夜の底
まだ帰りたくないと言う/20241207





「まだ帰りたくない」

 二十三時を過ぎていた。
 駅に向かい、多くの人が足早に歩いていくのが尻目に映る。ベージュのコートや真っ赤なマフラー、カーキのジャケット、淡いピンクのニット帽。いろんな色をまとう人影が横を通っていくたび、それらと街中を彩るイルミネーションとが重なって、寒々しい冬をきらめかせるみたいだった。
 二軒目の居酒屋を出て数分。アルコールの熱を帯びる私にふり返り、「ナマエちゃん、帰りはタクシーに乗りなよ。ひとりで電車乗るの危ないし〜」と提案したのはいつもどおり南雲さんのほうだった。
 でも私は、いつもよりも酔っていた。胸の内側のもっとずっと奥まで酔いしれて、甘く酩酊する心地の夜だった。だから手向けられた健全な提案に対し、帰りたくないという本音が口をついて出た。
 うつむきがちになれば、私の唇から真っ白な息がこぼれる。それはエナメルみたいにつややかな夜のなかに落ち、溶けて消えた。きれいに磨きあげられた男物の革靴が視界の隅でぶれる。南雲さんがこちらに向き直る。たった一歩踏みこまれるだけで、私たちの距離はたやすく埋まった。

「じゃあ、どこか行こっか〜」

 初雪くらいにささやかな返事が降り、顔をあげると、南雲さんはひと目で上質なものだと見てとれるコートのポケットに両手を入れていた。視線が交わればおだやかな笑みを浮かべる。そのままおもむろにスマホを取り出して、数回タップした。画面が光り、なだらかな頬が照らされれば肌が蒼白く濡れているようになる。伏せられたまつげを見ながらも、肯定的な言葉を返されたことに私は少なからず驚いていた。

「もう少し歩ける?」

 スマホに顔を向けている南雲さんが、上目遣いをするみたいに目もとだけを動かした。それでも充分に背が高いせいで、見上げられているという感覚にはならない。
 はいとうなずけば、スマホはまた、南雲さんのポケットのなかにしまわれる。

「ついてきて」

 タトゥーのある首がかすかに傾いた。さらに笑みを深くした彼の髪がなびく。漆黒の髪の毛は、この時間帯の世界とまるで似ている。
 コートの裾をさばき、身をひるがえした南雲さんを追うと、広い背中では大ぶりなジュラルミンケースが揺れていた。
 信号機の灯りや繁華街のネオンが反射する道を行く。居酒屋のたち並ぶ角をいくつか越える。けばけばしいライトの下を歩き、歓楽街に漂うオードトワレの香りをかきわけて、雑踏のなかを泳ぐように進んだ。

「大丈夫?」

 数歩ぶん前を行っていた南雲さんがふり向いた。いまの彼の雰囲気は、普段以上にゆるい。お酒のせいもあるのか、会社で見せるのとはまた別の気配だった。

「ごめんね。歩くの、ちょっと早かったか」
「平気です。考えごとしてたら私がゆっくりになっちゃって」

 駆け寄れば、アスファルトをパンプスのかかとが小さく叩く音が耳に届く。他に足音はない。ずいぶん人気ひとけのない場所へやってきたんだと、いまごろになって気がついた。

「……考えごとね〜」

 彼の大きくてまるっこい瞳が。真夜中とうりふたつの眼が、すう、と細まる。優しく、丁寧に、刃物で素肌をなぞるみたいに。私の真ん中、心臓がよりいっそう激しく脈動した。南雲さんの形のいい唇が柔い弧を描く。

「もうすぐ着くから」

 今度はほんの半歩ぶんしか離れない。ほとんどとなりを歩きだした彼との距離が、とても近かった。ときどき腕が触れ合うくらいに。



 ふと、ざわめきさえも少なくなってきたあたりでわずかな緊張感をおぼえる。周りはホテル街で、ピンク色の景色にまみれていた。どこへ行くんだろう、たずねてみればよかっただろうか。腕を組む男女とすれ違い、心臓ばかりがうるさくなる。
 でも、と思う。でも、南雲さんといられるのならと。どこだっていい、ホテルでだって。──なんて期待してしまうのも、事実だった。
 少しして、傍らの足が止まった。雑居ビルや光る電灯の合間をぬい、辿りついたのは小路こみちの突き当たり。目の前にはそびえるビル、それから目立ちにくいひとつの扉がある。重厚な漆塗りの、ローズウッドのドアが。わきにはタッチパネルが設置されていた。

「ここですか?」
「そうだよ〜」

 パネルに人さし指をあてる姿を見上げる。

「なか、バーになっててさ」
「バー……看板とか出てないんですね」
「うん。こうやって指紋を登録してる人しか入れないし、マスターは僕らのことを知ってるから……結構くつろげるんだよね」

 僕らのこと。殺し屋である、ということ。
 指紋認証を終えたらしい、ドアがひらくと下へ伸びる階段が現れた。通路は薄暗い。ドアが開けば、店内から漏れにじむかすかな音楽が聴こえた。

「どうぞ〜」

 南雲さんがにこやかに扉を押さえ、待っていてくれる。一方で私はスムーズに踏み出せなかった。このあとはふたりっきりになるのかな、ホテルに泊まって朝帰りかも、なんて変に期待した自分に、呆れ果てていたせいで。

「ナマエちゃん?」

 どうしたの? 南雲さんから声がかかる。

「帰りたくなっちゃった〜?」
「あ、えっと。そうじゃなくて、」
「それとも」

 慌てて首を振り、入口をくぐろうとすれば、上背のある彼が背を丸めた。私とのすれ違いざまだった。自然と立ち止まってしまうと、顔を覗きこむようにされる。黒々とした瞳が間近に迫る。あんまりにも近いから、こくりと息を呑んだ。

「もっと、違うところに連れていかれたかった?」

 喉、が。震えた。自分の目線が泳ぐのがわかる。こんなに至近距離で見詰められていては、揺らいだまなざしなんて、きっとすぐにばてしまうのに。
 フと、南雲さんの下まぶたがうすく湾曲した。いじわるな笑顔に思えた。私のすべてを見抜いている、と言うみたいな表情。

「……ナマエちゃんはどうしたい?」

 さまざまな記号の彫られた指がふいに近づく。髪束を耳にかけられて、そのくすぐったさに肩がはねた。じい、と瞳を向けられればキス寸前の距離に感じられ、おもわずまぶたを伏せる。骨ばった手首が目の前に見えた。巻きつく腕時計のシルバーも。南雲さんからは、香水の香りも、血のにおいも、お酒のにおいも、なんにも、しなかった。そういえば今夜、南雲さんはそんなに飲んでいない。
 再び視線を持ち上げる。目が合うと、彼のほうは「ん?」と口角をあげた。
 南雲さんは待っている。私がなんて答えるのかを、ただ、優しいふりをしながら。死に方を選ばされる標的ターゲットの気持ちはたとえばこんなふうだろうか。じわじわと追い詰められていくみたいで、どうしようもなくなる。

「南雲さんと、ふたりきりになりたい、」

 ぽわ、とする頭でばかげた願いを口にする。だっていまこのひとに、すべてを奪われてしまいたかった。目も手も足も素肌も心も、唇も。

「ん、」

 ふにと唇の潰れる感触。タトゥーのある指が私のそれをなぞり上げたのだった。うーん、と南雲さんが小さく唸る。

「それは聞けないお願いごとかな〜」
「そ、……うですよね、すみませ……」
「ナマエちゃんがさ」
「はい、」
「酔ってないときに、また言ってよ」
「へ……」
「お酒のせいにできないときにおんなじこと言ってみせて。そしたら」

 南雲さんが片足を、一段ぶん降りた。バーに行くよ、とうながすみたいに。

「ちゃんと、ナマエちゃんの言うこと聞くから」

 にこりと笑う彼の、輪郭がぼやけていく。アルコールがまわっているのかもしれない。

「おいで。足もと気をつけてね〜」

 手のひらを取られた。重ねた南雲さんの手は硬くて、武骨で、大きい。支えられたまま階段を降りていくと、心地の好いBGMがボリュームを増した。
 バーに入りながらも、いますぐお酒がさめてしまえばいいのに、と思った。今夜このまま、なにもかも全部、お酒のせいにできなくなりたかった。
 どくどくと心音がうるさい。だけどこの胸の高鳴りは、お酒を飲んだために起こってるものではないということを、私はもう理解していた。



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