ノット・マニュアリズム
雨の日に迎えに来る南雲/2024.09.09





 雨のにおいが好きだ。地面が土であってもコンクリートであってもあの独特にたちのぼる香りを愛することができたし、窓の厚みのぶんうすくなる雨音を聴くのだって情緒があっていいなんて感じる。でもだからといって、雨のなかを──とくに土砂降りのなかを歩くのが好きなわけじゃないから、今日はお昼からずっと気分がどんよりしていた。たとえばちょうど、いまいるデスクの窓から見える、灰色の空みたいに。
 ぐずついた天気から目を逸らし、パソコンとにらめっこしながらも自分の通勤バッグの中身を考える。そこに傘はもちろん入ってない。あいにく今日は、日傘も持ち合わせていなかった。

「はーあ……」

 湿ったストッキングやつま先。水を吸って重くはりつく服。じめっとした空気のなかで吸いこむやけに熱い息。びしょ濡れで帰ることを予想すれば、当然うなだれてしまう。



「傘ねえの?」

 定時を少し過ぎ、オフィスを出た。降下していくエレベーター内、問いかけてきたのはともに乗り合わせた同期の男だった。私よりほんの数センチ高い彼の目線が、私の、空っぽの両手を捉えている。

「今日は降らないって予報だったから」
「まあなー」
「むしろなんで持ってるの? そんなおっきい傘」
「デキる男だから?」
「……はいはい」
「呆れ顔やめろって。これ、置きっぱだった忘れモン」

 ひとり、ふたりと乗りこんでくる人が増えるたび、ドアが開閉してぽおんと間延びする音が響いた。そのなかで小さく掲げられた傘は骨組みのしっかりとした、頑丈そうなものだった。
 エレベーターが一階へと到着する。いつまでも新築じみている、新調したてのカーペットにも似たにおいのする箱を降りる。

「お前なに線?」

 唐突にたずねられて答えれば、駅は一緒だなと返事があった。

「俺の傘入ってけば?」
「いいよ。そこのコンビニで買うし」
「歩いたってそんなかかんねえだろ。買うぐらいなら入ってけって」
「うーん」

 どうしようかな、ここは甘えようかなあ。迷った瞬間だった。同期があっと歓声をあげた。つられるようにして横を向けば、出入口に位置する回転ドアの奥、ビルの外を見やり、雨やんでんじゃん、とひとこと。

「ほんとだ!」

 青空こそ出てないけれど、天候はおだやかに凪いでいる。ビルを出ると小雨ですらなく、生ぬるい風が首すじを撫でていくだけだった。いま水滴を垂らすのは、出てすぐの歩道に等間隔で植わる木々だとか、電柱を繋ぐ電線ばかり。

「ラッキーだね。いまのうちに帰っちゃおっ、か……」

 ふと、数メートル先に見知った人影を発見した。つい言葉尻がこんがらがる。ミョウジ? 同期の呼び声が耳に届く。
 ビル真ん前の大通りの、その手前。車道と歩道とを遮る、うす汚れた白いガードレールのあたりに知人は立っていた。ぼろぼろのシールを貼られたガードレールがむやみやたらに低く見えるのは、傍に立つ男──南雲くんの身長があんまりにも高いせいかもしれない。だぼついたワイシャツ姿の彼は今日、いつものトレンチコートを羽織っていなかった。葬儀屋みたいなブラックのジャケットも。彼の両手はスラックスのポケットにつっこまれていて、片方の手首には一本、コウモリ傘がひっかかっていた。蒼い夜光に照らされた肌が妙に白っぽいせいで、モノクロ映画の住人のように映る。

「知り合い?」

 同期に聞かれ、だけど私より先に答えを出したのは南雲くんのほうだった。彼はやっほ〜とひらひら手を振っている。そうしてこちらまで近寄ってきたあと、お疲れさまーとはずむ口調で続けた。お互いに触れられるくらいの距離に落ち着けば、おさまった雨の残り香に、彼の存在が交じって香ったようだった。

「南雲くん、なんで」

 こんなとこにいるの? 質問しかけた口が止まる。話し相手である南雲くんは、私じゃなくて私の後ろをじいっと見つめていた。同期のほうを。つねにゆるい雰囲気をたたえ、絶えない笑顔を浮かべる彼の口角はいまもかすかにあがったままだ。一見するとほがらかな表情だけど、目つきだけは暗雲をはらむようにくらかった。なにかを見定めるみたいでもあった。昔、一緒に働いていたときに垣間見た、任務中のまなざしとなんら変わりなかった。

「どうも」
「どうも〜」

 同期のささやかな挨拶に、南雲くんもオウム返しする。だれのことでも落とせそうな、たやすく篭絡してしまいそうなほど甘ったるい声色には、すでに刺々しさなどはない。

「もしかして、これからふたりでどこか行くところでしたー? 飲み屋さんとか〜」
「いや、そういうわけじゃないっすよ」
「そ? よかったー。じゃあナマエのこと、もらうね」

 雨上がりにぴったりの、きらきら光るような笑顔で宣言され、えっ、とおもわず上擦った声を出した。そんな言い方をしたら、私たちが深い関係をもっているみたいだ。

「行くよ〜」

 南雲くんに腕を掴まれ、ひかれれば勝手に一歩を進んでしまう。きっと誤解している同期に訂正するまも与えてもらえず、私の身体はもう一歩、さらに一歩と動いていった。同期が立つのとは逆の方向へ。

「ま、また明日ね。傘のこと、ありがとう!」

 ふり向くような姿勢のまま、とりあえずのお礼のみを伝えると、南雲くんも軽く後ろを仰ぐ。そのぱっちりとした真っ黒な瞳は、しばらくの間、目礼をしてから去っていく同期の背中を見つめ続けていた。
 会社を出て少ししたところで曲がり、遊歩道へと入る。靴底が敷かれた木板を叩く。足もとの板は普段に比べ、とりわけ色が濃い。濡れているし、夜でもあるし。

「南雲くん」
「ん〜?」
「変な冗談やめて」
「変な冗談?」
「私のこともらうとか」
「ああ、たしかにあの言い方じゃナマエちゃんを物扱いするみたいでよくなかったか〜、ごめん」

 そういうことじゃなくて。思いつつ、口をつぐむ。のらりくらりとかわされる、手応えのないやりとりに戸惑いたくないから質問を変える。

「なんでウチの会社の前にいたの」
「迎えに来たんだよ」

 横を行く南雲くんが空を見上げるようにした。長めの髪の毛が、ワイシャツの襟首ではねる。

「ナマエちゃんのこと。雨が降ってたから迎えに来たんだけど……雨、やんだね」

 私も同じくうなじを逸らせ、真上を見やった。遊歩道の両はじを埋め尽くす木々、頭上にまで伸びる枝先たちや葉っぱの影。それらの合間に覗くのはつめたいグレイの高層ビル群ではなくて、点々と現れだした雲間と藍色の空だった。そういえば、掴まれた腕はいつのまにか離されている。

「あーあ、相合傘したかったのになー」

 いまだに上を向いた状態で、南雲くんが唇を動かした。可愛らしいひとことに、ついため息をもらしてしまう。

「そういうこと簡単に言わないほうがいいよ。共通認識がなければ、冗談もただの嘘になったりするんだから」

 ぴたり。傍らの足が静止する。血にも土にも汚れていない革靴は、そのクセぷっくりふくらむ雨滴をつけていた。私が出てくるまで、どの程度の時間待っていたんだろうか。いまさらそんなことを考える。

「ナマエちゃんは」
「なに?」
「僕が嘘ついてると思ってる?」

 澱みのない瞳がこちらを向いた。丸っこく、きれいなくらいに真っ黒い瞳。

「……思ってないよ。冗談だってわかるから」
「ね、ナマエちゃん。もし雨がまだ降ってるとするでしょ?」
「うん」
「それで、僕が来てなかったとする」
「うん」
「そしたら、さっきの人に傘借りて、一緒に入って帰ってた?」
「たぶん」
「……ふうん」

 一拍おいて、返事があった。とても小さいボリュームの。
 さらさらと黒髪が流れていく。追いかけるようにして初めて、いまのいままで南雲くんが私に歩幅を合わせてくれていたんだと気がついた。
 ときおり、頭の上の梢から雫が落ちてくる。うちの一滴がおでこを濡らすから、つい「うわ」と声をあげると、前方の人影がふり向いた。雨粒が……といいわけしながら湿った箇所をさすれば、南雲くんは引き返すようにしてやって来て、私の前へ立ちはだかった。壁がそびえるみたいな圧迫感だった。

「信じてくれてもいいじゃん」
「へ?」
「……僕は、雨に日にだれのとこにでも傘届けに行くほど優しくないよ」

 おでこをさわっていた自分の手の、上に、重なるもうひとつの体温。骨ばった手の甲が、鏡写しみたくなっている。

「きみ以外の子だったら迎えに行かないし、……そもそも雨だ、あの子は大丈夫かなって思い出したりしない」

 言ってる意味、わかる? そう訊かれて、うなずいた。うん、と。

「さっきからうんばっかりだね」

 わずかにフキゲンな声音をさせ、踵を返した南雲くんは遊歩道を行く。私も、追いかける。急いで追いつくと、ワイシャツの腰らへんをつまんで引き留めた。立ち止まった彼の、腕にぶら下がっていた傘をとる。ワンタッチでひらくそれを広げれば、雨上がりの景色が一部、真っ黒に染められる。

「……ナマエちゃん? どうしたの?」

 タトゥーの入った首をかしげる彼の上に、傘を掲げた。ふたりで入るかたちになる。

「こうやって行こ。傘、さしたまま行こう」
「えー? 雨やんでるのにさしてたら、変な人たちだって指さされちゃうよ〜」
「南雲くんが言ったんだよ、相合傘したかったって」
「わ。やば〜……」

 つぶやき、へにょへにょくずおれていった南雲くんはその場でしゃがみこんだ。

「な、なに?」

 うつむきがちな頭のてっぺん、つむじを訝しげに見下ろす。彼は両手で顔を覆い隠し、ハアァ〜と特大のため息をついた。やがて軽くひらいた指。それらの合間から私を見上げてくる双眸は、夜の果てみたいだ。

「……こういうこと、簡単にしないほうがいいよ」

 ていうか、と。囁くように南雲くんは続け、スと立ちあがる。ついでに傘を奪われたけれど、それは煌々と照る月明かりのもと、閉じられることはなく。

「僕以外にしないで」

 八角形の傘の下。直径一メートルほどのスペースが、たったいま私たちの居場所だった。ふたりの遠さで、ふたりきりの近さだった。

「……言ってる意味、わかる?」

 南雲くんが眉尻をかすかに下げた。まんまるの大きな瞳も細められ、呆れたふうに微笑む。

「わかる」
「本当かなあ」

 ヘナヘナの弱った笑顔はなんだかめずらしい。勝ち気で、腹の底を読ませないような、彼の気持ちに踏みこむのをためらわせるような、深入りしづらくなるほど完璧で正確な笑みばかりを、私は過去に数えてきた。

「本当」

 と。湿気まみれのなかちゃんと向き合い、きっぱり断言してみせる。

「こんなふうにしてるのは、南雲くんがしたいって言ったからだよ」

 ほかのだれでもなく、南雲くんがしたがったから。

「だったらさ、ナマエちゃん」

 彼は身体の向きを変えた。私に向き合うのをやめて、遊歩道の先、前方へと。すうと尖った高い鼻。かたちのいい唇や、あご。南雲くんの横顔。

「雨、やんだし。せっかくならこのまま、遠回りして歩こ〜」

 歌うみたいにおねだりされる。黒い傘が揺れる。大袈裟に。あるいは楽しげに。いつしか頭上に広がる空のほうが、南雲くんのもつ傘以上によっぽど明るく、カラフルになっていた。はるかな月光がやわらかなヴェールを作りだし、周囲を覆っている。あちこちにたまった雨粒に光が反射する。ふいに、モノクロめいたひとりのひとが存在するおかげで、このごくごくありふれた風景に色が在ることを知るのだと思った。

「うん。賛成」

 私も前に向き直る。すっかり晴れた空の下、通行人にじろじろ見られたり笑われたりしながらも、ふたりでばかばかしく傘をさし、ほとんどおそろいの歩幅で歩いていく。
 雨のにおいが好きだ。音も。だけど雨自体は大嫌い。なのに、南雲くんと相合傘できるならいますぐ本物の雨に降られても構わないと感じられた。
 指先同士が自然に絡む。手を繋げば、辺りがトーンをぐんと上げた。ひときわあざやかな夜だった。



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