私の影法師
救いが欲しいときに南雲と出逢う/20250211





 都会が嫌いだった。
 どこを歩いても人にぶつかりそうになるし、みんながみんなゾンビのような顔つきで生きている。親しげなご近所づきあいはおろか、名前を教え合う習慣もない。喧騒のなかにいても自分の存在はうすれていく一方で、私に味方はいないんだ、と、まざまざと思い知らされた。
 いまも周りには高層ビルが群を成している。ネズミ色の建物の合間をぬい、進み、辿りついたこの行き止まりにあざやかな色はない。私を取り囲む壁にはシルバーのパイプが大袈裟に走り、備えつけられた室外機だけがゴオオ、と音を立てていた。
 しゃがみこんだ地面もアスファルトで、視野に入るものはほとんどがモノクロだ。それらがさらに翳ったのは、ビルのすきまを細く埋める空にもどんよりとした雲がかかったせいかもしれない。
 暗くなった手もとを見下ろした。ひらいたままの折りたたみナイフを握った自分の手。目の前には血だまりと、動かなくなった男──義父の身体と。
 荒い呼吸が自分の唇から漏れていく。おもわず、しりもちをつくように後ろへ座りこんだ。
 男の死体から流れる真っ赤な血は、布を染色するみたいに、ゆっくり辺りに広がり続けている。それだけが、いまの私の世界に色を乗せた。
 からんからんと小気味好い音が鳴る。自分の手からナイフが落ちた音だと気づくのに、数秒を要した。
 人殺しになってしまった、とか、はやく逃げなくちゃ、とか、そういったことはどうしてか意識のずいぶん遠くにあった。動くことができず、たったいま殺したばかりの男をボンヤリ眺める。
 私が折りたたみナイフを買ったのは、いつごろだっただろう。購入後、この男の傍では常にもち歩いた。そうしてわずかな安堵感を得ながら、私はいつでも義父の後ろを歩いた。となりを歩きたくはなかった。絶対に。母の目を盗み、下卑た手つきで私をさわるこの男のことが、大嫌いだ。
 私はもう学生ではないし、ましてや十代でもない。だからさっさと家を出てしまおうと思う反面、唯一の肉親である母を、悪魔めいた男のもとへ残すことができないでいた。
 そして今日。
 私はとうとう義父を刺した。
 人通りの少ないところへ連れ込まれ、誰も来ないからと服に手をかけられ。瞬間、プスプスと自我の焼き切れるにおいがしたのを憶えている。ナイフを握りしめ、衝動に駆られるままふりかぶった。
 男の、腹の皮膚は簡単に裂けたのに、刃が内蔵へ達するほど深く入っていくのには案外力が必要だった。途中でごり、と硬い音がして、骨に刃先が当たったと察知する。
 それ以上刃物が進まなくなって焦ってしまい、箇所を替えて男を刺した。浅く刺したはずの一箇所目から、なのに大量の血が出て手がぬめり、さっきよりもうまくナイフを進ませることができない。人を殺すのは楽だろう、早いだろうと思っていたのにそんなことはなく、コツが要るのだと知った。
 刺された男が息を引き取るまでも、やっぱり長い時間がかかった。
 男が死ねば私はひとりだった。世界から身体ごとを切り取られたようにぽつねんとした。私の手はひどく震えていた。メッタ刺しにした義父が息絶え、やっと悪夢から解放されたと思うのに、どこもかしこもとても寒い。体内に、雨が降り続いているような気分だった。
 胃酸がこみあげ、嘔吐きそうになる口もとを抑える。手のひらは血なまぐさい。私の心は、この、路地裏みたいなどん詰まりに在った。
 耳の奥で、車の走行音や人々の笑い声が響いている。脳裏に浮かぶのは家にいるであろう母の姿。まったく平穏で、泣きたくなるほどにやわらかい日常の景色たち。私がもう、二度とは手にできない彩りだった。
 ふと、大きい水溜まりのような影ができている、と、気がつく。こちらへ伸びているのは人影らしかった。輪郭はあいまいで、黒い。たとえばちょうど、奈落へ続く落とし穴に似ている。

「あれ〜、もう死んでる。先越されちゃったか」

 梅雨時みたいな声がした。もしくは死体が埋まった桜の木の、下の土みたい。じめじめした声音をふり仰ぐようにすると、そこに立っていたのはトレンチコートを着込んだ男の人。なかはめずらしいほど派手な柄シャツで、背に大ぶりなジュラルミンケースをしょっていた。
 彼は両手をポケットに入れている。夜中そっくりの長い黒髪が、すこし、なびく。瞳にも明度はなく、いやに翳りをおびていた。影法師みたいな人だと思った。

「こ……こないで」
「え〜。どうして?」

 一歩ずつ、緩慢な動作で近づいてくる彼を前に気が動転する。だってなにも誤魔化せそうにない。いくらナイフをもっていないとはいえ、それはすぐ傍に転がっているし。この手は血まみれだし。私はいま、どこからどう見ても人殺しだ。
 しりもちをついたまま、後ろ手で身体をひきずった。巨大な影から逃れたくてどうにかあとずさる。でも間に合わない。──逃げられない。

「っ、」

 お互いの足と足が、当たる。
 トレンチコートの彼が腰をかがめる。

「危ない」

 そうして、ひとことつぶやきながら、私の二の腕をつかんだ。武骨な指は、血に汚れた腕の内側をなぞるみたいにすべっていく。手のひらまでもなぞられて、最後は指先を持ち上げられた。指の腹同士が重なり、爪のあたりで絡み合えば、私のものじゃない体温が伝染する。
 彼の仕草はしなやかだ。浮き立つほど優雅だった。

「それ以上後ろに下がったら、ぶつかるよ」

 黒い瞳にじいっと見詰められる。

「さわりたくないでしょ?殺すほど憎んでた相手の死体に」

 目を見ひらく。影法師は口角をあげた。内面どころか人生までを見透かされた心地がして、憂鬱になる。

「にくんで、ない。ころす、つもりもなくて」
「嘘つきさんだなあ〜」

 彼のくちぶりは妙に落ち着いていた。しゃがみこみ、私の背後、死絶した男の亡骸をじろりと観察する。

「あの血の量。何回も刺さないと、普通ここまで出血しない。こんな殺り方、あきらかな殺意がありましたって主張するようなものだよ」

 返事ができない。身体が小刻みに震えるのさえも、抑えられなかった。全身、私の肉体ではなくなったみたいに言うことを聞かないし、おそろしく寒くてたまらない。ここはきっと冬の底だ。私は二度と上へ這い上がれない。
 うつむくと、いまさらになってやってしまった≠ニいう感情が芽生えた。
 直後。

「助けてあげよっか」

 呑気な歌声みたいな問いかけに、びっくりして顔を向ける。にこにこと微笑む彼は穏やかで、いかにも人の好さそうなオーラをまとっていた。笑顔を凝視してしまう。

「僕ならこの場をどうにかできるけど。あの人の死因を偽装して、きみのことは元通りの生活に戻す」
「そんなこと、」
「……できるわけない、と思う?」

 彼があごを引くと、眼に鋭さが灯った。漆黒の長い前髪が両の瞳にかぶっている。すきまから覗くのはとげとげしい、刃物とうりふたつの眼光。まっすぐ見竦められて息を呑む。

「僕がきみを助けてあげるよ。ただし……その代わり」

 やけに形のいい唇が、まろく囁いた。

「きみには僕のものになってもらう」

 ざあっ、と風が吹き抜ける。周囲の枯れ葉が散り散りに舞う。だけど木枯らしみたいというよりは、春のおとずれを報せるような風だった。

「……やだな〜、そんな顔しないでよ。うーん、言い方がマズかったか。変なことをしようとかは考えてない、きみにはただ、僕の家の管理をしてほしくて」
「家の管理……?」
「たとえば掃除とかさ。僕、お掃除嫌いなんだよね〜。仕事でも清掃みたいなことするのに、帰ってまでやりたくないよ」
「はあ……」
「コッチで人材探しても、諜報員だったりするしさあ。せっかく来歴を確かめて、素性の割れてる真っ当な人間を見つけたと思ったのにだよ?やんなっちゃう」

 数秒前と打って変わり、しょんぼり、といった様子をみせる彼はなんだか子供じみている。死体が転がっている場所でのやりとりだとは、とうてい思えなかった。

「でも、きみは信用できる」
「……なんでですか」

 人殺しである私を見据える闇夜の瞳。そこには善良な真面目さも幼稚な不真面目さも、いっしょくたになってにじんでいる。

「いま罪人になったばっかりだから」

 ぐっと、喉を絞められるような気持ちがした。
 口をひらく前にどうにか肩を張り、力を入れる。言葉が震えてしまわないようにと。

「この話に乗らなかったら、私のこと、警察に突き出すの」
「そういうこと〜」

 取引というかこれは脅しだ。交渉を飲めば最後、彼に騙されるかもしれないし、家に踏み入れば酷いことをされるかもしれない。だけどいまの私に選択権はなかった。それに──ここでつっぱねるより、受け容れたほうが未来は明るくなるような気がする。なんとなくだけど、そんな気がしている。

「わかった」

 今日からあなたのものになる、とうなずけば、トレンチコートがはためいた。彼が立ち上がったのだった。
 にこ、と優しい笑みを表情に含んだあとでこちらに背を向け、スマホを耳に当てる。会話はところどころしか聞き取れなかったものの、通話相手は警察ではないらしい。フランクに受け答えをしつつ、ときおり談笑したりもしていたから。
 電話は数分と経たずに終了する。男物の革靴が、足音が再び近づく。
 ビルの合間の空、頭上の空がゆるやかに晴れだした。雲が流れ、太陽の光が私たちを射抜く。陽光が当たれば、彼の漆黒の髪は、やや緑がかって映った。

「行こっか」

 ふわり、なんの前触れもなく羽織らされたのは大きなトレンチコート。いままで身につけられていたもので、つつまれれば人肌に似たぬくもりをおぼえる。

「行くって、あの……死体は」
「大丈夫。すぐに、ここをきれいにしてくれる人たちが来るから。……あ、そうだ、自己紹介がまだだったね。僕は南雲」
「……南雲さん」
「そ、よろしくね〜」

 都会が嫌いだった。どこを歩いても人にぶつかるし、みんなゾンビのような顔つきで生きている。どれだけ困窮してもあたたかい手をさしのべてくれる人はいない。喧騒の真ん中でひとり立ち尽くし、自分に味方はいないんだと思い知る。
 だけどそんななか、この人は。

「おいで」

 南雲さんは私の罪を見つけ、その原罪を、一緒に背負ってくれると言う。
 こくりと唾を嚥下した。手招くみたいに言葉を発した彼にうなずき、足を踏み出す。上から注がれる太陽の陽射しが南雲さんの姿を逆光にさせている。たゆたう光のなかにいても、南雲さんは相変わらず、影法師みたいだった。
 辺りにはまだ血のにおいが充満している。でも、後ろをふり向くことはしない。一心に南雲さんへ追いつくと、となりを歩いた。サイズの合わない大きなトレンチコートを着ていては歩きづらいけれど、ナイフのなくなったポケットのぶんだけ、足取りも軽い。
 ビルの群れを出る。まぶしい陽光が柄シャツの輪郭を溶かすようににじみ、私のほうへ射してくる。凝り固まった全身をほぐして撫でていく。それがあまりにあったかいから、季節はもうすぐ春になるのだろうと感じた。



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