあとは?

 エルヴィンは永久とわを知っている。無常のなかで朽ち果てていく記憶から、彼の寂しさは失せるだろうか。愛が朽ちない限り、その愛が生んだ寂しさはきっと消えない。

 エルヴィンが酷く朝を恐がるときがある。そういうときはナマエをきつく抱きしめ、愛していると何度も何度も言う。落ち着くまでに長い時間を要する。それがなぜだか、ずっと分からないでいた。

“お前たちが共にいるのは間違ってる”

“仮にそうだとしても。間違ってても、私は気にしない。ずっと傍にいたいの”

 後悔、しそうになる。

「……ったく、いきなりなんなんだ。さっきまでレンタル屋だなんだと浮かれてたろ」
「ぞ、ぞゔでずげど」
「ッ、オイオイきったねえな……。鼻垂らすんじゃねえ」
「ぅ゙、む゙」

 いきなりごしごしとまず目元、次に鼻の下を拭われ、おかしな声が呼吸と共に漏れた。リヴァイはハンカチを持っていたらしい。目的地は手ぶらで済むような近所、にも関わらず。

 拭われながら鼻頭を見るみたいにすると、明るいネイビーが飛び込んだ。ふちは濃いネイビーだった。

「すするな」
「ん゙、」
「かめ」
「私、子供じゃない」
「分かってる。ほら」

 押しつけるようにされて、ナマエはハンカチを持つ。清潔な部分を探そうにも鼻水や涙で砂金より見つけづらい。

「ずみまぜん。リヴァイさん、綺麗好きなのに」
「俺が綺麗好きだと知ってたのか」
「……知ってますよ」
「なら話は早い。それ、新品同然にして返せよ」
「お、お任せを……」

 溜息をひとつ吐き、リヴァイは「待ってられるか」と言った。頷いたナマエに背を向け、近くのコンビニへと歩いていく。

 一緒に行きたい。
 思ったものの、なんとなく言いにくくて口を噤んだ。

 足元を眺める。かかとをつけたままつま先を浮かせて左右に振った。飛べないちょうちょ。血に染まったちょうちょが揺れる。

「ナマエ」

 目の前から突然呼ばれ、びくりと肩が震えた。驚いた表情を持ち上げる。声はリヴァイのものだから、誰に呼ばれたかは当然把握していたけれど。

「……なんつうツラしてやがる」
「な、名前……。今、私の名前呼んだ……」
「ああ、呼んだが」
「私の名前、知ってたんだ……」
「……来い」
「待ってなくてもいいんですか?」
「いい。待てねえだろ、お前は寂しがり屋だからな」

 じわじわ、景色が滲んでいく。
 空調が整えられたコンビニ。商品の緑、黄、茶、橙、赤が水を足した水彩画みたく、一斉に。

 リヴァイは流れ作業のように陳列棚から手のひらサイズのミルクティーを取り、レジを通した。一度もナマエを振り返らなかった。
 そうして外へ出て、キャップを開ける。パキッと軽快な音がした。

「飲め」

 ちょっとゆるんだ蓋付きのペットボトル。差し出されたナマエは数秒間目を見張り、「いらねえのか」と言われてようやく受け取った。喉を潤せば、手作りしたものよりもかなり甘い。

「リヴァイさん、のだと思った……」

 つと目が合う。──が、すぐに逸れた。リヴァイはなにも言わなかった。

 大通りを歩き出す彼を慌てて追い、人と人との激しい波間を泳ぐ。

「たしかに俺は、お前の存在があいつを苦しめると言ったが」

 リヴァイの言葉をしっかり拾うため、ナマエはさらに足を早めて横へ並んだ。スッとした鼻筋が映る。リヴァイは前を見続けていて、ナマエだけが隣を見続けていた。

「俺はエルヴィンじゃねえのになんでそんなことが分かるのか、って言ったのはお前だろ」
「……」
「大丈夫だ。あいつがお前を選んだんだ、前向け。あいつを信じてろ」

 返事をしたい。お礼を言いたいのに。ナマエの喉は震えるばかりで、ひとつも気持ちを言葉にできない。

 しばらくして泣き止んだ頃、家から離れている、大型のレンタルショップに到着した。ナマエが言ったように書店も併設されているし、ノマドワーカーが集うカフェもある。

「リヴァイさん、来たことあったんですか」
「ない」
「でも、道……」
「んなもん調べりゃ分かる」
「調べて、くれたんですか」

 ダークブラウンが目立つ空間を二人で歩いた。新築みたいな匂いと、本の匂い。人々は静かで、ナマエも都会の喧騒を忘れる。

「お前が道を知らなそうだったんでな」
「どうしてそれ……」
「嘘はもっと巧くつけ」
「え……」
「ここに来たこと、エルヴィンには黙ってろよ」

 いつもエルヴィンと借りに行く、そんな嘘、とっくにバレていたらしい。恥ずかしさや気まずさ、申し訳なさが体温を上昇させた。それから、胸に広がるあたたかさが。

「リヴァイさんっ。ありがとうございます!」
「うるせえ、店内で騒ぐな。さっさと借りて帰るぞ」
「はいっ」

 周囲に置かれているものが本や雑誌ではなく、レンタルCDやDVDに替わった。リヴァイはスタスタと先を進む。たまに立ち止まり、棚を見つめたりする。なにを観るか本気で思案しているふうだ。

 リヴァイには人情味がとてもある、とナマエは思う。抱く感情の種類はエルヴィンより少ないように見えるが、それはただ表に出にくいだけのことで、内側にはたくさんの想いが隠れていそうに思うのだ。

“あいつを信じてろ”

 寂しかったこと、泣いてしまったこと、不安だったこと、怖かったことをハンカチと共に握り締める。

「“大丈夫”」

 かすかにつぶやき、ナマエは傍らのカゴをひとつ取った。レンタル専用、小さめのプラスチック。リヴァイはたくさん借りようとするだろう。

 遠くなっていた背中がふいに振り返った。ボケッとしてんな、早く来い、とでも言いたげな顔をするので思わず笑う。ナマエが小走りに踏み出すと、床がスニーカーにこすれてキュッと鳴った。







  

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